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心戦の書——禁断の軍師

第1話 第1話

第1話

第1話

陸暁風が初めて戦場の匂いを嗅いだのは、八つの頃だった。

父・陸淵が凱旋した日、出迎えの列に紛れて軍営の端まで走った。血と泥と、焼けた革鎧の匂い。それが混じり合って、幼い鼻腔の奥にこびりついた。兵たちの顔は一様に疲れ切っていたが、父だけは違った。汚れた甲冑の下で、穏やかな目をしていた。「暁風、見たか」と父は言った。「あれが戦だ。だが俺の仕事は、あれを起こさないことだ」。その言葉の意味を、暁風はずっと後になって理解する。

魏昌国の西方三郡を束ねる筆頭軍師・陸淵。その名は敵国にまで轟いていたが、陸家の屋敷はおよそ武門の棟梁とは思えぬほど静かだった。広大な書庫には古今東西の兵書が並び、中庭には梅と竹が植わり、朝には鳥の声が響く。暁風の日常は、その書庫の中にあった。

十六になった暁風は、父の陣幕に出入りすることを許されていた。才があったからだ。一度見た布陣図を、そのまま紙に写し取れる。千の兵の配置を、碁盤の目のように頭の中に並べられる。父の幕僚たちは暁風を「小軍師」と呼んで持て囃したが、暁風自身にその気負いはなかった。書庫で古の戦記を紐解く時間の方が、陣幕に立つよりもずっと好きだった。

「また読んでいるのか」

声に顔を上げると、父が書庫の入口に立っていた。夕暮れの光が背後から差し込み、長身の輪郭を橙色に縁取っている。

「周の武王が牧野で殷の大軍を破った戦記です。七万で七十万を——」

「結果は知っている」陸淵は笑みを浮かべて暁風の隣に腰を下ろした。「だがな、暁風。書物に記された戦とは、勝者が書いたものだ。敗者の兵がどう死んだかは、一行も残らん」

暁風は頁を繰る手を止めた。父がこういう語り口をするときは、何か伝えたいことがある。

「父上は、戦が嫌いですか」

「嫌いだ」即答だった。「だから勝つ。戦わずに済む形で、勝つ。それが軍師の本懐だ」

陸淵はそう言って立ち上がり、書庫の奥——暁風が一度も開けたことのない鍵付きの棚に目をやった。そこには布に包まれた一巻の書が収められていることを、暁風は知っていた。幼い頃から気にはなっていたが、父が触れることを許さなかった。

「父上。あの書は何ですか」

陸淵の背が、わずかに強張った。長い沈黙のあと、振り返らずに言った。

「俺の兵法のすべてを記した書だ。だが読むな、暁風。あれは——人を壊す」

その声には、暁風が聞いたことのない重さがあった。父の広い背中が、夕暮れの逆光の中でいつもより小さく見えた。暁風は言葉を継げず、ただ父の背を見つめていた。棚の奥の布包みが、薄闇の中でかすかに白く浮かんでいるのが視界の端に映った。

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その夜、陸家の広間で酒宴が催された。十年来の盟友である副将・趙閻が、北方の鎮撫から帰還したのだ。

趙閻は大柄な男だった。陸淵とは対照的に声が大きく、よく笑い、兵たちに慕われる猛将だった。暁風にとっては幼い頃から「趙の叔父上」と呼ぶ、父に次いで身近な武人である。

「暁風、また背が伸びたな」趙閻は杯を掲げて笑った。「その歳で陣幕に立つとは、さすが陸淵の倅だ」

「叔父上こそ、北方を半年で平定されたと聞きました」

「はっ、平定などと大げさな。山賊どもを追い散らしただけよ」

広間には笑い声が満ちていた。陸家の将兵と趙閻の部下が入り混じり、杯を交わしている。暁風は末席で酒を舐めながら、この光景がずっと続くものだと思っていた。

宴もたけなわの頃、陸淵が珍しく酔った。普段は二合で杯を伏せる父が、趙閻と語り合ううちに何杯も重ねていた。暁風が水を持っていくと、陸淵は息子の手を掴んだ。

「暁風」

「はい、父上」

「いいか。俺が遺すものは、あの書庫の書だけだ。兵法も、将兵も、領地も、いずれ移ろう。だが知は残る」

酔いのせいだろうと暁風は思った。父が感傷的になることは滅多にない。

「ただし——あの一巻だけは、読むな。約束しろ」

再びあの書のことだった。暁風は頷いた。「わかりました、父上」

陸淵は目を閉じ、小さく息を吐いた。まるで何かを諦めたような、あるいは安堵したような、奇妙な表情だった。

趙閻がそのやり取りを見ていたことに、暁風は気づかなかった。盟友の目の奥に、一瞬だけ冷たい光が走ったことにも。

宴が終わり、客将たちが去った広間に、酒と炭の残り香が漂っていた。暁風は酔い覚ましに中庭へ出た。夜空には星が散り、梅の枝が微かに揺れている。どこか遠くで犬が吠えた。穏やかな夜だった。これが最後の穏やかな夜になるとは、知る由もなかった。

暁風は自室に戻り、灯を消して横になった。瞼の裏に、父の言葉が反芻される。「あれは人を壊す」。何が人を壊すのか。兵法書がなぜ人を壊すのか。寝台の中で考えているうちに、いつしか意識が沈んでいった。

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目が覚めたのは、音のせいだった。

最初は夢かと思った。腹の底に響くような低い地鳴り。次に、甲高い金属音。剣が鞘走る音を、暁風は書物の上でしか知らなかったが、それだとわかった。

跳ね起きて寝所の戸を開けた瞬間、熱い風が顔を打った。

屋敷の東棟が、燃えていた。

炎は既に屋根を舐め尽くし、火の粉が夜空に渦を巻いている。その光の中に、暁風は見た。陸家の門前に整然と並ぶ兵列。掲げられた軍旗。

見間違えようもない。黒地に金の虎——趙閻の旗印だった。

「何が——」

声が出なかった。喉が引き攣り、足が竦む。訓練された兵の怒号と悲鳴が、暁風の思考を寸断した。

庭を走る人影が見えた。陸家の近衛兵だ。だがその半数は既に地に伏し、残りも趙閻の精鋭に押し包まれている。寝込みを襲われたのだ。甲冑も着けず、武器も満足に取れぬまま斬り伏せられていく。

「暁風様! お逃げください!」

声の主は、暁風の傅役を務めた老将・周朴だった。片腕から血を流しながら、暁風の前に立ちはだかる。その白髪が炎に照らされて赤く染まり、老いた体が信じがたい気迫で暁風を背に庇っていた。

「周爺、父上は——」

「旦那様の陣幕は最初に囲まれました。もう——」

周朴の言葉は、飛来した矢に断ち切られた。老将の体が崩れ落ちる。暁風の足元に、温かい血が広がった。

頭が真白になった。膝が笑い、視界が歪む。だがその歪みの中で、暁風の目はひとつのものを捉えていた。書庫。まだ燃えていない。東棟の炎がやがてそこにも回る。あの書がある。父が「読むな」と言った、あの一巻が。

気づいたときには走り出していた。恐怖でも勇気でもなく、もっと原始的な何かが足を動かしていた。失われるものが多すぎて、せめて一つだけ、手の届くものを掴まなければならないという、衝動だった。

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書庫の扉を蹴り開けたとき、天井の梁から火の粉が降り始めていた。

鍵付きの棚は、既にひび割れていた。熱で木が歪んだのだ。暁風は素手で棚を引き裂き、布に包まれた一巻を掴み取った。指の皮が焼ける痛みを、その時は感じなかった。煙が喉を焼き、目を刺したが、構わなかった。父の書庫の蔵書が一冊、また一冊と火に呑まれていく音が背後で聞こえた。幼い頃から親しんだ紙と墨の匂いが、焦げた煙に塗り潰されていく。

書庫を出た暁風の目に映ったのは、地獄だった。陸家の屋敷は全棟が炎に呑まれ、庭には動かなくなった人の形が幾つも転がっていた。その中に、母の衣が見えた気がした。弟の小さな体が見えた気がした。だが確かめることはできなかった。確かめる余裕を、趙閻の兵が与えなかった。

暁風は裏手の塀を越え、闇の中を走った。兵法書を胸に抱え、歯を食いしばり、振り返らずに走った。背後で屋敷の大梁が崩れ落ちる轟音が響いた。それが、陸家百年の終わる音だった。

炎の向こうで、趙閻が一巻の巻物を高々と掲げるのが見えた。

「聞け、将兵ども! これは摂政閣下の密勅である! 陸家は謀反を企てた逆賊——この粛清は、朝廷の正義だ!」

兵たちが槍を突き上げ、鬨の声を上げた。その歓声が遠ざかるまで、暁風は走り続けた。胸の中の一巻が、心臓の鼓動に合わせて脈打つように感じた。父の声が、頭蓋の中で木霊している。

——読むな。あれは人を壊す。

暁風の掌の中で、兵法書は炎の温もりを帯びたまま、暗い山道の先へと運ばれていった。

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