第3話
第3話
兵站拠点に着いて三日が経った。
前線からの報せは断片的で、伝令が一日に一度、汗まみれの馬を引いて駆け込んでくるだけだった。東嶺口の戦況は膠着。赤尾軍一万二千に対し、黒崎勢は急ぎ南から引き戻した兵を合わせてようやく五千。数の不利を地の利で補い、なんとか持ち堪えているという。蓮の進言通り東嶺口が本命だったという事実は、もはや誰の口にも上らない。今はただ、凌ぐことだけが全てだった。
蓮は与えられた任を黙々とこなしていた。米俵の数を確かめ、薬種の消費を記録し、替え馬の蹄鉄を点検する。堂島が初日に教えた要諦——「数を疑え、現物を見ろ、帳簿と実物の間にある差こそが真実だ」——を、蓮は愚直に守っていた。
その朝も、蓮は天幕の中で帳簿と向き合っていた。前線へ送り出した物資の記録と、拠点に残る在庫の突き合わせ。単純な引き算だ。だが三日分の数字を並べたとき、蓮の筆が止まった。
米が合わない。
前線への搬出量と拠点の減少量の間に、一日あたり米二俵分の差がある。二俵——兵にして十人分の一日の飯。些細といえば些細だ。荷崩れや鼠の食害、計量の誤差で説明がつく範囲かもしれない。だが三日続けて同じ方向に同じだけ狂うのは、誤差ではない。
蓮は帳簿を閉じ、米蔵に向かった。
薄暗い蔵の中で、蓮は米俵を一つずつ数え直した。堂島の教えに従い、俵の縄の結び目にも目を配る。黒崎家の兵糧米は、俵の口を左巻き三結びで縛るのが決まりだ。だが蔵の隅に積まれた数俵は、結び目が右巻きになっていた。
他所の米が混じっている。
蓮は眉を寄せた。補給路の途中で調達した米だろうか。だが蓮が補給路を点検した際、街道筋の問屋から米を買い付けた記録はない。では、この米はどこから来た。
蔵を出た蓮は、次に薬種の在庫を確かめた。ここでも数字が微妙に狂っていた。傷薬に使う麻黄が、帳簿上の残量より少ない。消費の記録はない。前線に送った分は別帳に記してある。にもかかわらず、現物が帳簿より減っている。
「堂島」
蓮は天幕に戻り、茶を淹れている堂島に声をかけた。
「帳簿と現物が合わない。米が二俵、麻黄が三包。毎日同じだけずれている」
堂島は茶碗を置き、静かに蓮を見た。
「鼠か、計量の癖か——若はどうお考えですかな」
「誤差なら方向がばらつく。三日とも同じ方向に同じ量だけ減るのは、誰かが意図的に抜いている」
堂島の目がわずかに細まった。そこにあったのは驚きではなく、何かを確かめるような光だった。
「して、犯人の目星は」
「まだだ。だが米の俵に他所の結び目が混じっていた。抜いた分を、別の米で補填して数を合わせようとした痕だと思う。補填が間に合わなくなって、差が表に出始めた」
堂島はしばらく黙り、それから小さく頷いた。
「若の目は確かだ。だが——今は前線が危うい。兵站の内部を騒がせれば、士気に障る。少し泳がせて、流れ先を突き止めてからでも遅くはありますまい」
蓮は堂島の助言に従った。だが帳簿を閉じた後も、胸の底に刺さった棘は抜けなかった。
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その日の午後、蓮は補給路の巡回に出た。表向きは前線への次の搬送の準備だが、本当の目的は別にあった。物資が抜かれているなら、それはどこかに運ばれている。運ぶには道がいる。蓮は間道を歩きながら、道の脇に目を凝らした。
堂島の地図に載っていない細い踏み分け道を、蓮は二本見つけた。一本は獣道に近い藪の中の筋で、人が通った形跡はない。だがもう一本は違った。草の倒れ方が新しく、轍こそないが荷を背負った人間が繰り返し通った跡があった。道は間道から南西へ逸れ、山裾の谷間へ続いている。
蓮はその道を辿りたい衝動に駆られた。だが単独で未知の道に踏み込む危うさは、頭ではわかっている。蓮は踏み分け道の入口に目印の石を置き、拠点に引き返した。
帰路、街道沿いの茶屋に立ち寄った。先日、偽の行商人の話を聞かせてくれた女将がいる。
「ああ、若様。また来なすった」
「少し訊きたいことがある。この三日ほどで、荷を担いだ者がこの辺りを夜に通らなかったか」
女将は首を傾げた。「夜は戸を閉めちまうからねぇ。でも——そういえば、裏の川沿いの道を、夜更けに提灯も持たず歩く影を見たって、うちの下男が言ってましたよ。二晩続けて」
二晩。帳簿の狂いが始まった時期と重なる。蓮の中で断片が像を結び始めていた。拠点から物資を抜き、夜のうちに間道の踏み分け道を通って、山裾の谷間へ運んでいる者がいる。だがその先に何があるのか、誰が何のために——そこがまだ見えない。
拠点に戻った蓮は、改めて帳簿を最初から読み直した。三日分ではなく、蓮が着任する前——堂島が単独で管理していた期間の記録まで遡る。
数字は整然としていた。堂島の筆は几帳面で、搬出と在庫が一分の狂いもなく合っている。だが蓮は一つの異変に気づいた。着任前の搬出記録に、宛先が「本陣」ではなく「中継」とだけ記された行が三つある。中継地点は本街道沿いに二箇所設けてあるが、この三つの「中継」にはどちらの地名も付されていない。行き先不明の搬出が、着任前から存在していた。
蓮は帳簿を閉じ、天幕の入口から外を見た。堂島は拠点の隅で兵たちに指示を出している。穏やかな横顔。信頼を疑う根拠はない——帳簿の宛先が曖昧なのは、戦時の混乱では珍しくもない。だが蓮の脳裏に、昨夜の光景が蘇った。夜半に一人で拠点を出ていく堂島の背中。間道へ向かう、迷いのない足取り。
あの夜、堂島は何をしに行ったのか。
蓮は自分の中の疑念を持て余した。堂島は父の信任を得た忠臣であり、蓮に兵站の要諦を教え、天賦とまで言ってくれた唯一の人間だ。その堂島を疑うことは、今の蓮に残されたわずかな拠り所を自ら壊すことに等しかった。
だが数字は嘘をつかない。帳簿の齟齬は現に存在し、行き先不明の搬出記録がある。そして夜ごとに物資を運ぶ影がある。
蓮は帳簿を懐に収めた。結論を出すのはまだ早い。だが目を逸らすことは、もうできなかった。
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夜半、蓮は眠らずに待った。
天幕の隙間から、拠点の広場を見張る。篝火が落ち、兵たちが寝静まった頃合い——やはり影が動いた。今夜は堂島ではない。荷駄隊の兵の一人だった。痩せた中年の男で、名を源次という。源次は米俵を一つ背負い、音を殺して拠点の外へ出ていく。その足は間道のほうへ——蓮が昼間見つけた踏み分け道の方角へ向かっていた。
蓮は追わなかった。追えば気づかれる。それに今知るべきは、源次が運び先から何を持ち帰るかだ。
一刻ほどで源次は戻ってきた。手ぶらだった。ただ、懐に何かを忍ばせているのか、胸元がわずかに膨らんでいる。源次は自分の天幕に入り、そのまま出てこなかった。
翌朝、蓮は何食わぬ顔で源次の天幕を覗いた。源次は荷の整理に出ている。天幕の中には私物が少なく、ほとんど空だった。だが寝具の下に手を入れると、指先に紙の感触があった。蓮は引き出した。
小さく折り畳まれた紙片。開くと、墨で数字が並んでいた。前線の兵数、配置、交代の時刻——本陣の軍事情報だ。紙の端に朱で押された印がある。見覚えのない紋だった。
蓮の背筋が凍った。
物資を運び出す見返りに、前線の情報を受け取っている。これは横流しではない——敵方との取引だ。物資の流れた先にいるのは、山賊でも脱走兵でもない。赤尾の間者だ。
蓮は紙片を元の位置に戻し、天幕を出た。心臓が早鐘のように打っている。この情報を誰に伝える。堂島か。だが堂島もまた夜半に拠点を出ていた。あの行動と今夜の源次の動きに繋がりがあるのかないのか、蓮には判断がつかない。信じたい気持ちと、数字が示す事実の間で、蓮の思考は引き裂かれていた。
結論を出す猶予は、しかし蓮には与えられなかった。
昼過ぎ、街道の彼方から砂塵が上がった。見張りの兵が叫ぶ。
「早馬! 前線からの早馬です!」
馬から転がり落ちるように降りた伝令は、半身を血に染めていた。肩口を矢で射抜かれ、馬の鬣にしがみついてここまで来たのだ。蓮が駆け寄ると、伝令は蓮の襟を掴み、血走った目で叫んだ。
「本陣が——敵の大軍に、急襲されました。赤尾の別動隊、五千。山を越えて直接——殿の本陣を——」
蓮の視界が白く染まった。本陣の位置を知る者は限られている。山を越えて直接本陣を突く——その経路は、地形を知り尽くした案内がなければ不可能だ。
懐に収めた帳簿の重みが、急に鉛のように感じられた。行き先不明の物資。夜ごとの密行。源次の天幕にあった前線の配置図。すべてが一本の線で繋がろうとしている。
だが今はそれを考えている場合ではなかった。蓮は伝令を抱き起こし、兵たちに怒鳴った。
「手当てを急げ! それから替え馬を一頭——」
声が震えていた。父が、弟が、今まさに炎の中にいる。そしてその炎の種を蒔いた者が、あるいはこの拠点の中にいるかもしれないという疑念が——蓮の喉を内側から灼いていた。