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万象崩壊の社畜勇者

第2話 第2話

第2話

第2話

野盗の顔が歪んだ。恐怖ではない。侮蔑だ。

眉間に刻まれた深い皺が、薄暗い路地の影の中でも見て取れた。黄ばんだ歯を剥き出しにして、値踏みするような視線を寄越してくる。獣脂の臭いが漂う。革鎧に染みついたものか、男自身の体臭か。どちらにしても、こいつらが「まともな暮らし」から遠い場所にいることだけは分かる。

「——なんだ今の。手品か?」

刃先が数ミリ欠けただけ。確かにそれだけ見れば、奇妙だが脅威ではない。首に傷痕のある男が、欠けた短剣を振って残りの刃を確かめると、口の端を吊り上げた。刃を指の腹で撫で、欠けた箇所の感触を確かめている。残りの刃は問題なく鋭い。それだけで十分だと判断したのだろう、男の目から一瞬浮かんだ警戒の色がすっと消えた。

「びびらせやがって。おい、やれ」

命令は短く、淡白だった。仕事としてやっている。慣れた手順。何人もの人間を同じ手口で襲ってきた奴らの、作業のような暴力。

背後から別の腕が首に回り、体を締め上げられる。革鎧の硬い胸当てが背中に押しつけられ、肺が圧迫された。呼吸が半分になる。腕の内側に張り付いた汗の湿り気が首筋に伝わり、生理的な嫌悪感が背筋を這い上がった。三人目の男が腹に蹴りを入れた。横隔膜が痙攣して、喉の奥から空気が絞り出される。膝が地面についた。石畳の角が膝蓋骨を抉るように食い込む。ズボン越しでも鋭い痛みが骨に響く。異世界に来ても痛覚は日本にいたときと同じスペックらしい。ありがたくもなんともない。

二発目の蹴りが脇腹に入った。肋骨が軋む。視界の端が暗くなり始める。殴られ慣れてはいない。社畜十年で学んだのは理不尽への耐性であって、物理的な暴力への耐性じゃない。上司の罵声なら無表情でやり過ごせる。だが肋骨を蹴られる痛みには、精神論で対抗できるメソッドが存在しない。

三発目。同じ場所。

——視界が、白く飛んだ。

痛みが消えた。音が消えた。路地の薄暗さも、野盗の怒声も、自分の呼吸音さえも。世界が情報を失ったみたいに真っ白になって、その空白の中に——声が落ちてきた。

『禁忌スキル「万象崩壊」——起動条件充足。制限解除率、0.3%』

無機質だった。感情のない、システム音声のような声。男とも女ともつかない。頭の中に直接響いている。鼓膜を通していない。脳の奥、言語を処理する部分に直接テキストを流し込まれているような感覚。会社の業務システムが自動通知を吐くのに似ている。あの味気ない「承認依頼が届いています」のトーストと同じ温度。世界を終わらせかねない禁忌スキルの通知が、勤怠アプリの打刻リマインドと同じ無感情で届くのは、ある種の恐怖だった。

——禁忌スキル。万象崩壊。

意味を理解する前に、体が動いていた。

首を締める腕を振りほどいたのか、相手が勝手に離したのか。分からない。分からないまま、右手が持ち上がっていた。自分の意思ではない。指先から肘まで、血管の中を沸騰した何かが逆流している。さっき刃先を砕いたときの何十倍もの熱量。腕が焼けるのではなく、腕の中の空間そのものが変質しているような——言語化できない感覚。皮膚の下で、存在のルールが書き換わっている。物質が物質であることをやめようとしている。その境界面の摩擦熱が、神経を焼いている。

「なんだその手——おい、やめ」

野盗のリーダーが短剣を構え直した。遅い。声が遅い。動きが遅い。世界の時間が引き伸ばされたみたいに、全てがスローモーションで流れている。男の喉仏が上下するのが見える。唾を飲み込んだ。恐怖を自覚する前に体が反応している。動物としての本能が、目の前の何かを正しく「脅威」と認識した証拠だ。

右手を、かざした。

短剣が——消えた。

刃先からではない。柄ごと。鋼の刃も、革巻きの柄も、留め金も。男が握っていたものが丸ごと存在を失った。砕けたのでも溶けたのでもない。あった場所に何も残さず、ただ消えた。崩れた粒子が塵になる暇すらなく、空間から情報ごと削除されたように。

男の手が、何もない空を握りしめている。

「は——」

声にならない声だった。握った拳をゆっくり開き、自分の掌を見つめている。そこにあったはずのものの重さの残像が、まだ手に残っているのだろう。理解が追いついていない顔。俺もたぶん、同じ顔をしている。

直後、地面が抉れた。

俺の足元を中心に、石畳が円形に消失した。直径はざっと二メートル。石が砕けたのではない。石畳がそこだけ「最初からなかった」かのように、切断面もなく、破片もなく、綺麗な円形の穴が地面に空いた。穴の底には乾いた土が見えている。石畳の厚さぶん——十五センチほどの深さ。

夕暮れの最後の光が、消失痕の断面を照らしていた。石の内部の地層がむき出しになっている。切り口は鏡面のように滑らかで、道具で削ったどんな断面よりも正確だった。何百年も前に積まれた石の内側が、初めて外気に触れて、微かに湿った鉱物の匂いを放っている。

三人の野盗は、もう俺を見ていなかった。

地面の穴を見ていた。自分の足元が同じように消えることを想像したのか、血の気が引いた顔で後ずさり、一人が転び、残りの二人がそれを引きずって路地の奥へ消えた。走る足音が石壁に反響して、すぐに聞こえなくなった。

静寂。

白い世界が元に戻る。夕暮れの路地。薄暗い石壁。消失痕から立ち上る土の匂い。全部が一気に感覚に戻ってきて、同時に——

右腕が、悲鳴を上げた。

痛みではない。もっと根本的な何か。筋繊維の一本一本が燃え尽きたあとの灰みたいに、力が抜けていく。腕が下がる。指が開く。握力がゼロになった手のひらを見ると、指先から手首にかけて、赤黒い線が走っていた。血管が浮き出ているのとは違う。まるで皮膚の下で何かが罅割れたような、不吉な紋様。線は脈動していた。心臓の拍動に合わせて、微かに明滅するように赤黒さの濃淡が揺れている。生きている。この紋様自体が、何かの回路として機能している。

代償だ。

スキル——万象崩壊。あの無機質な声が告げた名前。消滅させる力。触れたものを、存在ごと消す力。そしてその代償は、自分の体に返ってくる。

等価交換とすら呼べない。存在を消す力の対価が、自分の存在の毀損。使うたびに体が削れる。0.3%でこれなら、使い続ければ——考えるな。今はまだ、考えるな。

「——っ」

堪えきれず、膝をついた。口の中に血の味が広がる。鉄錆の味。温かくて、粘度がある。さっき殴られたときとは別の血だ。喉の奥から込み上げてくる。内臓のどこかが壊れたのか。肺か。胃か。分からない。分からないまま、石畳——いや、消失痕の縁に手をついて、吐いた。

赤い飛沫が土の上に散る。

制限解除率0.3%。あの声はそう言った。これがたった0.3%の出力。体がこれだけ壊れるのが、全体の0.3%。

——100%になったら、何が起きる。

考える余裕がなかった。視界が狭窄していく。路地の入り口の光が、トンネルの出口みたいに小さく遠くなる。意識が水面下に沈んでいく感覚。抗えない。会社で倒れたときと同じだ。体が限界を超えたら、意思なんか関係なく落ちる。あの日もこうだった。デスクに突っ伏す直前、Excelのセルの罫線がぐにゃりと歪んで、同僚の声が水の底から聞こえるみたいに遠くなって——同じだ。場所が変わっただけで、体の壊れ方は同じだ。

手のひらの下の土が冷たかった。消失痕の底の、むき出しの地面。自分が作った穴の中に倒れ込んでいる。情けないのか、恐ろしいのか、それすら判断がつかない。

意識が暗転する直前——足音が聞こえた。

石畳を叩く、硬い靴底の音。野盗のものとは違う。走っていない。急いでいるが、慌ててはいない。規則正しく、迷いなく近づいてくる足音。一歩ごとに石畳と靴底の間で小さな砂粒が擦れる音がする。軍靴か、それに近い硬さの底。

誰かが、俺の傍で立ち止まった。

「——生きてる。ひどい反動痕ね」

女の声。冷静で、けれどどこか切迫した響き。靴底が消失痕の縁を踏む音がして、土の上に膝をつく気配。手袋越しの指先が、俺の首筋に触れた。脈を確認している。指先は冷たかったが、その冷たさが逆に意識を薄く繋ぎ止めた。

「ギルドの救護班を呼ぶから、動かないで」

動けるわけがなかった。体中の力が抜けている。指一本持ち上がらない。ただ、薄れる意識の底で一つだけ確かなことがあった。

あの声は、まだ消えていない。

頭の奥に沈殿した無機質な残響——万象崩壊。0.3%。起動条件充足。その言葉が体温みたいに残っている。消えない。頭の中に常駐している。バックグラウンドで動き続けるプロセスのように、意識の裏側に張り付いて、静かに何かを計測し続けている。

意識が落ちる最後の一瞬、声が囁いた。

『次回起動時——制限解除率を再計算します』

——待て。お前は、何だ。

答えは返らなかった。暗転。路地裏の冷たい土の上で、黒瀬遥人の意識が途切れた。

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