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万象崩壊の社畜勇者

第3話 第3話

第3話

第3話

天井が白かった。

蛍光灯ではない。漆喰か何かで塗られた、粗い白。染みが二つ、三つ。右端の壁際に薬草を束ねたものが吊るされていて、青臭い匂いが鼻を突く。ハーブとも雑草ともつかない、だが不思議と不快ではない香り。意識を取り戻す前に嗅覚が先に起動していた。体の順序がおかしい。

——生きてる。

布団の感触。薄い毛布の下で、体が鉛みたいに重い。右腕に視線を落とす。包帯が手首から肘まで巻かれている。あの赤黒い紋様が隠されている。包帯の下で、微かな脈動がまだ続いていた。心臓の鼓動とは別のリズム。少し遅く、少し深い。スキルの残響。寝ている間も常駐プロセスは止まらなかったらしい。

体を起こそうとして、肋骨が抗議した。野盗に蹴られた箇所だ。鈍く、重く、呼吸のたびに内側から押し返されるような痛み。息を浅くして、腕の力だけでゆっくりと上体を持ち上げる。周囲を見回すと、木製のベッドが三台並ぶ狭い部屋だった。窓から差す光は朝のもの。埃が光の筋の中をゆっくり舞っていた。丸一日は眠っていたことになる。

壁にギルドの紋章が掛かっていた。交差した剣と天秤の意匠。ここがギルドの施設だということは、それで分かった。

「あ、起きた」

扉が開いて、女が入ってきた。

栗色の髪を後ろで一つに束ねている。ギルドの制服らしい白いブラウスに紺のベスト。年齢は二十代半ばくらいに見えるが、この世界の年齢感覚が地球と同じかは分からない。手にはトレイ。湯気の立つカップと、パンが一切れ。湯気から立ち上る匂いは苦みを含んだ薬草系で、壁に吊るされたものと同じ系統だった。

「ギルド救護室よ。路地裏で倒れてたのを私が見つけて運んだの。覚えてる?」

覚えている。意識が落ちる寸前の足音。脈を確認した冷たい指先。あれがこの女だったのか。

「……ありがとうございます。助けてもらったみたいで」

「みたい、じゃなくて実際助けたの。あのまま放置してたら朝まで持たなかったわよ。反動痕がひどくて、治癒師に二時間かかった」

トレイをベッド脇の棚に置きながら、彼女は淡々と言った。事務的だが冷たくはない。必要なことを必要なだけ伝える話し方。嫌いじゃない。

「私はミラ。ここの受付嬢。あなたは?」

「黒瀬遥人」

「ハルト、ね。——食べられる? 動けるなら話があるんだけど」

パンをかじった。硬いが味はある。穀物の素朴な甘さが口に広がって、空っぽの胃が動き始めた。噛むたびに顎の筋肉が引きつるような感覚があった。体が、食べるという行為を思い出している最中だった。カップの中身は薬湯らしく、苦かったが飲み干すと肋骨の痛みが少し引いた。

ミラは向かいの椅子に腰掛けて、こちらを真っ直ぐ見ていた。

「単刀直入に聞くわ。あの消失痕、あなたがやったの?」

嘘をつく理由がなかった。「たぶん」

「たぶん?」

「自分でも何が起きたか分かってない。気がついたら地面に穴が空いてて、俺は血を吐いて倒れてた」

ミラの目が一瞬だけ細くなった。何かを測っている目。探るというより、既に知っている答えと照合しているような。だがそれ以上は踏み込まず、話題を変えた。

「城から出された転移者、で合ってる?」

「合ってる」

「身分証は? 所持金は?」

「銅貨五枚。残ってれば。身分証はない」

「野盗に取られてなかったわ。律儀な強盗ね」ミラは肩をすくめた。「——提案があるの。ギルドに冒険者登録しない?」

冒険者。この世界の稼ぎ口。詳しくは知らないが、ギルドで依頼を受けて報酬を得る。RPGの定番だ。

「ステータスがオールEでも登録できるのか」

「最低ランクのFなら、ステータス不問よ。依頼内容は薬草採取や荷運びがメイン。戦闘はほぼない。でも報酬は出る。宿代と食費くらいは稼げるわ」

「戦闘ランクに上がるには?」

「依頼をこなして実績を積むか、昇格試験を受ける。Fの次はE。Eなら低級魔獣の討伐依頼も受けられる」

制度の説明を聞きながら、頭の中で勝手に整理が始まる。ランク制は要するに人事評価だ。実績ベースの昇格、ランクに応じた業務範囲の拡大、報酬テーブルの段階的引き上げ。社畜に馴染みのある構造だった。違うのは、評価指標が売上やKPIではなく、倒した魔獣の数と依頼達成率だということくらい。

「登録に必要なものは」

「名前と、登録料の銅貨二枚。あと右手の血を一滴。ギルドカードに紐づける生体認証みたいなもの」

銅貨二枚。残金の四割。だが投資しなければリターンはない。ゼロからの再出発に初期費用を惜しむな——新規事業の立ち上げで何度も聞いた台詞が、こんなところで役に立つ。

「やる」

「即決ね」

「迷う材料がない」

ミラが少しだけ口の端を上げた。笑顔未満の何か。受付カウンターで何百人もの冒険者を捌いてきた人間の、職業的な好意の表し方に見えた。

---

登録手続きは簡素だった。

救護室を出てカウンターに移り、羊皮紙に名前を書き、血を一滴垂らし、銅貨を払う。ギルドカードは木製の札で、表面に名前とランク——「F」の文字が魔力で刻印されている。

「はい、これであなたはFランク冒険者ハルト。おめでとう、と言うべきかは微妙だけど」

「十分だ。ゼロよりはマシだ」

ギルドのホールは朝から賑わっていた。冒険者たちが依頼掲示板の前に群がり、パーティで相談し、カウンターに報告書を出している。鎧の擦れる音、笑い声、酒の匂い。活気がある。城の大広間にあった選別の空気とは違う、稼ぐために動く人間たちの体温。

俺はその中で最底辺のFランクだ。だが、底辺は知っている。十年いた場所だ。

掲示板のF欄を見る。依頼は三件。薬草採取、下水路の清掃、荷物の配送。迷わず薬草採取を取った。外に出られる。地形を把握できる。この世界の植生を学べる。一つの依頼で三つの情報が取れるなら、効率は悪くない。

ミラに依頼票を渡すと、彼女は受理印を押しながら言った。

「採取場所は東の森の入り口。赤い実のついた低木の根元に生える白い花よ。十本で銅貨三枚」

「了解」

「ハルト」呼び止められた。「無理はしないでね。あの右腕、治癒師が言ってたけど、通常のダメージとは質が違うって。使ったでしょう、何かを」

見抜かれている。だが追及はしてこない。忠告だけして、あとは本人に委ねる。上司にしたいタイプだ。前の世界には一人もいなかったが。

「気をつける」

ギルドを出た。

朝の城下町は昨夜とは別の顔をしていた。市場が開き、商人が声を張り上げ、子供が駆け回る。石畳の上を歩く自分の影が、朝日に引き伸ばされて長い。風が頬を撫でて、焼きたてのパンと、どこかの家の煮込み料理の匂いを運んできた。この世界に来て初めて、前に向かって歩いている気がした。

右手の包帯の下で、紋様がかすかに疼く。万象崩壊。制限解除率0.3%。あの力は確かに存在する。代償も。だが力があるなら、使い方がある。制御できれば武器になる。制御できなければ自滅する。

——上等だ。

前の世界では、理不尽を飲み込むことしかできなかった。上司の無茶振りも、終わらない残業も、評価されない成果も、全部受け入れて耐えて、最後は心臓が止まった。それが社畜の末路だった。

だがここには、耐えるだけじゃない選択肢がある。

力がある。まだ制御できない、使えば体が壊れる、得体の知れない力。だがゼロじゃない。城門で捨てられたとき、俺の手持ちはゼロだった。今は違う。Fランクのギルドカード、銅貨三枚の依頼、そして右手に眠る禁忌スキル。

二度と、使い捨てにはさせない。

会社に殺されて、王国に捨てられて、それでもまだ動いている。ならこの先は、自分の意思で動く。誰かの駒としてではなく、自分の段取りで。

依頼書を握り直した。薬草採取。地味な仕事だ。だが、ここから始める。社畜が十年かけて学んだことがある。どんなプロジェクトも、最初の一歩は地味な作業だ。派手な成果は、地味な積み重ねの上にしか乗らない。

東の森へ向かう街道を歩きながら、右手の指先に意識を向けた。包帯の下、紋様の上。かすかな熱がある。昨夜の暴走とは違う、制御された余韻。スキルはまだそこにいる。静かに、だが確実に。

指先が、ほんの一瞬だけ光った気がした。

気のせいかもしれない。朝日の反射かもしれない。だが右手の内側で、万象崩壊が微かに脈を打ったのを——俺は確かに感じた。

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