第2話
第2話
荷駄隊が後方の宿場に着いたのは、東の空がわずかに白み始めた頃だった。
街道から外れた窪地に設けられた兵站拠点は、戦の華やかさとは無縁の場所だった。崩れかけた馬小屋、雑草に埋もれた井戸、そして泥濘んだ広場に無造作に積まれた米俵と薬箱。蓮が率いてきた荷駄隊の兵は二十余り——いずれも老兵か、怪我の癒えきらぬ者ばかりで、前線に立てぬ者たちの吹き溜まりだった。
「ここが、俺の戦場か」
呟いた言葉は自嘲にもならなかった。遠く東嶺口の方角に、朝焼けが血のように滲んでいる。あの山向こうで、今まさに父と弟が万を超える赤尾軍と対峙しようとしている。蓮の手にあるのは刀ではなく帳簿と算盤だ。
兵たちが荷を降ろし、天幕を張る気配の中、蓮は一人で拠点の全容を確かめて回った。米の貯蔵量、薬種の種類と数、替え馬の頭数。指で数え、頭の中で計算する。三千の守備兵に対し、ここにある兵糧は——十日分にも満たない。前線が長引けば、飢えが先に味方を殺す。
「若、少しよろしいか」
背後からかけられた声に、蓮は振り向いた。
堂島嘉兵衛。父・厳道の代から黒崎家に仕える側近で、齢は五十に届こうかという痩身の男だった。武辺者揃いの黒崎家臣団の中にあって、堂島は異質な存在だった。槍働きで名を上げたことはない。だが厳道が堂島を手放さないのは、この男の実務の腕が家中随一だからだと、蓮は幼い頃から聞かされていた。
「堂島。あんたも後方か」
「お目付け役を仰せつかりまして」
堂島は穏やかに笑った。だがその目は笑っていない。蓮の顔を静かに観察する眼差しには、品定めとも憐憫ともつかぬ光があった。
「——若は、ご自分がなぜ兵站に回されたか、おわかりですかな」
「厄介払いだろう。わかっている」
「半分は、そうでしょう」堂島は米俵に腰を下ろした。「しかし残りの半分は、殿なりの考えがおありかもしれませんぞ」
蓮は黙った。父の考えなど、知りたくもなかった。だが堂島は構わず続けた。
「兵站とは、戦の胃袋です。剣がいかに鋭くとも、飯を食わねば振れませぬ。そして胃袋を握る者は、戦の全体を見渡せる場所に立つことになる」
「見渡したところで、俺に何ができる」
「まずは、この補給路を歩いてご覧なさい」
堂島は懐から折り畳んだ地図を取り出した。墨で細かく書き込みがなされている。街道の里程、宿場の位置、水場、そして——街道沿いの商家の名と扱う品目まで。蓮は目を見開いた。
「これは——」
「兵站を維持するには、土地の商人との繋がりが要る。彼らは街道の血流です。物が動けば情報も動く。若は城下で商人たちと親しくされていたそうですな。あの力が、ここでは何より役に立つ」
蓮の胸の中で、小さな火が揺れた。城下で喜兵衛たちと交わした会話、帳簿を手伝い、商いの苦労に耳を傾けた日々——あれは無駄ではなかったのか。
「補給路の点検を、今日中に」
堂島は立ち上がり、軽く頭を下げて去っていった。その足取りには無駄がなく、老齢の身にそぐわぬ静かな機敏さがあった。
---
蓮は堂島の地図を頼りに、補給路を歩いた。
宿場から前線へ至る街道は二筋ある。本街道と、山裾を迂回する間道。蓮はまず本街道を辿り、途中の宿場町で荷の中継を担う問屋を訪ねた。
「黒崎の若様でいらっしゃいますか。堂島様からお話は伺っております」
問屋の主人・弥助は、蓮を奥の間に通した。帳場には各地から届いた書状が積まれ、算盤が三つ並んでいる。壁には街道図が貼られ、赤い印で中継地点が記されていた。
蓮は弥助と話すうちに、ある事実に気づいた。この問屋は単に荷を動かしているだけではない。各地の相場、街道の通行状況、旅人の増減——あらゆる情報がこの帳場に自然と集まっている。そしてそれは弥助一人の話ではなかった。
「東嶺口の先、今どうなっている」
「さあ、戦の話は我々にはなんとも。ただ——」弥助は声を落とした。「荷を運ぶ馬借の連中が、東嶺口を避け始めておりましてな。向こうから戻った者が言うには、赤尾の兵が街道の要所に関を設けたと」
関の設置。それは赤尾軍が東嶺口を一時的な侵攻路ではなく、恒久的な支配拠点にしようとしている証左だ。蓮の背筋を冷たいものが走った。
次に向かった間道沿いの茶屋では、女将から別の話を聞いた。
「三日前にね、見慣れない行商が五人ほど通ったんですよ。荷は塩と反物。でもね、行商にしちゃ手が綺麗すぎるし、草鞋の減りが少ない。歩き慣れてない人たちでしたよ」
行商に偽装した間者か。蓮は眉を寄せた。赤尾の密偵が間道まで探りを入れているなら、この補給路も安全ではない。
半日かけて補給路を一巡した蓮は、拠点に戻る頃には頭の中に一つの像を結んでいた。街道筋の商人たちは、それぞれが断片的な情報を持っている。問屋は物流と相場を知り、茶屋は人の往来を見、馬借は道の状態を肌で感じている。一つひとつは些事だ。だがそれらを繋ぎ合わせれば、軍の斥候にも劣らぬ——いや、斥候よりも広く、深い情報の網が浮かび上がる。
城下で喜兵衛から聞いた塩と傷薬の話。あれと同じだ。商人たちの目は、戦場よりもよほど遠くまで届いている。
「堂島の言った通りだ」
蓮は呟いた。兵站は戦の胃袋。そして胃袋に繋がる血管——街道と商人の網は、そのまま情報の網でもある。この網を意識的に使えば、後方にいながらにして戦場の全容が見える。蓮は初めて、後方という場所の意味を捉え直していた。
拠点に戻ると、堂島が天幕の前で茶を淹れていた。
「どうでしたかな」
蓮は補給路の状況を報告した。弥助から聞いた関の話、茶屋の女将が見た偽の行商、間道の危うさ。堂島は黙って聞き、時折頷いた。
「若は、耳がよろしい」
「耳?」
「人の話を聞き、断片を繋ぐ力です。それは教えて身につくものではない。若が城下で年月をかけて培われたもの——天賦と申してもよい」
蓮は面食らった。天賦。その言葉を自分に向けられたことは、一度もなかった。剣の才は弟に遠く及ばず、兵法の知識も書物で齧った程度。父にも家臣にも認められたことのない自分に、天賦などあるものか。
だが堂島の目は真剣だった。世辞を言う目ではない。
「今日見たものを、忘れずにおかれよ。いずれ必ず——」
堂島はそこで言葉を切り、何かを飲み込むように目を伏せた。蓮には、その沈黙の意味がわからなかった。
---
夜半。蓮は眠れずにいた。
前線からの報せはまだない。東嶺口で父と弟がどうなっているのか、後方のこの拠点には何の音沙汰もなかった。焦燥と無力感が腹の底で絡み合い、蓮は天幕を出て夜気を吸った。
空には薄雲がかかり、月は朧に霞んでいる。拠点の篝火はほとんど落とされ、見張りの兵が一人、馬小屋の横でうつらうつらしているだけだった。
そのとき、人影が動いた。
天幕の間を縫うように、一つの影が音もなく拠点の外へ向かっていく。蓮は咄嗟に柱の陰に身を寄せた。影は篝火の残り火をすり抜け、城の方角——ではなく、間道の方へ足を向けた。
月明かりが薄雲の切れ間から差した一瞬、影の横顔が見えた。
堂島だった。
昼間、穏やかに茶を淹れ、蓮に天賦を語ったあの男が、夜半に一人、誰にも告げず拠点を出ていく。その足取りには迷いがなく、この道を何度も通った者の確かさがあった。
蓮の胸に疑念が兆した。だが、それは形を成す前に霧散した。堂島は父の信任厚い側近だ。夜半の外出に何か理由があるのだろう——密偵への連絡か、あるいは前線への独自の情報経路を持っているのか。いずれにせよ、蓮が詮索すべき領分ではない。
蓮は堂島の背中が闇に溶けるのを見届け、天幕に戻った。
眠りに落ちる間際、ふと思った。堂島が向かったのは間道——今日、蓮が歩いたあの道だ。偽の行商人が通ったという、あの道。
だが思考はそこで途切れた。疲労が意識を引きずり込み、蓮は泥のような眠りに落ちた。
翌朝、堂島はいつも通りの穏やかな顔で茶を淹れていた。蓮は昨夜のことを訊かなかった。訊く理由がなかった——この時の蓮には、まだ。