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灰になった七年と楽園の剣

第2話 第2話

第2話

第2話

領都の門をくぐった瞬間、風が変わった。

王都から領地への街道で感じた乾いた風とは違う。土埃に混じって、もっと生々しい匂いが鼻腔を突いた。腐りかけた藁と、煮詰めすぎた薄い粥の匂い。人が飢えている土地の匂いだ。

門番の老兵——名をヨルクといったはずだ——が私の後ろをおぼつかない足取りでついてくる。槍を持つ手は骨ばって、かつての力強さは見る影もなかった。

「お嬢様、旦那様のお屋敷へは——」

「先に領都を回ります」

馬車には戻らなかった。この土地の現実を、自分の足で踏みしめる必要があった。

領都の目抜き通りは、私の記憶にある姿を完全に失っていた。商店の半数は板で打ちつけられ、残りも品物がほとんどない棚を晒している。石畳の隙間から雑草が伸び、割れた敷石を誰も直さないまま放置してあった。かつて父が整備させた噴水広場は水が枯れ、縁石に座り込んだ老人たちが虚ろな目でこちらを見ていた。

通りの脇に、子供がうずくまっていた。五つか六つか。肋骨の浮いた胸が薄い布越しに見える。その子が私を見上げた。目だけが異様に大きく、感情の読めない瞳だった。飢えた子供の目だ。怒りも悲しみも通り越した、ただ生きているだけの目。

ロザが私の隣で小さく息を吸った。

「——ここまでとは、聞いておりませんでした」

「報告と違う?」

「書簡では、困窮とは記されておりました。けれどこれは困窮ではありません。これは——」

ロザは言葉を切った。その先を口にすることを、この誠実な家令は自分に許さなかったのだろう。

棄民だ、と私は心の中で継いだ。王都は、この土地を見捨てたのだ。

屋敷に向かう道すがら、崩れた水路を見た。父の代に築かれた灌漑の要だ。上流から引いた水を農地全域に行き渡らせる仕組みで、これがあるからこそクランメル領の麦は安定して育った。その水路が、三カ所にわたって崩落していた。修復した形跡はない。石材が散乱し、泥で埋まった溝に濁った水が溜まっている。

「水路の補修はいつから止まっているの」

「三年前の大雨で崩れて以来です。石工が二人、隣領に流れました。残った者だけでは手が足りず、そのままに」

ロザの報告は簡潔だったが、その簡潔さの裏に三年分の苦渋が滲んでいた。

屋敷の門が見えたとき、私は一瞬足を止めた。記憶の中のクランメル公爵邸は、質素ながら威厳のある佇まいだった。今、目の前にあるのは壁面の漆喰が剥がれ落ち、庭木が伸び放題になった、疲れ果てた建物だった。正門の鉄柵は錆びつき、公爵家の紋章——風に舞う銀の羽——が片方欠けている。

屋敷の広間に通されると、ロザが改まった声で現状を報告し始めた。

「領民は最盛期の三割まで減少。残った者の大半が老人と子供です。若い者は隣領か王都へ流出しました。税収は七年前の一割を切り、備蓄の穀物は残り二月分。それも節制しての計算です」

羊皮紙に纏められた帳簿を受け取った。数字は正確だが、その正確さが残酷だった。どの項目を見ても、下降の一途を辿る線しか描けない。

「騎士団は」

ロザの表情が一瞬、苦いものに変わった。

「全員、引き上げました」

「全員?」

「婚約破棄の報せが届いた翌日に。王家からの通達で、公爵家付きの騎士は王都へ帰還せよと。ベルク老兵長だけが残りましたが、もはや一個の剣しかありません」

騎士団の撤収。それは単なる兵力の喪失ではない。領地の治安と防衛の放棄を意味する。魔獣が出れば対処する者がいない。盗賊が来ても追い払う力がない。王都は婚約を破棄しただけでは飽き足らず、この土地から牙まで抜いていったのだ。

帳簿を閉じた。指先が微かに震えていた。怒りのためだ。

「ロザ、父上のもとへ案内して」

公爵の私室は二階の奥にあった。かつて父が政務を執った書斎の隣、寝室として使われるようになったのはいつからだろう。廊下を歩くたび、木の床が軋んだ。壁にかかった燭台の半分は蝋燭が切れたまま補充されていない。

扉を開けると、薬草の匂いが鼻を突いた。苦く、重い匂い。部屋は薄暗く、分厚い帳が窓を覆い、わずかな隙間から差し込む光の中に埃が舞っていた。

寝台の上に父がいた。

フェルディナント・フォン・クランメル。かつて「鉄壁の公爵」と呼ばれた男。外交の場で三カ国の大使を同時に黙らせた男。娘の私に、夜明け前から剣と政務と魔法を叩き込んだ男。

その人が、白い寝具の上で骸のように横たわっていた。

頬は削げ、肌は蝋のような色をしている。髪は白くなり、あの鋭い目は閉じられたままだった。規則的だが浅い呼吸が胸を上下させている。それだけが、生きている証だった。

「父上」

声をかけた。返事はなかった。

枕元に膝をついた。父の手を取ると、驚くほど軽かった。骨と皮だけの手。剣を振り、書簡を認め、幼い私の頭を撫でた手が、こんなにも小さくなっていた。

涙が込み上げそうになるのを、歯を噛んで堪えた。泣いている場合ではない。泣く資格もない。七年間離れていた娘が、今さら枕元で涙を見せるなど、この人への侮辱だ。

「お父様は三月前から、ほとんど意識が戻られません」

背後でロザが静かに言った。

「侍医は」

「最後の侍医も、半年前に王都へ召還されました。今は領都の薬師が交代で診ておりますが……限界があります」

侍医すら奪われた。騎士を引き上げ、侍医を召還し、この領地からあらゆる力を削ぎ取っていく。これが王都のやり方か。婚約破棄だけでなく、公爵家そのものを枯死させるつもりなのだ。

父の手を握ったまま、私は目を閉じた。指先に魔力を集中させる。風系統の魔法は治癒には向かない。だが、魔力の流れを感じ取ることはできる。父の体内を巡る魔力の残滓を辿った。微かに——本当に微かに、かつての力の面影がある。消えかけの灯火のような、頼りない脈動。

目を開けた。やるべきことの輪郭が、少しだけ見えた気がした。

水路を直す。農地を復旧させる。民の食を確保する。防衛力を再建する。すべてが急務で、すべてに人手が足りない。騎士はいない。金もない。あるのは老人と子供と、荒れ果てた土地と——私だけだ。

「ロザ、明日から領地の全状況を把握する。水路、農地、備蓄、人口、すべての台帳を揃えて」

「かしこまりました」

立ち上がろうとしたとき、握っていた父の手が、微かに動いた。

息を呑んだ。

父の瞼が薄く開いた。濁った瞳が、焦点を探すようにゆっくりと動き、やがて——私の顔で止まった。

「——セラ」

唇が動いた。声にならない声だった。枯れ果てた喉から絞り出される吐息に、辛うじて音の形が乗っている。

「父上、私です。セラフィーナです」

「……帰った、のか」

「はい。帰りました」

父の目が、ほんの一瞬だけ、澄んだ。かつての鋭さとは違う。もっと深い、底の見えない井戸のような色だった。

「お前に、任せてよいのか」

その一言が、胸の奥を貫いた。

弱音ではなかった。試しているのでもなかった。あれほどの誇りを持った父が、すべてを認めた上で——本当に委ねてよいのかと、最後の問いを投げていた。

父の手を、強く握り返した。

「任せてください。この領地は、私が守ります」

答えを聞いたのかどうか、父の目は再び閉じていった。呼吸が深くなる。穏やかな寝息に変わったのを確かめて、ようやく手を離した。

立ち上がったとき、膝が少しだけ震えていた。それを悟られぬよう、背筋を正す。

ロザが扉の傍らで待っていた。何も言わなかった。ただその目が、赤く潤んでいた。

「ロザ」

「はい」

「ベルク老兵長を呼んで。それと、明朝までに使える道具と人手の一覧を。鍬でも鋤でも、何でもいい」

窓の外に目をやった。日は傾き始め、荒野に長い影が伸びている。遠くに南の森が暗い帯のように横たわっていた。

この手で鍬を握ろう。水路を直し、畑を耕し、民に食わせよう。騎士がいないなら、私が剣を取る。

灰の中から立ち上がるのに、許しなど要らない。

ロザが部屋を出ていく足音を聞きながら、私は父の寝顔をもう一度だけ見た。安らかとは言いがたい。けれど、さきほどの一瞬——あの澄んだ目の奥に、確かに何かを託す光があった。

それを裏切るわけにはいかない。

廊下に出ると、屋敷の裏手から風が吹き込んできた。南の風だ。湿り気を帯びた、重い風。その風に乗って、微かに——本当に微かに、獣の匂いが混じっている気がした。

気のせいだと、まだこのときの私は思っていた。

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