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十二のフラグを潰して生き延びる

第2話 第2話

第2話

第2話

回廊を歩く足音が、自分のものだと気づくまで数秒かかった。硬い靴底が大理石を叩く音は、まるで他人の足取りのように空虚に響いていた。

石壁に背をつけて呼吸を整えたのは、ほんのわずかな間だったはずだ。けれどその間に、大広間の向こう側ではざわめきが嵐のように膨れ上がっていた。重い扉越しにも、怒号と困惑の入り混じった声が漏れ聞こえてくる。誰かが甲高く私の名を叫ぶのが聞こえた気がしたが、もう振り返る気にはなれなかった。

『——動きなさい、セラフィーナ。立ち止まっている暇はない』

震える指先を握りしめ、回廊を歩き出す。爪が掌に食い込む痛みが、かろうじて意識を現実に繋ぎ止めていた。深紅のドレスの裾が大理石の床を掃くたびに、かすかな衣擦れの音が石壁に反響した。窓から差し込む夕暮れの光が、廊下に長い影を引いている。影は私の輪郭よりずっと細く、頼りなく揺れていた。

ヴァルトシュタイン家の王都別邸まで、馬車で四半刻。その間に整理すべきことが山ほどある。

回廊の角を曲がったところで、見覚えのある銀髪が目に入った。父の筆頭侍従、オットーだ。五十絡みの痩身に刻まれた深い皺は、公爵家に三十年仕えた年輪そのものだった。彼は私の姿を認めるなり、無言で頭を下げた。その背筋は、いつもと寸分違わず真っ直ぐだった。

「お嬢様。馬車の手配は済んでおります」

その声に動揺はない。何があったか、すでに伝わっているのだろう。貴族社会の情報は魔導通信より速い。

「ありがとう、オットー。父上は」

「別邸にてお待ちです。——大広間の一件は、すでに」

「そう」

それだけ言って、私は足を速めた。オットーが半歩後ろについてくる。その沈黙がありがたかった。今の私に必要なのは慰めでも叱責でもなく、ただ前に進むための時間だった。

馬車に揺られる間、ゲームの記憶を丹念に辿った。

断罪イベントの直後、王太子エルヴィンには二つの選択肢が残されている。一つは悪役令嬢の追放を正式に宣言し、自らの正義を貫く道。もう一つは、事態を収めるために黙認する道。正規ルートでは前者が選ばれる。泣き縋る悪役令嬢の醜態が、追放の大義名分を与えるからだ。

けれど私は泣き縋らなかった。自ら非を認め、自ら身を引いた。殿下が断罪で得るはずだった「正義の執行者」という名誉を、私が先に奪い取ってしまったのだ。あの大広間に残されたのは、婚約者に先手を取られた王太子と、同情を向けられるきっかけを得た聖女。

『殿下は面目を潰された。でも、聖女に同情させたことの方がずっと大きい』

聖女エリーゼの性質を、ゲームのテキストは繰り返し描写していた。他者の痛みに寄り添わずにいられない、生まれながらの慈愛の人。悪役令嬢が公衆の面前で自らの過ちを認め、潔く去る姿を見せたら——彼女の心にどんな感情が芽生えるか。

同情だ。そして同情は、やがて疑問に変わる。

あの方は本当に、断罪されるべきだったのかしら。

その疑問が殿下に向けられたとき、二人の間に最初の亀裂が走る。ゲームの第六章で起きるはずの分岐が、今ここで種を蒔かれた。

馬車の窓の外を、夕焼けに染まった王都の街並みが流れていく。露店を片付ける商人、水桶を運ぶ使用人、石畳の上を走り回る子供たち。誰も、今し方あの大広間で起きたことなど知らない。世界は何も変わっていないのに、この馬車の中だけが別の時間を走っている。

別邸の門が見えた。馬車が停まり、オットーが扉を開ける。夕闘の光が石造りの邸宅を赤銅色に染めていた。

父の書斎は二階の奥にある。重い樫の扉を開けると、暖炉の火が薄闇の中で揺れていた。古い紙と蝋燭の匂いが鼻をついた。革張りの椅子に深く腰を沈めた父——ヴァルトシュタイン公爵が、手にした書類から顔を上げた。

白い髪に鷲鼻。鋼のように冷たい灰色の目が、私を射抜く。

「……座りなさい」

低い声だった。怒っているのか、呆れているのか、その声色からは読み取れない。促されるまま向かいの椅子に座ると、暖炉の熱がかすかに頬に触れた。革の匂いと、父が常用している葉巻の残り香が混じり合っている。

「すべて事実だと認めた、と聞いた」

「はい」

「自ら婚約解消を願い出た、とも」

「はい、お父様」

父の目が細くなる。沈黙が書斎を満たし、暖炉の薪が爆ぜる音だけが響いた。壁を埋める書棚の背表紙が、火の光を受けて鈍く光っている。

「——なぜだ」

「泣いて縋れば、公爵家の名は地に落ちます。自ら退けば、少なくとも体面は保たれる。それだけのことです」

嘘ではなかった。ゲーム知識のことは言えないが、政治的な判断としては筋が通る。父は辺境を治める領主だ。感情論より実利で語った方が通じる。

案の定、父の眉がわずかに動いた。

「……体面、か。十七の小娘がずいぶんと老獪なことを言う」

皮肉とも感心ともつかない口調だった。父は書類を机に置き、組んだ指の上に顎を乗せた。暖炉の明かりが、その深い皺をいっそう険しく見せている。

「婚約破棄は避けられなかった。それは私も承知していた。だが、自ら願い出るとはな」

知っていたのだ。王太子の断罪が避けられないことを、父はすでに把握していた。辺境領からの情報だけではない。王都の政治を読んだ上で、あえて手を打たなかった——いや、打てなかった。公爵家の力をもってしても覆せないほど、王太子側の包囲網は周到だったのだろう。

「お父様。一つ、お願いがございます」

「何だ」

「領地に戻らせてください。王都にいても、もう私にできることはありません」

父の灰色の目が、暖炉の火を映してわずかに揺らいだ。ほんの一瞬、そこに浮かんだものを——私は感情と呼びたくなかった。この人にそんなものを見せたら、どちらも脆くなる。

「……追放同然だぞ。王都に戻れる保証はない」

「承知しております」

むしろ、それが狙いだった。王都から離れることで断罪の余波を避け、辺境で力を蓄える。ゲームの知識が正しければ、あの鉱山に眠る魔導鉱石は、やがて王国全土の命運を左右する戦略資源になる。

父がしばらく私を見つめていた。何を読み取ろうとしているのか——そしてようやく、短く息を吐いた。それは溜息とも、承認の合図ともつかない、この人らしい曖昧な呼気だった。

「三日後に出立の手配をする。それまでに身辺を整えなさい」

「……ありがとうございます」

立ち上がり、一礼して書斎を出る。扉を閉めた瞬間、奥歯を噛みしめた。三日。三日もかけていられない。王太子の側近が動き出す前に、一刻も早く王都を離れるべきだ。けれど父の判断に逆らえるほど、今の私に政治的な力はない。

廊下に出ると、夜の冷気が火照った頬を刺した。書斎の暖炉がどれほど温かかったのかを、今さらのように思い知る。

自室に戻ると、窓から夜の王都が見えた。魔導灯に照らされた街並みが宝石箱のように瞬いている。この景色を見るのも、おそらく最後になる。

寝台に腰を下ろし、目を閉じた。脳裏に十二本のシナリオが渦巻く。断罪のフラグは潰した。聖女の同情も仕込んだ。けれどこの先に待つ障害は、比較にならないほど多い。暗殺、毒殺、政治的追放——ゲーム中盤に向けて、罠は幾重にも張り巡らされている。

『でも、まずは生き延びた。この体で、この頭で、この先を書き換える』

窓の外で、鐘楼が深夜の刻を告げた。低い鐘の音が夜空に溶けていく。その残響を聞きながら、ふと、大広間で最後に見たエリーゼの顔が浮かんだ。

あの菫色の瞳に宿っていた、困惑と——痛みにも似た光。

扉が閉まる直前、彼女は確かに何か言いかけた。唇がわずかに動いて、声にならない言葉が零れかけた。その言葉が何だったのか、ゲームのどのルートにも記述はない。正規の分岐から外れた、想定外の反応。

『あなたが何を感じたのか、今はまだわからない。——でも、あの一瞬が無駄にはならないはず』

エリーゼ。ゲームが用意した聖女という役割の奥に、あなた自身の意志はあるのだろうか。

その問いを胸の奥に仕舞い、私は目を開けた。荷造りを始めなければ。辺境の冬は厳しい。必要なものは限られているが、一つだけ——父の書斎で見た領地の地図を、明日のうちに写させてもらおう。

鉱山の位置を、この目で確かめるために。

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