第3話
第3話
霧だった。
森の奥から這い出してきたのは、生き物でも術式でもない——霧そのものだった。
地表を舐めるように広がる乳白色の靄が、木々の根元を呑み込んでいく。速い。歩く速度よりも、走る速度よりも速く、まるで意志を持った水面のように地形に沿って膨張していた。湿った土の匂いが消え、代わりに金属を舐めたような無機質な気配が鼻腔を刺す。俺は凪の腕を掴んで後退しながら、その霧の先端を見た。
白ではなかった。近づくと分かる。霧の粒子一つ一つが、微かに灰色がかった光を帯びている。光というより——何かを吸い取った後の残滓のような、生気を失った色。見ていると目の焦点がずれる。遠近感が狂う。三メートル先の木が十メートル先にあるように見え、次の瞬間には手を伸ばせば届く距離に迫っている。空間そのものが霧に侵食されている——そんな錯覚が、錯覚でないかもしれないという恐怖が、背筋を掴んだ。
「お兄ちゃん、これ——」
「喋るな。息を浅くしろ」
理屈は分からない。だが本能が警告していた。この霧を深く吸い込んではいけない。凪が咄嗟に袖口で鼻と口を覆ったのが視界の端に映った。俺も上着の襟を引き上げ、浅い呼吸を意識する。肺の奥が、すでにわずかに痺れている気がした。
通信機は依然として沈黙している。ベースキャンプのテントはすでに霧の縁に触れていた。テントの布地に霧が絡みつくと、繊維が灰色に変色し、乾いた音を立てて崩れた。まるで何十年も風雨に晒されたかのように、一瞬で朽ちていく。崩れた布の断片が地面に落ちる前に灰になって散った。金属のポールだけが、支えを失って倒れる。
——喰っている。
この霧は、触れたものの「何か」を喰っている。
俺は凪の手を引いて走った。ベースキャンプを放棄し、森の入口方向へ。バスが停まっていた道路まで戻れれば、結界の外に出られるはずだ。足元の落ち葉を蹴散らしながら、後方支援班の残り二名を探したが、姿が見えない。霧に呑まれたのか、先に逃げたのか。考えている余裕はなかった。凪の手が俺の掌の中で小刻みに震えていた。握り返す力だけが、いま確かなものだった。
百メートルほど走ったところで、森の奥から爆発音が連続した。術式の炸裂する音だ。教官陣が交戦を開始したらしい。蒼い閃光が霧の向こうに明滅し、一瞬だけ霧が後退する。光が届いた範囲だけ、森の地面が露出する。だが露出した地面は黒く焦げたように色を失っており、落ち葉は灰の薄膜に変わっていた。そしてすぐにまた、水が窪みを埋めるように霧が押し寄せた。
足を止めたのは、前方に先行していた第二班の生徒が倒れているのを見つけたからだ。三谷だった。
意識はある。だが立てないでいた。右脚が膝から下の感覚を失ったように投げ出されている。顔面は蒼白で、唇が紫に変色していた。額に脂汗が浮き、瞳孔がわずかに開いている。低体温の初期症状に似ていた——だが気温は初夏のそれだ。奪われているのは熱ではない。もっと根本的な何かだ。
「咲島——」
「何があった」
「霧に、脚を——触れただけで、力が抜けた。術式も、出ない——」
三谷の右手が震えている。風圧を出そうとしているのだろうが、指先には何の気配もなかった。異能そのものが奪われている。
その時、背後で凪の短い悲鳴が聞こえた。
振り向いた。
霧の中から、太い触手のようなものが伸びていた。乳白色の霧が凝縮し、物理的な質量を持った腕になっている。触手の表面には霧の粒子が渦を巻き、中心部ほど密度が高く、灰色が濃い。まるで骨格のない腕——筋肉のない握力が、空気を圧し潰しながらこちらへ伸びてくる。一本ではない。三本、四本——森の木々の間から、霧の触手が四方に伸び、俺たちの退路を塞いでいた。
包囲されている。
「凪、こっちに——」
言い終わる前に、さらに前方の林間から別の閃光が走った。教官の桐生だった。両手から放つ斬撃の術式が霧の触手を切り裂く。だが切断面からすぐに霧が再生し、触手は数を増やして桐生に襲いかかった。
「全生徒、南方向に撤退しろ! A級危険指定体だ、生徒の手に負えるものじゃない!」
桐生の怒号が霧を割った。A級。訓練区域にA級の危険指定体が出現することは、本来あり得ない。フィルター結界はA級以上を弾くよう設定されているはずだ。結界が破られたか、あるいは——最初から結界の内側にいたか。どちらにしても、想定されていた訓練はもう終わっている。これは実戦だ。
俺は三谷の腕を掴んで引き起こした。
「立て。走れるか」
「脚が——動かねえ——」
「肩を貸す。凪、俺の背中を掴んで離すな」
右肩に三谷の体重を受け、左手で凪の手首を握る。三人分の重さが脚にかかる。膝の関節が軋み、太腿の筋肉が悲鳴を上げる。日頃の体術訓練がなければ、この時点で膝が折れていただろう。サンドバッグを殴り続けた足腰が、かろうじて三人の体を支えていた。
南に向かって走る。霧は背後から追いかけてくるが、桐生が術式で食い止めている。だが持つのは時間の問題だった。桐生の斬撃が届くたびに霧は散るが、散った霧がまた集まり、少しずつ触手の本数を増やしていく。
他の教官が合流してきた。結界術式を展開して生徒の退路を確保する者、霧の触手を焼き払う者。だが霧は教官たちの術式のエネルギーを吸収し、むしろ勢いを増しているようだった。術式をぶつけるほど霧が太り、色が濃くなる。異能を喰う霧——それが「喰霧」の名の由来だと、走りながら理解した。
結界を張った教官の一人が膝をついた。結界の光が急速に弱まり、霧がその隙間から浸透する。続けて二人目、三人目。霧に触れた教官の体から異能が剥がされ、術式が消えていく。まるで電池が抜かれるように。教官の目から光が失われ、糸の切れた操り人形みたいに地面に崩れる。最前線で戦っていた人間が、ただの無力な身体に変わる瞬間を、俺は走りながら見た。
桐生が最後の壁になった。全力の斬撃術式で霧を薙ぎ払いながら、「走れ!」と叫んでいる。その桐生の背中にも、霧の触手がじわじわと絡みつき始めていた。
「——っ」
凪がつまずいた。
俺の左手が引っ張られ、振り向いた瞬間、見た。凪の右足首に、霧の細い糸のような触手が巻きついている。半透明の霧が、凪の肌に触れた箇所から蛇のように登っていく。触れた肌が白く変色し、血管の青い筋が浮き出ていた。
「お兄ちゃ——」
凪の声が途切れた。目が大きく見開かれ、唇が言葉の途中で凍りついている。
右手で三谷を支えていた。左手で凪を握っていた。二つの腕が、同時に引っ張られた。
俺は三谷を放した。
迷わなかった。体が勝手に選んでいた。三谷が地面に崩れ落ちるのを視界の端に捉えながら、俺は両手で凪の腕を掴んだ。三谷の「咲島——」という声が背中に刺さった。ごめん、とは言えなかった。言う資格がなかった。俺は最初から答えを決めていた。
引く。渾身の力で引く。だが霧の触手は凪の脚から腰へ、腰から胸へと巻き上がり、物理的な力で引き剥がせるものではなかった。触手に触れた俺の指先から、じわりと体温が奪われていく。冷たいのではない。熱そのものが「吸い出される」感覚。指先から手首へ、手首から肘へ、凍傷が広がるように感覚が死んでいく。俺の異能が——微弱な体温操作の力が、根こそぎ引き抜かれていく。
「離せ——離せよッ!」
叫んでも霧は止まらない。凪の体が俺の腕の中から引きずり出されていく。白い霧が凪の全身を包み、輪郭がぼやけていく。凪の目が俺を見ていた。恐怖よりも——戸惑いが浮かんでいた。何が起きているのか理解できないまま、霧の中に沈んでいく十四歳の少女の目。その瞳に映る俺の顔が、どんな表情をしているのか、自分では分からなかった。
「——お兄、ちゃん」
指が離れた。
凪の細い手が、俺の指の間をすり抜けた。温もりの残像だけが手のひらに焼きついて、その先に凪はもういなかった。
乳白色の霧が、妹を呑み込んだ。
膝が地面についた。手のひらに残る温度が急速に冷めていく。凪の指先の感触。あの細い手。守ると決めた。しがみつくと決めた。E級でも、最弱でも、この手だけは離さないと——。
霧の奥で、凪の気配がまだかすかに感じられた。消えてはいない。まだ喰われきってはいない。微かに——本当に微かに、凪の異能の残光が霧の内側で脈打っている。糸一本ほどの繋がりが、まだ切れていない。
立ち上がった。
足が震えている。異能を吸い取られた体は重く、視界の端が暗い。それでも、立った。霧の壁が目の前にそびえている。触れれば残りの力も奪われる。素手の人間が踏み込んで戻れる場所ではない。
分かっている。
分かったうえで——俺はその霧の中に、一歩踏み出した。