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虚食のE級——最弱が喰らう禁忌の紋様

第2話 第2話

第2話

第2話

三日は、あっという間だった。

 野外実習の班分けが掲示板に貼り出されたのは、実習前日の昼休みだった。訓練棟一階の廊下に人だかりができている。俺は人垣の後ろから背伸びをして、掲示板を覗き込んだ。

 第一班——神代、椎名、ほか三名。A級とB級で固めた精鋭。先行偵察および制圧担当。  第二班——三谷を含むC級中心の中衛。索敵と連絡線の確保。  第三班以降も、それぞれの得意な術式に応じて配置されている。合理的な編成だった。各班に最低一人はB級以上が入り、C級が補佐する。教科書通りの布陣。

 そして最後。後方支援班。

 咲島蓮。咲島凪。ほか二名。

 名前を見た瞬間、隣にいた同級生が小さく笑ったのが聞こえた。「E級の兄妹か、余り物だな」。聞こえるように言ったのか、本当に独り言だったのか。どちらでもいい。事実だ。

 後方支援班の役割は、ベースキャンプの維持と負傷者の応急処置、物資の管理。前線には出ない。戦闘能力が求められない代わりに、誰からも期待されない。余った人間を押し込む場所。俺の定位置だった。

 ただ、凪と同じ班になれたことだけは——正直、少しだけ安堵した。

 昼休みの食堂で、凪が嬉しそうに手を振っていた。

「お兄ちゃん、同じ班だね!」

「ああ」

「よかった。知らない人ばっかりだったらどうしようって思ってたの」

 凪の顔色は、三日前の病室よりも良かった。頬にわずかに赤みが差している。外に出られるという期待だけで、人の体はこうも変わるものなのか。トレイの上のうどんを嬉しそうにすすっている姿を見て、俺は黙って自分の味噌汁に口をつけた。

「ねえ、後方支援班って具体的に何するの?」

「テントの設営、通信機器の管理、物資の仕分け。地味な作業だ」

「私にもできる?」

「できる。体力的にきつかったら言え」

 凪が小さく頷いた。もう少しだけ何か言いたそうに唇を動かしかけたが、結局は「うん」と笑って、うどんの汁をれんげですくった。

 その手が細すぎることに、いつも目が行く。

 実習前夜。寮の自室で、俺は机の上に缶コーヒーを一本置いた。

 左手の指先を缶に当てる。意識を集中する。体の中心から指先へ、微かな熱の流れを逆転させるイメージ。学園で教わった術式の基礎理論とは全く別の、俺だけの感覚。熱を操るというより、体の内側と外側の温度差をわずかに傾けるような——曖昧で、心許ない手応え。

 十秒。二十秒。三十秒。

 缶の表面温度が、指先を通じて感覚的に分かる。室温二十三度の部屋に置いてあった缶が、二十度まで下がった。あと少し。もう少し——。

 一分後、手を離した。缶を手のひらで包む。ぬるい。冷たいとは言えない。せいぜい自動販売機の「つめたい」に遠く及ばない程度の、中途半端な冷たさだった。

 逆に温める方を試す。右手を当てて、今度は熱を押し出すイメージ。室温の缶がゆっくりと温まっていく。二十五度。二十七度。三十度——そこで頭の奥に鈍い痛みが走り、俺は手を引いた。

 七度上げるのが限界。しかも触れている面だけで、缶全体を均一に温めることすらできない。持ち替えれば反対側はまだ冷たいままだ。

 これが、俺の異能の全てだった。

 机の引き出しから、入学時に渡された異能評価書を取り出した。何度も読んだ紙は折り目が擦り切れている。

『異能等級:E。温度操作系・微弱。戦闘適性:なし。特記事項:術式への発展可能性は認められず、現状維持が妥当と判断する。推奨任務区分:後方支援もしくは事務補助。五年後再評価予定なし』

 五年後再評価予定なし。つまり変わる見込みがないということだ。最初から、成長の余地すら認められていない。

 評価書を引き出しに戻した。缶コーヒーのプルタブを開け、ぬるくなったそれを一口飲む。不味い。冷たくも温かくもない飲み物は、ただ液体が喉を通るだけだった。

 明日の実習で、俺にできることは何もないだろう。凪の傍にいることくらいしか。それすらも、本当に何かあったとき、守る力の裏付けがない。

 拳を握った。サンドバッグを叩いたときの擦り傷が、まだ指の関節に残っている。この拳で殴れるのは、革のバッグだけだ。危険指定体の外殻を拳で砕くA級の連中とは違う。

 窓の外で、遠くに鎮守府の結界塔が青白く光っている。あの塔が街を守っている。A級やB級の異能者が、命を張って結界を維持している。俺はその恩恵の中で、缶コーヒーをぬるくしている。

 ベッドに横たわり、天井を見上げた。明日は五時起き。集合は六時。装備は後方支援用の軽量キットと通信機器。リストを頭の中で復唱しながら、いつの間にか意識が沈んでいった。

 午前六時。学園の正門前に、実習参加者五十名が整列した。

 四月の朝の空気はまだ冷たく、吐く息がわずかに白い。俺は支給された迷彩柄のフィールドジャケットの袖を引っ張り、E級の刻印を隠した。凪は俺の隣で、同じジャケットを小さな体に纏っている。サイズが合っておらず、袖が指先まで余っていた。

「寒い?」

「大丈夫。ちょっとだけ、わくわくしてる」

 凪の目が輝いている。病室では見たことのない表情だった。風が凪の髪を揺らし、朝日が睫毛の先に小さな光を落としている。こんな単純なことが——外の空気を吸って、同年代と並んで立つことが、この子にとってはこれほど特別なのだ。

 バスに揺られて一時間半。街は遠ざかり、窓の外に山林の緑が広がっていく。車内では各班が最終確認をしている。第一班の神代が術式の展開手順を班員に説明する声がバスの前方から聞こえる。後方支援班は最後列で、ほかの二名——名前も覚えていない同級生が居眠りしていた。

 凪は窓に額をつけて、流れる景色を黙って見ていた。

 バスが停まり、全員が降車すると、森の匂いが鼻を突いた。土と湿った落ち葉と、かすかに混じる鉄のような異臭。これは——結界の残滓の匂いだ。この区域には鎮守府が張った封じの結界がある。低ランクの危険指定体だけが通過できるフィルター結界で、実習用に安全マージンを設けてあるはずだった。

 教官の桐生が拡声器で指示を飛ばす。各班、指定ルートに従って森林区域へ侵入。後方支援班はベースキャンプの設営後、通信回線を確立して待機。

「行くぞ」

 俺は凪に声をかけ、キャンプ資材を担いで指定地点へ向かった。テントを張り、通信機器を組み上げ、周波数を合わせる。単純な作業だが、凪は一つ一つの工程を真剣にこなしていた。ペグを打つ手つきがぎこちないのは経験不足のせいで、手を抜いているわけじゃない。

 通信機のスイッチを入れた。スピーカーから教官の声が聞こえてくる。

『第一班、ポイントA到達。異常なし』 『第二班、ルートB進行中。微弱な霊圧反応あり、警戒態勢で前進』

 順調だった。予定通り。何も起きない実習で終わってくれ——そう願った矢先だった。

 通信機から突然、甲高いノイズが噴き出した。

「っ——」

 俺は反射的にボリュームを絞った。凪が驚いて目を見開いている。ノイズは単なる電波障害ではなかった。周波数を変えても消えない。全帯域に乗っている。まるで空気そのものが震えているような——異能由来の干渉だった。

『——ザッ——各班——ザザッ——応答——』

 教官の声が途切れ途切れに聞こえる。俺は通信機のダイヤルを回しながら、凪を見た。

「中に入ってろ」

「え?」

「テントの中だ。外に出るな」

 凪が何か言い返そうとした。その瞬間、森の奥から重い振動が伝わってきた。地鳴りではない。空気の層がたわむような、異質な圧。木々の梢が一斉にざわめき、鳥が暗い空へ散っていった。三日前、病院の窓から見た光景と同じだった。

 通信機が完全に沈黙した。ノイズすらも消え、不自然な静寂が森を包む。凪が俺のジャケットの裾を掴んでいる。その指先が震えていた。

 俺は左手を凪の手に重ねた。指先に意識を集中し、わずかに温度を上げる。体温操作——できることはこれだけだった。凪の冷えた指が、ほんの少しだけ温まる。

 それしかできない自分が、吐き気がするほど嫌だった。

 森の奥で、何かが目覚めた気配がした。

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