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知将の闇譜――黒崎蓮諜報記

第1話 第1話

第1話

第1話

「黒崎の嫡男は、刀を抜く前に負けている」

その囁きは軍議の間にまで届いていた。広間の末席に座す黒崎蓮の耳に、背後の家臣たちの嘲りが染みるように入り込む。畳の目を数えるふりをしながら、蓮は奥歯を噛んだ。喉の奥に苦いものがせり上がるのを、呼吸ひとつで押し殺す。父・厳道が上座から戦況図を睨み、居並ぶ将たちが固唾を呑む中、蓮だけが場違いな存在として空気に溶けていた。

「東嶺口からの侵攻は牽制に過ぎません」

凛とした声が広間を貫いた。蓮の弟、黒崎颯馬。齢十七にして兵法に通じ、その献策は幾度となく父の採用するところとなっている。颯馬は戦況図の前に立ち、指で敵の布陣を辿った。

「敵将・赤尾の本意は南の穀倉地帯。東嶺口に兵を割けば、南が手薄になります。ここは東嶺口を捨て石とし、南に主力を伏せて待ち構えるべきかと」

厳道の眉がわずかに動いた。感心の色だった。居並ぶ家臣たちも頷き合い、さすがは颯馬殿よと囁く声が漏れる。

蓮は唇を引き結んだ。違う、と思った。先月、城下の穀物商・喜兵衛から聞いた話がある。東嶺口を越えた先の宿場町で、赤尾軍の兵が通常の三倍の塩を買い付けていた。塩の大量購入は長期駐留を意味する。牽制のための軍勢に、なぜそれほどの塩が要るのか。東嶺口は牽制ではない——本気の侵攻路だ。

「父上」

声を発した瞬間、広間の空気が冷えた。厳道の視線が蓮を射る。慈愛はない。期待もない。ただ、なぜお前が口を開くのかという、無言の叱責だけがあった。

「東嶺口は、牽制ではないかもしれません。赤尾軍が東嶺口の先で塩を大量に——」

「商人の噂話か」

厳道の声は低く、それだけで蓮の言葉を断ち切るに足りた。

「軍議の場に、市井の雑言を持ち込むな」

蓮は口を閉じた。広間に忍び笑いが漏れる。颯馬だけが気まずそうに視線を逸らした。その気遣いが、蓮にはかえって堪えた。弟に哀れまれるほど、自分は低い場所にいるのだ。

軍議は颯馬の策で纏まった。南に主力を配し、東嶺口には最低限の守備を残す。蓮が何を言おうと、結論は変わらなかっただろう。変わったことなど、一度もない。

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城下へ降りる石段は、蓮にとって唯一息のつける道だった。

甲冑の軋む音も、家臣たちの視線もここにはない。代わりにあるのは、味噌を煮る匂い、鍛冶の槌音、子どもの嬌声。蓮の足は自然と、東通りの穀物商・喜兵衛の店先に向いた。

「おや、若様。今日はずいぶんとしけた顔ですな」

喜兵衛は枡に小豆を量りながら、愛想のいい皺を寄せた。将軍の嫡男に対する態度としては砕けすぎているが、蓮はこの距離が好きだった。城の中では誰もこんな顔を向けてくれない。

「喜兵衛。この前の塩の話、もう少し詳しく聞かせてくれないか」

「ああ、東嶺口の先の件ですかい」喜兵衛は声を落とした。「それがね、若様。塩だけじゃないんですよ。薬種問屋の辰蔵が言うにはね、傷薬の麻黄と止血の焼明礬も、ここ一月で通常の五倍は流れているそうで」

傷薬の備蓄。それは実戦を見越した準備だ。牽制部隊に傷薬を大量に持たせる将がどこにいる。蓮の中で、断片が一つの絵に組み上がっていく。

「それと——これは旅芸人の一座から聞いた話ですがね」喜兵衛はさらに声を潜めた。「東嶺口の街道沿い、三つの村で井戸の水替えが行われたそうです。古い井戸を浚い、新しい水脈まで掘り直したと」

井戸の改修。大軍が通過すれば水は大量に要る。三つの村で同時に井戸を掘り直したということは、街道を通る兵の数が村の水源では賄えないほど多いということだ。

蓮は目を閉じた。塩の買い付け、傷薬の備蓄、井戸の改修——どれひとつ取れば些事に過ぎない。だが三つ揃えば、東嶺口に万を超える軍勢が本格的に侵攻する準備だと読める。

「若様、どうなすったんで」

蓮は目を開けた。喜兵衛の顔には純粋な心配が浮かんでいる。この男は蓮が将軍の嫡男だから話しているのではない。蓮が毎月店に通い、商いの苦労に耳を傾け、時には帳簿の計算を手伝ってやったから——ただそれだけの縁で、他では聞けぬ話を聞かせてくれるのだ。

だが、この情報をどうする。蓮には、それを上に届ける術がなかった。

軍議で口を開けば「商人の噂話」と切り捨てられる。書状にして父の元に送ったところで、読まれもしないだろう。颯馬に伝えれば、弟はおそらく真剣に聞いてくれる。だが弟の口から出た言葉は弟の手柄となり、蓮は再び「無能の嫡子」として沈黙を強いられるだけだ。

石段を登りながら、蓮は自嘲した。情報は持っている。だが情報を活かす場がない。それは、武器を持ちながら腕を縛られているのと同じだ。

城門をくぐると、異様な空気が流れていた。

伝令の馬が三頭、泡を吹いて繋がれている。家臣たちが慌ただしく行き交い、鎧を着ける音が城内のあちこちから響いていた。蓮の胸に冷たいものが走る。

「何があった」

駆け寄った足軽が、息を切らしながら答えた。

「赤尾軍が——東嶺口より侵攻。その数、一万二千」

蓮は立ち竦んだ。やはり、東嶺口が本命だった。南に主力を回した今、東嶺口の守備は三千に満たない。崩される。

足軽の声が城内の喧騒に呑まれていく。だが蓮の耳には、もうほとんど何も聞こえていなかった。頭の中で、軍議の光景が繰り返される。自分の声。父の一喝。広間に漏れた忍び笑い。あの場で、もう一言だけ——塩ではなく傷薬の話を、井戸の話を続けていたら。いや、続けたところで同じだったろう。「商人の噂話」。あの四文字で、すべては終わっていた。

だが蓮が感じたのは、恐怖よりも深い無力感だった。知っていた。自分は知っていたのだ。それなのに——

「蓮」

振り向くと、父・厳道が廊下の向こうに立っていた。甲冑はまだ着けていない。だがその眼には、戦場に立つ者の凄みが既に宿っていた。

「お前に任を与える」

蓮の心臓が跳ねた。ついに。自分の言葉が届いたのか。東嶺口の危険を進言する機会を——

「後方の兵站を預かれ。補給路の維持と物資の管理だ」

言葉が、一瞬理解できなかった。

「……兵站、ですか」

「出陣は明朝。兵站拠点は後方三里の宿場に置く。お前はそこを動くな」

最前線ではない。策を練る軍議でもない。後方三里——戦場の音すら届かぬ場所で、米俵と薬箱を数えていろということだ。

蓮の拳が白くなるほど握り締められた。爪が掌に食い込み、じわりと鈍い痛みが滲む。言いたいことは山ほどあった。東嶺口が本命だと知っていたのは自分だけだ。その自分を後方に退けるのか。だが喉まで出かかった言葉は声にならなかった。父の背中は既に奥へ消えていく。引き留める言葉を、蓮は持たなかった。

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城門を出る夜、松明の列が闇を焼いていた。

兵站の荷駄を率いる蓮の横を、武装した騎馬の列が追い抜いていく。蹄が地を叩く振動が腹の底に響き、馬体の汗と革鎧の匂いが夜風に混じって流れた。その中に、颯馬の姿があった。弟は蓮に気づくと、手綱を引いて馬を寄せた。

「兄上。俺が前線で必ず——」

「行け」

蓮は弟の顔を見なかった。見れば、自分の中の何かが折れる気がした。

颯馬が唇を噛み、馬を駆って列に戻る。その背中が松明の光に揺れながら、やがて闘に紛れて消えた。

荷駄の車輪が軋む音だけが残った。蓮は手綱を握り直し、後方へ続く道を見据えた。暗い道だった。松明の灯りはすべて前線に向かう兵たちのものであり、蓮のもとには届かない。

——東嶺口は本命だと、自分は知っていた。

その事実だけが、胸の底で燻っていた。だが今は、それを証す機会すら与えられていない。飾り席の副将には、体のいい厄介払いが相応しい。父はそう言ったのだ、あの短い命令で。

荷駄隊の兵が一人、蓮に声をかけた。

「黒崎様、先の分岐はどちらへ」

蓮は地図を広げた。松明を一本だけ借り、暗がりの中で街道の線を指で辿る。前線から遠い街道の、さらに枝道の先。自分が向かうのは、そういう場所だ。

だが蓮は気づいていなかった。この厄介払いこそが、間もなく訪れる壊滅の夜に、自分の命を繋ぐことになるとは。そして後方の闇の中で見た景色が、やがて天下の盤面を変える眼となることを——この時の蓮は、まだ知らない。

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