第3話
第3話
意識が戻ったとき、最初に感じたのは煙の匂いだった。
書庫の火ではない。松脂と獣脂が混じった、粗野で脂っこい煙。鼻腔の奥がざらつき、反射的に咳き込んだ。その拍子に全身の痛覚が一斉に目を覚まし、暁風は声にならない呻きを漏らした。踝は焼けるように熱く、火傷した指は脈動のたびにずきずきと疼く。背中の擦過傷が粗い敷布に触れるたびに、皮膚が剥がれるような痛みが走った。
「おい、起きたぞ」
頭上から声が降ってきた。目を開けると、無精髭を生やした男が覗き込んでいた。日に灼けた顔、欠けた前歯、額に古い刀傷。その奥に、粗末な天幕の天井が見えた。
暁風の手が、反射的に胸元を探った。——あった。兵法書は、まだ懐にあった。布包みの感触が指に触れた瞬間、体から力が抜けた。
「そいつは取り上げようとしたんだが、気を失ったまま離さねえでやんの」男が顎で暁風の胸元を指した。「よっぽど大事なもんらしい」
暁風は答えなかった。答える気力がなかった。ただ天幕の中を見回し、自分が置かれた状況を把握しようとした。地面に直接敷かれた獣皮。隅に積まれた雑嚢。錆びた剣が一振り、天幕の支柱に立てかけてある。ここが山賊の根城であることは、意識を失う前に見た光景から明らかだった。
「頭領に報せてくる。逃げようとするなよ。その足じゃ無理だろうが」
男が天幕を出ていくと、暁風は一人になった。横たわったまま、天幕の継ぎ接ぎだらけの布を見つめた。光が漏れている。昼だ。あの夜から、少なくとも一晩は経っている。
生きている。それだけが、今の事実だった。
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山賊の頭領は、鄭虎牙と名乗った。
四十がらみの男で、左の耳朶が半分ない。刀で削がれたのだという。元は地方の府兵だったが、上官の横領を告発して追われ、この山に入った。部下は二十人足らず。街道を行く商隊から通行料を巻き上げ、時には荷を丸ごと奪って食い繋いでいる小規模な匪賊だった。
「お前、どこの誰だ」
鄭虎牙は焚き火の前に胡座をかき、暁風を値踏みするように見た。暁風は迷った。陸家の名を出せば、趙閻に売られるかもしれない。だが嘘をつく頭も回らなかった。
「陸暁風。西方三郡の——」
「陸?」鄭虎牙の眉が動いた。「陸淵の陸か」
暁風は黙って頷いた。鄭虎牙はしばらく暁風を見つめ、それから焚き火に枝をくべた。火の粉が舞い上がり、昼の光の中に散った。
「陸家が趙閻に潰されたって話は、もう麓まで回ってる。朝廷の密勅とやらで謀反人扱いだ。お前を匿えば、俺たちも巻き添えだな」
暁風の体が強張った。ここで追い出されれば、もう行く場所がない。
「だがまあ」鄭虎牙は歯を見せて笑った。「俺たちは元から朝廷のお尋ね者だ。今さら一人増えたところで変わらん。それに——」
鄭虎牙は暁風の痩せた体を上から下まで眺め、鼻を鳴らした。
「飯炊きと薪拾いくらいはできるだろう。足が治るまではそれで食わせてやる。治ったら出ていくなり残るなり好きにしろ」
こうして暁風は、山賊の最底辺に加わった。
日々は単調だった。夜明け前に起き、谷川で水を汲み、火を熾し、粥を炊く。薪を集め、天幕の繕いをし、鄭虎牙の部下たちの衣を洗う。軍師の息子としての矜持は、最初の三日で剥がれ落ちた。空腹の前には何の意味もなかった。部下たちは暁風を「書生」と呼び、雑用を押しつけ、時に理由もなく殴った。暁風はそれに耐えた。耐えることしかできなかった。歯を食いしばり、拳を握り、胸の奥に燃え続ける一点だけを見つめた。
復讐。
その二文字だけが、暁風を立たせていた。粥の焦げた匂いを嗅ぎながら趙閻の顔を思い浮かべ、薪を割りながらあの夜の炎を思い出し、殴られて地に伏すたびに、母の藤色の衣と弟の墨染めの指と妹の小さな足を思い返した。身体の傷は日ごとに癒えたが、胸の裡の火は日ごとに深く、暗く、沈み込んでいった。
兵法書は天幕の寝床の下に隠した。誰にも触れさせなかった。夜になると取り出し、布包みの上から指で撫でた。封は切らなかった。父の言葉が、そのたびに脳裏を過ぎる。「読むな。あれは人を壊す」。だが同時に、別の声も聞こえた。読まなければ何も変わらない。二十人の山賊の飯炊きとして一生を終えるのか。趙閻はあの城で、今夜も安穏と眠っているのに。
指先が布の結び目に触れるたびに、心臓が跳ねた。開けたい。開けてはならない。その間で揺れる夜が、幾つも過ぎた。
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山賊の暮らしにも、暁風は次第に目が慣れてきた。
鄭虎牙の一団は粗暴だったが、統率がないわけではなかった。鄭虎牙自身は元府兵だけあって最低限の軍紀を保ち、無益な殺しは禁じていた。商隊を襲っても命までは取らない。「殺せば官軍が本腰を入れる。生かしておけば、また荷を積んで通る」という、打算に基づいた慈悲だった。
暁風は雑用の合間に、山賊たちの動きを観察した。書庫で学んだ兵法の目が、否応なく働いた。見張りの配置には死角がある。食糧の備蓄は十日分もない。武器の手入れは杜撰で、まともに使える弓は三張り。鄭虎牙を含めて剣の腕が立つのは四人ほどで、残りは農具に毛が生えた得物を振り回しているに過ぎない。
これは軍ではない。食い詰めた男たちの寄り合いだ。
だがそれが、暁風にとって唯一の足場だった。
踝の腫れが引き、まともに歩けるようになったのは、山に拾われて半月ほど経った頃だった。暁風は薪拾いの範囲を広げ、山の地形を頭に刻んでいった。谷筋の走り方、尾根の高低、水場の位置、獣道の分岐。すべてが脳裏の地図に書き込まれていく。陸家の書庫で培った空間把握の才は、山中でも健在だった。ただし、その才をどう使うかという問いには、まだ答えがなかった。
ある夜、暁風は寝床で兵法書を取り出し、いつものように布越しに撫でていた。竹簡の角張った感触が指に伝わる。この中に何が書かれているのか。父の兵法のすべて。人を壊す書。開けば何かが変わる。だが開けば、もう戻れない気もする。
逡巡を断ち切ったのは、天幕の外から響いた声だった。
「頭領が戻ったぞ!」
暁風は兵法書を懐に収め、天幕を出た。鄭虎牙が二人の部下を連れて山道を登ってくるところだった。三日前から麓の街に情報を探りに出ていた。その顔に、いつもの不敵な笑みが浮かんでいる。何か掴んできたのだ。
焚き火の前に部下たちが集まった。暁風は末席で膝を抱え、耳を澄ませた。
「面白い話を持って帰った」鄭虎牙は焚き火に手をかざしながら言った。「三日後、趙閻の輜重隊がこの山の南麓を通る。涼州城への補給だ。兵糧に加えて、武具と銀も積んでいるらしい」
部下たちがざわめいた。「規模は?」と誰かが問う。
「護衛は二百から三百。荷車は四十台以上だと」
沈黙が落ちた。二十人の山賊で三百の護衛を相手にするのは、自殺行為だ。部下たちの顔に失望が広がる。鄭虎牙も苦い顔で頭を掻いた。「まあ、指を咥えて見送るしかねえが、腹が立つ話だ」
暁風は膝の上で拳を握り締めていた。趙閻の輜重隊。あの男の兵站を支える荷が、この山の麓を通る。胸の奥で、半月間くすぶり続けた炎が一気に燃え上がった。
あの男に繋がる糸が、目の前にある。
天幕に戻った暁風は、寝床に座り、兵法書を膝の上に置いた。布包みの結び目が、焚き火の薄明かりに浮かんでいる。指が結び目に触れた。父の声が聞こえた。読むな。だがもうひとつの声が、もっと大きく響いた。読まなければ、何も始まらない。
暁風は目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。炎の匂い。血の匂い。母の衣の色。弟の笑顔。妹の小さな手。周朴の最期の叫び。そのすべてを胸の奥に沈め、目を開いた。
指が結び目を解いた。焦げた布が開かれ、竹簡が露わになった。最初の簡に刻まれた文字が、揺れる火影の中に浮かび上がった。
——心戦三十六式。序。
「兵とは詭道なり。されど詭道の極みは刃にあらず、人の心にあり」
父の筆跡だった。暁風の指先が、その刻み跡を辿った。手が震えていた。恐怖か、昂奮か、自分でもわからなかった。ただ、もう引き返せないことだけは、はっきりとわかっていた。