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灰になった七年と楽園の剣

第3話 第3話

第3話

第3話

翌朝、私は屋敷の広間にロザとベルク老兵長を呼んだ。

ベルクは六十を超えた大柄な男だった。白髪を短く刈り込み、左頬に古い刀傷がある。かつて父のもとで騎士団の副長を務めた歴戦の兵士だ。王都からの帰還命令を唯一拒んだ男でもある。広間に入ってきたその姿を見て、私は小さく息を呑んだ。記憶の中のベルクは岩のように揺るがない巨躯だったが、今は肩の肉が落ち、腰帯を一つ詰めた形跡がある。それでも背筋だけは真っ直ぐだった。

「お嬢様。お帰りなさいませ」

低い声だった。感情を押し殺した、兵士の声。

「ベルク、率直に聞きます。この領地の防衛力は、今どれほど残っていますか」

「俺一人です」

一切の修飾を省いた答えだった。騎士団は全員引き上げた。民兵組織は三年前に自然消滅した。武器庫には錆びた剣が十数本と、弦の切れた弩が数挺。それが、クランメル公爵領の全戦力だった。

ロザが台帳を広げた。昨夜のうちに揃えたらしい。水路の崩落箇所、使える農具の一覧、残存する領民の名簿。どの数字を見ても、溜息しか出ない内容だった。だが数字が揃ったことで、やるべきことの順序がようやく見えた。

「領民を集めてください。広場に。話があります」

ロザが一瞬だけ目を見開いた。

「全員、ですか」

「動ける者すべて。一刻後に」

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広場に集まった領民は、七十人ほどだった。かつて数百の民で賑わったこの領都の、残り火のような人数だ。

老人が大半を占め、壮年の者は片手で数えるほどしかいない。子供たちが親の影に隠れてこちらを窺っている。その目には、昨日通りで見た飢えた子供と同じ色があった。感情を使い果たした、乾いた瞳。

私が屋敷の階段を降りて広場に立つと、ざわめきが走った。

「公爵様のお嬢様だ」

「王都にいたんじゃ——」

「追い出されたんだろう。婚約破棄だってよ」

囁きが耳に届く。隠す気もない声だった。好奇と、それ以上に——落胆が滲んでいた。追い出された令嬢が帰ってきたところで、何が変わるのか。その問いが、七十の視線の中に透けて見えた。

構わない。見せるのは言葉ではなく、結果だ。だがまず、言葉がなければ始まらない。

「クランメル領の民のみなさん。私はセラフィーナ・フォン・クランメル。本日より、父に代わりこの領地の一切を預かります」

声を張った。風魔法で空気の流れを微かに操り、声が広場の端まで届くようにする。魔力の消費はごく僅かだが、こういう使い方を教えてくれたのは父だった。「剣より先に、まず声が届かねば民は動かぬ」と。

「王都は私たちを見捨てました。騎士も、侍医も、すべて引き上げた。けれど——この土地はまだ死んでいない。水路を直せば水は流れる。畑を耕せば麦は育つ。私がこの地を立て直します」

沈黙が落ちた。

誰も頷かなかった。誰も声を上げなかった。七十の顔が、同じ表情を浮かべていた。信じたいが、信じられない。希望を持つことに疲れ果てた人間の顔だ。

老人が一人、杖をついて前に出た。日焼けした顔に深い皺が刻まれている。

「お嬢様よ。あんたは七年、王都にいなすった。その間、わしらは自分の手で何とかしようとした。だが水路は崩れ、若い者は出ていき、畑は枯れた。あんたが帰ってきたからといって、何が変わる。公爵様だって、もう——」

言葉が途切れた。その先を口にすることを、老人自身が恐れたのだろう。

私は答えなかった。答えようがなかった。正しいのだ、この老人は。七年間この土地を離れていた私に、彼らの苦しみを語る資格はない。

沈黙が広場を覆い、風だけが砂埃を巻き上げて通り過ぎた。

そのとき、鎧の擦れる音がした。

ベルクが片膝をついていた。

広場の石畳に膝をつき、右の拳を左胸に当て、頭を垂れている。騎士の臣従の礼だ。錆の浮いた胸当てが軋み、白髪の頭が深く下がる。

「ベルク・ヘルツォーク。この剣を、セラフィーナ様にお預けします。この老骨が砕けるまで」

その声は、静かだったが広場の隅まで届いた。風魔法ではない。四十年の兵歴が鍛えた、戦場で部下に命令を通すための声だった。

誰も続かなかった。ベルクの膝だけが石畳に触れ、残りの七十人は立ったまま、疑いの目で私を見ていた。

それでいい。信頼は、行動で積むものだ。

「ありがとう、ベルク。——では、始めましょう」

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翌朝、日の出と同時に水路に立った。

ロザが用意した作業着に着替え、髪を一つに結い、鍬を手に取った。貴族の令嬢が握るようにはできていない柄だった。硬い木の感触が掌に食い込む。王都で羽根ペンを握っていた手には、重い。

崩落した水路の一つ目に取りかかった。土砂を掻き出し、崩れた石を積み直す。単純な力仕事だ。だが水路の構造を理解していなければ、どの石をどこに戻すべきかわからない。父の書斎にあった設計図を昨夜のうちに頭に入れておいてよかった。

「お嬢様、そこは俺が——」

ベルクが手を出そうとするのを、首を振って止めた。

「あなたには別の仕事があります。武器庫の使える剣を選り分けて。錆びていても研げるものは研いでおいて」

「は」

一刻ほど経った頃、遠巻きに見ていた領民が数人、黙って鍬を持って現れた。あの老人の姿はなかったが、壮年の男が二人と、意外にも十四、五歳ほどの少年が一人。少年は何も言わず、私の隣で土砂を掻き出し始めた。

「名前は」

「トーマです。——母ちゃんが、手伝えって」

ぶっきらぼうな声だったが、鍬を振る腕は慣れていた。農家の子だろう。

昼までに、一つ目の崩落箇所の土砂をおおむね除去した。手の皮が二カ所剥けて血が滲んでいたが、手袋の中に隠した。ロザが持ってきた黒パンと薄い汁を立ったまま食べ、午後も作業を続けた。

石組みの修復には知識がいる。設計図と照らし合わせながら、流水の角度を計算し、一つずつ石を嵌めていく。単純な力仕事ではなく、これは工学だった。王都で叩き込まれた実務の知識が、思わぬ形で役に立っている。

日が傾く頃には、一つ目の水路が仮復旧した。上流から水を少量流してみると、濁った水がゆっくりと溝を伝い、下流へ向かって流れていった。完全ではない。だが、流れた。三年間止まっていた水が、再び動き始めた。

水が流れるのを見たトーマが、小さく声を上げた。老人たちも足を止めて、水路を覗き込んでいた。

夕刻。作業を終えた後、私は屋敷の裏庭に立った。

鍬を置き、代わりに剣を手に取る。武器庫から引き出した長剣は、握りに使い込まれた革が巻かれていた。父のものだ。重い。私の体格には明らかに長すぎるが、他に状態のいい剣がなかった。

素振りを始めた。

基本の八型。父に教わった型だ。幼い頃、毎朝百回ずつ振らされた。足の運び、腰の回転、剣先の軌道。体が覚えている動きを、一つずつ確かめるように繰り返す。七年のブランクは正直に体に出た。三十を過ぎたあたりで腕が震え始め、五十で呼吸が乱れた。かつては百を超えても息一つ乱さなかったのに。

それでも振り続けた。鍬で剥けた掌が柄に擦れて痛む。汗が目に入る。構わない。

六十七本目で、風が剣に乗った。

意図したものではなかった。だが確かに、剣先を中心に空気の渦が生まれ、一瞬だけ刃が銀色に輝いた。風系統の魔力が、剣に共鳴したのだ。幼い頃、この現象を初めて起こしたとき、父は珍しく目を細めて笑った。「風の剣士」と呼ばれた母と同じ才だと。

腕を下ろした。呼吸を整える。全身が汗と土埃にまみれ、手は血と水ぶくれで惨憺たる有様だったが、体の芯に確かな熱があった。錆びついていた何かが、少しだけ動き出した感覚。

明日も水路を直す。明後日も。畑が動くまで、手を止めるつもりはない。そして夕刻には剣を振る。騎士がいないなら、私が騎士になるまでだ。

裏庭に立ったまま、南の空を見た。森の稜線が夕焼けに黒く浮かんでいる。

そのとき、風が止まった。

一瞬の無音。虫の声も、木の葉の擦れる音も、すべてが消えた。

そして——南の森の奥から、低い遠吠えが響いた。

獣の声ではなかった。もっと深く、もっと重い。大地の底から這い上がってくるような、内臓を震わせる咆哮。空気そのものが怯えるように、肌の上の産毛が一斉に逆立った。

背後で足音がした。ベルクが裏庭に駆けつけてきていた。その顔から血の気が引いている。四十年の戦歴を持つ老兵の顔が、あれほど強張るのを初めて見た。

「魔獣です、嬢様」

短い一言に、ベルクの声が僅かに震えていた。

南の森から、二度目の咆哮が夜空を裂いた。

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