第1話
第1話
模擬戦の開始を告げるブザーが鳴った瞬間、訓練場の空気が変わった。
正面のリングでは、A級候補の神代が右手に蒼い雷を纏わせている。対するB級の椎名は地面から石柱を三本、まるで指揮者のように操り上げた。観覧席の同級生たちが湧く。術式の応酬。閃光。爆音。誰もが目を輝かせて、自分もああなりたいと思っている。
俺はリングから最も遠い隅で、サンドバッグを殴っていた。
左ジャブ、右ストレート、左フック。拳が人工皮革を叩く乾いた音は、リングの派手な爆発にかき消される。誰も見ていない。見る価値がないから当然だ。バンテージを巻いた拳の皮が擦り切れて、薄く血が滲んでいる。痛みだけが、自分がまだここにいることを証明してくれる。
咲島蓮、十六歳。鎮守府学園に所属する異能者——という肩書きだけは一人前だが、与えられたランクは最底辺のE級。異能は「微弱な体温操作」。触れたものの温度をわずかに上下させる。それだけ。缶コーヒーをぬるくするのがせいぜいで、戦闘には何の役にも立たない。
左の二の腕に刻まれたE級の刻印が、汗で滲んだ制服の下でじくじくと疼く。入学時に焼き付けられるこの等級印は、異能者としての格をそのまま肌に刻む。AからEまで。俺の腕には、最低を示す一本線が一つだけ。
「おい咲島、また一人でサンドバッグ叩いてんのか」
振り向くと、同じクラスの三谷が薄笑いを浮かべて立っていた。その背後に取り巻きが二人。三谷のランクはC級。風圧を操る術式で、模擬戦ではそこそこの成績を収めている。
「模擬戦出ねえの? あ、出ても意味ねえか。温度ちょっと変えるだけじゃな」
取り巻きが笑う。俺は拳を下ろし、タオルで汗を拭いた。タオルの繊維が擦り切れた拳に触れて、小さく顔をしかめる。
「体術だけでも基礎は積める」
「基礎ねえ」三谷が鼻で笑った。「E級が基礎積んだところで、E級だろ。異能なしで戦える相手なんかいねえよ、現場じゃ」
三谷が無造作に右手を振ると、風圧が俺の前髪をさらった。大した力ではない。だが術式の気配が肌を撫でるだけで、自分との差を否応なく突きつけられる。
反論はしない。事実だからだ。
異能者の戦闘において、体術はあくまで補助手段でしかない。術式を持たない人間が前線に立つことはない。俺が毎日サンドバッグを叩いているのは、戦えるようになるためじゃない。戦えないなりに、せめて逃げ足だけは鍛えておくためだ。
三谷たちが去った後、俺はもう三十分だけサンドバッグを叩いてからシャワーを浴び、学園を出た。更衣室の鏡に映った自分の体は、同級生と比べて特別鍛えているわけでもない。ただ痩せているだけだ。夜勤続きで食事を削っているせいで、肋骨の影がうっすら浮いている。
午後六時の電車は帰宅ラッシュで混んでいた。イヤホンから流れるヒットチャートの新曲。改札の電子音。駅のホームに並ぶスーツ姿の通勤客たち。この人たちの大半は、異能者の存在すら知らない。鎮守府は政府の非公開機関で、異能者が社会の裏で危険指定体と戦っていることは一般には秘匿されている。
俺は制服の袖をそっと引き下げて、刻印を隠した。電車の窓に映る自分の顔は、どこにでもいる高校生にしか見えない。隣に立つサラリーマンが疲れた顔でスマートフォンを眺めている。この人の日常を脅かす何かが、この街の地下や山奥に潜んでいることを、この人は知らない。知らないまま生きていける。それは、たぶん幸福なことだ。
コンビニに着いたのは六時半。夜勤のシフトは七時からだが、早めに入って品出しを片付ける。時給は深夜帯で割増がつくとはいえ、学園の寮費と凪の見舞い用の果物代でほとんど消える。
「咲島くん、今日も早いね」
店長の佐伯さんが奥から声をかけてきた。四十代の温厚な人で、シフトの融通を利かせてくれるありがたい存在だ。
「テスト前でも関係なく来るんだから、真面目だよほんと」
真面目なんじゃない。来るしかないだけだ。
レジに立ちながら、俺は左手で缶コーヒーに触れた。指先に意識を集中すると、微かに温度が下がる。ほんの二、三度。冷蔵庫に入れ忘れた商品をごまかすくらいには使える、情けない異能。それでも、この力があるから俺は鎮守府学園に籍を置ける。
異能者として登録されている限り、家族は異能者医療の対象になる。凪が受けている治療は、一般の医療では不可能なものだ。異能者医療を失えば、凪の体はもたない。
だから辞められない。E級と笑われても、サンドバッグしか殴れなくても。
深夜二時、客足が途絶えた店内で、俺はレジカウンターに肘をついて目を閉じた。蛍光灯の白い光が瞼の裏に滲む。このまま眠ってしまいたい衝動を、腕の刻印の鈍い疼きが引き戻す。あと四時間。それだけ耐えればいい。
夜勤を終えて、始発で病院に向かった。鎮守府系列の医療施設は都心から外れた丘の上にあり、一般病棟とは別棟で管理されている。受付で異能者証を見せると、いつもの看護師が「凪ちゃん、今日は調子いいですよ」と教えてくれた。
個室のドアを開けると、ベッドの上で凪が本を読んでいた。
「あ、お兄ちゃん」
十四歳の妹は、入院着の中で痩せた体を起こして笑った。肌は白いを通り越して透けるようで、腕に繋がれた点滴のチューブが痛々しい。だが目だけは、昔と変わらず澄んでいた。窓から差し込む朝の光が、凪の横顔を柔らかく照らしている。その輪郭があまりに細くて、光に溶けてしまいそうに見えた。
「今日はみかん。あと、プリン」
「やった。コンビニの?」
「佐伯さんがおまけしてくれた」
凪が嬉しそうにプリンの蓋を開ける。カラメルの甘い匂いが、消毒液の染みついた病室の空気に混じった。俺はベッド脇の椅子に座り、窓の外を見た。丘の上からは街が一望できる。朝日が高層ビルのガラスに反射して、街全体がオレンジ色に染まっている。
ここに凪を置き続ける。そのためだけに、俺は学園にしがみつく。
「ねえ、お兄ちゃん」
凪がプリンを食べる手を止めて、少し改まった声で言った。
「なに」
「あのね、野外実習——私も参加許可が出たの」
俺は振り向いた。凪が嬉しそうに、でも少し不安そうに、こちらを見ている。
「担当の先生が、体調が安定してるから後方支援班なら大丈夫だって。久しぶりに外に出られるの、楽しみで」
凪もE級の異能者だ。だが俺と違って、異能を使う機会すらないまま病室で過ごしてきた。野外実習への参加は、凪にとって学園生活の数少ない「普通」を手に入れるチャンスだった。
「……そうか」
本音を言えば、嫌だった。
野外実習は低ランクの危険指定体が出没するエリアで行われる。後方支援班は前線に出ないとはいえ、凪の体は常人より遥かに脆い。何かあったとき、E級の俺に凪を守れる力はない。
拳を握った。今朝まで叩いていたサンドバッグの感触が、まだ手のひらに残っている。あの鈍い衝撃は、人型の危険指定体には蚊に刺されたほどにも感じないだろう。分かっている。分かったうえで、俺にはそれしかない。
だが、凪の顔を見れば分かる。この子はずっと、白い天井とチューブだけの世界で息を詰めて生きてきた。俺が不安だからという理由で、その世界に押し戻す権利なんかない。
「楽しみだな」
俺は笑った。できるだけ自然に。
「うん!」
凪が満面の笑みを浮かべた。それだけで、夜勤明けの疲れが少し和らぐ。
病室を出て廊下を歩きながら、俺は左腕の刻印を見下ろした。E級の一本線。この線が消える日は来ないだろう。この力が何かの役に立つ日も、たぶん来ない。
それでも——凪がいる限り、俺は此処にいる。
最弱のまま、しがみつく。それが、咲島蓮という異能者の全てだった。
ポケットの中で、学園からの通知端末が震えた。野外実習の詳細日程。三日後。場所は、鎮守府管轄の山間森林区域。参加者名簿のファイルを開くと、後方支援班の末尾に「咲島凪」の名前があった。小さな活字が、妙に重く目に焼きついた。
俺はその画面を見つめたまま、なぜか背筋に薄い悪寒が走るのを感じた。廊下の窓の向こうで、朝焼けの空に鳥の群れが一斉に飛び立つのが見えた。まるで何かから逃げるように、山の方角から。