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万象崩壊の社畜勇者

第1話 第1話

第1話

第1話

死んだはずだった。

最後の記憶は、オフィスの蛍光灯。三十六時間ぶりに椅子から立ち上がろうとして、視界がぐにゃりと歪んで——それきり。蛍光灯の白い光が網膜に焼きつくみたいに膨張して、次の瞬間には何もなかった。過労死だ。三十二年の人生の幕引きとしては、あまりにもくだらない。

だから今、顔に当たる風の冷たさが理解できなかった。

目を開ける。青い空。どこまでも続く草原。風が草を撫でるたびに、緑の波が視界の果てまで走っていく。空気が甘い。土と草の匂い。エアコンの乾いた風しか知らなかった肺が、戸惑うように膨らんだ。スーツのまま仰向けに倒れている自分。ネクタイが首に食い込んで、革靴の中で足指が蒸れている。起き上がると、周囲に十数人の男女が同じように転がっていた。全員が日本人。全員が困惑している。

「なんだここ……」

誰かが呟いた。俺も同じことを思ったが、口には出さなかった。状況が分からないときに騒ぐのは、新人社員のやることだ。

草原の向こうから、甲冑の騎馬隊が砂塵を上げて近づいてくる。地面を伝わる振動が腹の底に響く。馬の蹄鉄が土を叩く音、甲冑の金属が擦れ合う高い音。先頭の騎士が馬上から俺たちを見下ろし、聞き慣れない言語で何かを叫んだ——のに、意味が頭に流れ込んでくる。

「勇者候補の皆様、ようこそ。王城へご案内いたします」

抵抗する余地もなく、全員が馬車に乗せられた。

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王城の大広間は、ファンタジー映画そのものだった。

高い天井にステンドグラス。色とりどりの光が石の床に模様を描いている。空気は冷たく、石と蝋燭の匂いがする。玉座には壮年の王。その横に、銀髪を撫でつける痩身の男——宮廷魔術師と名乗った。名前は聞いたが覚える気にならない。

「皆様は異世界より召喚された勇者候補です。これより適性鑑定を行い、相応しき力を持つ者に勇者の称号を授けます」

転移者たちがざわめく。興奮している者もいれば、怯えている者もいる。俺はどちらでもなかった。勝手に連れてきて、使えるかどうか品定めする。——どこかで見た構図だ。就職面接と何が違う。

鑑定は一人ずつ行われた。水晶のような球体に手を触れると、空中にステータスが浮かび上がる。

「おお、Bランク適性! スキルは『炎槍』!」

「こちらはAランク! 『聖盾』持ちです!」

宮廷魔術師が読み上げるたびに、大広間が沸く。鑑定を終えた転移者たちは誇らしげに胸を張り、互いのステータスを見せ合っている。まるで内定自慢だ。

俺の番が来た。

水晶に手を置く。表面は思ったより冷たかった。指先に伝わるガラスとも石とも違う質感。淡い光が灯り——途端に、球体がビリビリと震えた。手のひらに振動が伝わる。水晶の内部で光が乱反射して、蛍光灯の明滅みたいにちかちかと瞬く。宮廷魔術師が眉をひそめる。

浮かび上がったステータスは、こうだった。

体力:E 魔力:E 敏捷:E 耐久:E 知力:E

スキル:???(判読不能)

沈黙が落ちた。大広間を満たしていた熱気が、俺の周囲だけ真空になったみたいに消える。数秒後、誰かが吹き出した。

「オールEって、あるんだ」 「スキルすら読めないとか、バグじゃないの?」

笑い声が広がる。さっきまで同じ草原で転がっていた連中が、もう別の世界の住人みたいな顔で俺を見ている。宮廷魔術師が水晶を調べ直し、冷めた声で告げた。

「——適性なし。勇者候補としての資質は認められません」

王が小さく頷く。それだけだった。目も合わせない。他の転移者は豪華な個室と装備を与えられたが、俺に渡されたのは銅貨が五枚と、城下町の地図が一枚。護衛もなし。説明もなし。

城門まで案内した兵士は、鉄格子を開けながら事務的に言った。

「城下町で自由に暮らしてくれ。王国に迷惑をかけるな」

——ああ、知ってるよ、この流れ。

十年間見てきた。使えない奴から切る。数字が出ない奴に席はない。ブラック企業と王国の違いは、玉座があるかオフィスチェアかだけだ。

「了解」

短く答えて、門をくぐった。振り返らない。振り返っても意味がない。それは社畜生活で嫌というほど学んだ。

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城門が背後でゆっくりと閉まる音を聞きながら、俺は城下町の石畳を歩き始めた。

夕暮れの街は賑わっていた。露店が並び、子供が走り回り、冒険者風の武装した男女が酒場に吸い込まれていく。異世界の空気は妙に澄んでいて、排気ガスとコンビニ弁当の匂いに慣れた鼻には新鮮だった。どこかで肉を焼く煙が立ち上り、香辛料の匂いが風に混じる。腹が鳴った。そういえば、最後に食事をしたのがいつだったか思い出せない。前の世界でも、この世界でも。

銅貨五枚。この世界の物価は分からないが、潤沢でないことだけは確かだ。

まず宿を確保する。食料を調べる。収入源を見つける。——社畜の思考回路は、異世界でも勝手に回り始める。やるべきことをリスト化して、優先順位をつけて、上から潰す。それしか知らない生き方だ。

だが、足を動かしながらも頭の片隅に引っかかるものがあった。

あの鑑定。水晶が震えたこと。スキル欄が「???」だったこと。

宮廷魔術師は「適性なし」と言った。だが「適性なし」なら、スキル欄は空白のはずじゃないのか。判読不能と適性なしは、意味が違う。

読み取れなかったんだ。あの水晶には。

考えすぎか。どちらにせよ、オールEのステータスは事実だ。戦う力はない。魔法も使えない。俺にあるのは、十年間のブラック企業で磨かれた業務処理能力と、死んでも翌朝には出社する根性だけ。

——まあ、死んでも目が覚めるのは実証済みだ。

自嘲気味に笑って、一番安そうな宿を探す。路地を一つ曲がったとき、急に周囲の空気が変わった。人通りが消えている。石壁に囲まれた細い路地。日が落ちかけて、影が濃い。

嫌な予感がした。社畜の勘だ。終電間際の繁華街で身につけた、トラブルの気配を察知する能力。

引き返そうとした瞬間、背後から太い腕に襟首を掴まれた。

「よぉ、異世界人。城から放り出されたんだってな」

振り向くと、三人の男が道を塞いでいた。革鎧に短剣。目つきは完全にアウトだ。酒の匂いが漂ってくる。一番手前の男は首に古い傷痕があり、目の奥に金勘定の光だけが浮かんでいる。

「銅貨、持ってんだろ。全部出せ」

——過労死した世界でも、転生した世界でも、やることは同じか。

俺が口を開く前に、拳が顔面に叩き込まれた。

石壁に後頭部をぶつけて、視界が白く弾ける。口の中に血の味が広がった。鉄錆みたいな味。奥歯の裏側にじわりと生温かいものが溜まる。膝が崩れる。地面が近づく。石畳の冷たさが頬に触れた瞬間、声にならない息が漏れた。

そのとき——胸の奥で、何かが、跳ねた。

心臓ではない。もっと深い場所。骨の裏側、血管の内側、細胞の隙間。鑑定器が読み取れなかった「何か」が、殴られた衝撃に呼応するように脈動している。

どくん。どくん。どくん。

熱い。身体の内側から焼かれるような圧力が、指先に向かって流れていく。血管を逆流するような、内臓を掴まれるような、けれど不思議と苦しくはない感覚。頭では理解できない。だが本能が分かっている。

これは——力だ。

「おい、聞いてんのか。金を——」

野盗が俺の胸倉を掴み上げた瞬間、右手がかすかに光った。指先から溢れた光が、男の短剣の刃先をほんの一瞬だけ包み——。

びき、と音がした。金属でも石でもない、何かが軋む音。路地の空気が一瞬だけ震えた。

短剣の切っ先が、砂粒のように崩れた。刃先だけ。ほんの数ミリ。だが確かに、鋼の刃が塵になって散った。崩れた金属の粉が、夕暮れの最後の光を受けてきらりと舞った。

「な——」

野盗が目を剥いて手を引く。残りの二人も足を半歩引いた。三人の顔に浮かんでいるのは怒りではなく、得体の知れないものを見た恐怖だった。俺も自分の右手を見つめた。指先がかすかに痺れている。今、何が起きた。

答えは出ない。だが胸の奥の脈動は、まだ続いていた。城門で閉め出されてからずっと黙っていたそれが、初めて声を上げたように。

——まだだ。まだ、何も始まっていない。

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