第1話
第1話
大広間に、私の名前が響いた。
「セラフィーナ・ヴァルトシュタイン。そなたの悪辣なる行いの数々、この場にて明らかにする」
王太子エルヴィン殿下の声は、よく通る。何百という貴族たちが居並ぶ白亜の大広間の隅々にまで届くほどに。天井を飾る魔導灯の光が、ひざまずく私の影を長く床に落としていた。
冷たい大理石が膝を刺す。ドレスの裾が花のように広がっているのが、視界の端にぼんやり映る。深紅のドレス——今朝、侍女に着せてもらったときは何も感じなかった。けれど今はまるで、断頭台に引かれる罪人の衣のようだった。
「聖女エリーゼに対する度重なる嫌がらせ、学園での陰湿な排斥行為、そして——」
殿下の声が遠くなる。
頭の奥で、何かが弾けた。
——違う。これは。
奔流だった。堰を切った濁流のように、知らないはずの記憶が脳を浸していく。蛍光灯の白い光。小さな画面。指先で選択肢をタップする感覚。コンビニのおにぎりの味。電車の揺れ。深夜のワンルーム、ベッドの上で膝を抱えて画面を見つめていた、あの孤独な温もり。窓の外では雨が降っていた。画面の青白い光だけが部屋を照らし、缶コーヒーの甘ったるい匂いが鼻の奥に残っている。そして——『聖女の誓約』というタイトルが浮かぶスマートフォンの画面。
『これ、ゲームだ』
私は別の人生を生きていた。この世界とはまるで違う、魔法も貴族もない世界で。そしてその世界で、私はこの物語を——知っていた。
断罪イベント。乙女ゲーム『聖女の誓約』の共通ルート終盤で発生する、悪役令嬢の破滅を確定させる分岐点。
私が、その悪役令嬢。
記憶の奔流が止まらない。ルート分岐の先にある結末が、走馬灯のように駆け巡る。聖女ルート——悪役令嬢は第三章で暗殺される。毒を盛られて、誰にも看取られずに。王子ルート——婚約破棄の恨みを買い、毒殺。騎士ルート——かろうじて命は助かるが、国外追放。魔術師ルート、神官ルート、隠しルート——十二の筋書きすべてを、私は知っている。
そのすべてで、セラフィーナ・ヴァルトシュタインは死ぬか、消える。
一つの例外もなく。
「——聞いているのか、セラフィーナ」
殿下の苛立った声で、意識が大広間に引き戻された。何百もの視線が私に注がれている。嘲笑、憐憫、好奇——それぞれの感情を湛えた目が、獣のように光っていた。扇の陰で囁き交わす令嬢たちの声が、蜂の羽音のように大広間の空気を震わせている。
殿下の隣に立つ少女が目に入る。亜麻色の髪に菫色の瞳。清楚な白いドレスに身を包んだ聖女エリーゼ。彼女は不安そうに唇を噛んでいた。ゲームの中では慈愛に満ちたヒロインだった。けれどその慈愛が、十二のルートすべてにおいて、私を破滅に追いやる起点になる。
エリーゼが悪いのではない。構造がそうなっているのだ。悪役令嬢は聖女の引き立て役として配置され、排除されることで物語が前に進む。私はこの世界の舞台装置。壊されるために作られた小道具。
『……ふざけないで』
体の奥底から、静かな怒りが湧いた。
前世の私は、このゲームをすべてのルートでクリアした。攻略サイトを隅々まで読み、隠しエンドも全回収した。だからこそわかる。十二本のシナリオの構造が。フラグの発動条件が。どの選択肢が、どの結末に繋がるのかが。
大理石の冷たさが、膝から太腿へと這い上がってくる。背筋を震えが走った——けれどそれは恐怖ではなかった。
全部知っている。全部覚えている。ならば。
『——全部、潰す』
殿下がまだ罪状を読み上げている。侍女への暴言、学園の花壇の破壊、聖女の持ち物の隠匿——ゲームの悪役令嬢セラフィーナが実際に行ったとされる所業の数々。羊皮紙に記された罪状の一つひとつが読まれるたび、周囲から満足げなため息が漏れた。この場に集った貴族たちは、私が泣き崩れるのを待っている。縋りつき、許しを乞い、醜態を晒す姿を見たがっている。
それがシナリオ通りの展開だから。
断罪イベントの正規ルートでは、セラフィーナは泣いて否認し、証拠を突きつけられて崩れ落ち、殿下に縋りついて引き剥がされる。その醜態が決定打となり、ヴァルトシュタイン公爵家の政治的発言力は地に落ちる。
だから、私はそうしない。
ゆっくりと、膝に力を込めた。大理石を押し返すように、背筋を伸ばす。立ち上がる。深紅のドレスの裾が衣擦れの音を立て、大広間にかすかに響いた。
殿下の眉が動く。周囲のざわめきが波紋のように広がる。ひざまずいたまま泣くはずの悪役令嬢が、断罪の最中に自ら立ち上がったのだ。
「——殿下」
声が震えていないことを確認する。不思議なほど落ち着いていた。前世の記憶が戻ったことで、この体に染みついていた殿下への恋慕も、聖女への嫉妬も、まるで他人事のように遠ざかっている。
ただ、生き延びるという意志だけが、胸の中で静かに燃えていた。
「お言葉の途中で無礼を承知で申し上げます」
大広間が水を打ったように静まり返る。何百という瞳が、私の次の言葉を待っていた。
この一言で、すべてが変わる。泣き縋るシナリオを壊し、断罪イベントの結末を書き換える。王太子が用意した筋書きを、根本から崩す最初の一手。
私は深く息を吸い、そして——
「殿下のおっしゃること、すべて事実でございます」
沈黙が、大広間を支配した。
誰もが予想していた否認の言葉の代わりに、全面的な肯定。王太子の目が見開かれ、傍らの聖女が小さく息を呑む音が聞こえた。最前列に立つ老貴族が、手にした杖を取り落としかけるのが視界の隅に映った。天井の魔導灯が瞬き、広間に落ちる影がわずかに揺れた。静寂の中に、誰かが息を詰める微かな音だけが聞こえる。
『ここからよ』
心の中で、十二本のシナリオの糸を手繰り寄せる。断罪イベントの後、最初に分岐するフラグは——聖女の「同情」。エリーゼがセラフィーナに同情を抱くかどうかで、その後の王太子との関係性が変動する。
ならば。
「そして、つきましては——」
一歩を踏み出す。殿下に向けてではなく、その隣に立つ聖女エリーゼに向けて。驚いたように菫色の目を見開く彼女の前で、私は深く、深く頭を下げた。
「エリーゼ様。今日までご不快をおかけしたこと、心よりお詫び申し上げます。どうか——殿下をお幸せにして差し上げてくださいませ」
顔を上げる。エリーゼの瞳が揺れている。その唇がわずかに開き、言葉を探すように震えていた。白い指先が胸元で祈るように組まれ、菫色の目には困惑と——ほんのわずかな、痛みに似た何かが浮かんでいた。
そのまま殿下に向き直り、最後の一言を告げた。
「婚約の解消を、私の方からお願い申し上げます」
ざわめきが、今度は津波のように大広間を呑み込んだ。
殿下の顔から表情が消えている。用意していた筋書きを——泣いて縋る令嬢を突き放す劇的な断罪を——たった数言で奪われたのだと、ようやく気づいたのだろう。握りしめた拳が小刻みに震え、整った顔に困惑と怒りが交互に走るのが見えた。
けれど私はもう殿下を見ていなかった。踵を返し、大広間の出口へ向けて歩き出す。背中に何百もの視線が突き刺さる。囁き声が渦を巻く。けれど足は止めない。
ヴァルトシュタイン領。辺境の、ゲームでは背景テキスト一枚で片づけられた故郷。あの鉱山に、全ルートの命運を握る鍵が眠っている。
扉に手をかけたとき、背後でかすかな声が聞こえた気がした。エリーゼが何かを言いかけて——けれど、その言葉が形になる前に、重い扉が閉じた。
大広間の喧騒が遮断され、回廊に静寂が満ちる。
壁に背をつけた。呼吸が浅い。平静を装っていた体が、今になって細かく震えていた。冷えた石壁の感触が薄布越しに背中に伝わり、それがかえって現実の輪郭を与えてくれた。指先が氷のように冷たい。唇を噛みしめると、かすかに血の味がした。
『——第一フラグ、突破』
脳裏に浮かぶ十二本のシナリオ。潰したのはまだ最初の一つに過ぎない。この先に待つ暗殺、毒殺、追放、幽閉——すべてのフラグを把握し、すべてを潰す。そのためにまず、あの辺境の地で力を蓄えなければならない。
回廊の窓から、夕暮れの空が見えた。茜色に染まる王都の街並みが、もう二度と戻らない場所のように霞んでいる。風が窓の隙間から吹き込み、汗ばんだ額を冷やした。遠くで鐘楼の鐘が一つ鳴り、その余韻が石の回廊を長く震わせた。
『待っていなさい。全部——全部、書き換えてみせる』
震える手を握りしめ、私は歩き出した。王都に背を向けて。