第2話
第2話
三日が過ぎた。あるいは四日だったかもしれない。この部屋には暦もなく、日の傾きだけが時間を知る手がかりだった。
朝になると見張りの神官が扉を叩き、食事を運んでくる。固いパンと薄い粥、それに小さな果実がひとつ。果実の種類は日によって変わったが、どれも傷んでいた。片側が黒ずんでいたり、皮が萎びていたり。食べられないわけではなかった。けれど正規の聖女候補たちの食卓に並ぶものとは違うのだろうということは、想像に難くなかった。不満を覚えるほどの期待をそもそも持っていなかった。偽物には偽物の扱いがある。それだけのことだった。
唯一、外に出ることを許されるのは、日に一度の沐浴の時間だった。東棟の奥にある小さな浴室まで、見張りに連れられて往復する。石の回廊を歩く数分間だけが、この部屋の外の空気を吸える時間だった。回廊の高窓から差し込む光を浴びるたび、自分がまだ生きていることを確認するような気持ちになった。
その日も、沐浴へ向かう途中だった。
回廊の角を曲がったところで、足が止まった。前方に三つの人影がある。白い聖衣。胸元に光る聖印。正規の聖女候補たちだった。向こうもこちらに気づいている。逃げ場のない一本道だった。
「あら」
先頭の少女が足を止めた。鑑定儀式のとき、隣の少女の袖を引いていた候補だった。栗色の巻き毛を肩に流し、翡翠の耳飾りが揺れている。聖印は花の意匠を帯び、その光は安定して柔らかだった。名前は知らない。知る機会も与えられていなかった。
「まだいたのね」
言葉自体は素朴な驚きのようだった。けれどその声に込められた意味を、私は正確に聞き取っていた。まだ追い出されていないの。まだこの場所にいることを許されているの。
「……失礼します」
目を伏せてすれ違おうとした。身を寄せ、壁側に半歩退いた。それで済むはずだった。
すれ違いざまに、肩を押された。強くはなかった。ほんの少し体重を預けるようにぶつかっただけだ。けれど石壁に肘が当たり、鈍い痛みが走った。
「ごめんなさい。狭いものだから」
微笑んでいた。翡翠の耳飾りが揺れ、聖印の花が穏やかに明滅していた。後ろの二人がくすくすと笑う声が、回廊に反響した。遠ざかっていく足音を聞きながら、私は壁に触れたままでいた。肘の痛みはすぐに引いた。けれど胸の奥に残った感触は、もう少し長く居座った。
あの笑顔は、私の存在を踏んでいった靴の裏だ。そう思った。悪意ですらなかった。靴底が踏むものを気にしないのと同じように、彼女たちにとって私は、足元に転がっている小石のようなものなのだろう。小石は痛みを感じない、と彼女たちは思っている。
部屋に戻り、寝台に腰を下ろした。肘を見ると赤くなっていた。大したことではない。大したことではないのに、涙が出そうになった。泣くまい、と思った。泣いたところで何も変わらない。聖印は光らないし、偽物は偽物のままだし、あの少女たちの翡翠の耳飾りが曇ることもない。自分の弱さを確認するだけの涙なら、流す意味がない。
唇を噛んで、窓を見上げた。
高い位置にある窓の向こうに、午後の空が切り取られている。薄い雲が流れ、その隙間から淡い光が差し込んでいた。夜になれば、あの中庭に月明かりが降りる。そしてあの青年が、また剣を振るうかもしれない。
その時間だけが、この軟禁の日々のなかで唯一、私が呼吸できる場所だった。
夜が来るのを、待った。
日が暮れると部屋は暗くなり、燭台の蝋燭だけが頼りになった。見張りが最後の巡回を終え、回廊に足音が消えてから、私は椅子を窓の下に運んだ。もう手慣れた動作だった。椅子の脚が石の床を擦らないように持ち上げ、壁際にそっと据える。その上に立ち、窓枠に指をかけて中庭を覗き込む。
今夜も、いた。
月光の下に立つ人影。銀色の刃が夜気を裂く音が、微かに届いてくる。規則的で、しかし激しい。夜ごとに見ているうちに、その音の質が少しずつ変わることに気がついていた。ある夜は鋭く研ぎ澄まされた音で、ある夜はどこか荒れた音だった。今夜は後者に近い。刃の軌道にわずかな乱れがある——と言えるほど剣術に明るいわけではない。ただ、何日も続けて見ているうちに、彼の呼吸のリズムのようなものを覚え始めていた。
おかしな話だった。名前も知らない。声を聞いたこともない。月明かりの下の遠い影を窓越しに眺めているだけで、それは会話でも交流でもなく、ただ一方的に見ているだけだ。それなのに、彼が剣を振るう姿は私にとって夜の灯台のようなものになっていた。自分がどこにいるのかわからなくなったとき、あの銀色の軌跡を見れば、少なくとも今夜を越えられるような気がした。
救われている、というのは大げさだった。けれど、あの中庭に誰もいなかったなら、私はとうに壊れていたかもしれなかった。
ふと、剣の音が止んだ。
青年が動きを止めていた。刃を下ろし、僅かに肩で息をしている。月明かりが汗に濡れた横顔を照らしている。前髪が額に張りつき、それを払いもせずにただ立っている。疲労だろうか。しかし休息とは違う静止だった。何かを感じ取ったように、あるいは何かを探すように、身体の向きがゆっくりと変わった。
顔が、上がった。
こちらを——見ている。
中庭と窓との距離がある。暗がりの中の小さな窓だ。私の姿が見えているはずはなかった。けれど彼の視線は、確かにこの窓に向けられていた。月光に照らされた目が、闇のこちら側を射抜くように。吸い込まれそうだ、と思った。理由もなく、そう感じた。あの目には、嘲りも、値踏みも、無関心もなかった。ただまっすぐに、ここを見ていた。
私の手が、窓枠を握りしめていた。
一秒。あるいは二秒。それだけの時間だったはずだ。けれどその短い間に、胸の奥で何かが軋んだ。窓越しの暗がりに立つ私を、あの人は見ているのだろうか。見ていないのだろうか。もし見えているなら——。
反射的に身を引いた。
椅子の上でよろけ、壁に背中を打った。音を立ててしまった。息を殺し、心臓の音を聞いた。速い。あまりに速い。頬が熱く、指先は冷たかった。覗き見を咎められるという恐怖ではなかった。もっと別の何かだった。あの視線のなかに、自分を見つけてほしいという衝動が一瞬だけ過ぎったことへの、動揺。
だめだ。
偽物が、何を望んでいるのだ。
膝を抱え、額を押しつけた。呼吸が震えていた。名前も知らない人に、窓越しに見つけてもらいたいと思うなど。それがどれほど愚かなことか。この世界で私に与えられた称号は「偽物」のみであり、あの鑑定儀式の沈黙がすべてを物語っていた。何者でもない私が、誰かの目に映ることを願ってはいけない。
けれど目を閉じると、上を向いた彼の横顔が、まぶたの裏に残っていた。
月光を浴びて銀色に光る髪と、静かで、どこか痛みを帯びた目。あの目が私を見ていたかどうか、確かめる勇気はなかった。確かめてしまったら、見ていなかったとわかったとき、今度こそ何かが折れてしまう気がした。
窓の外で、再び剣の音が聞こえ始めた。
彼もまた、何事もなかったように鍛錬を続けている。私は椅子の上で膝を抱えたまま、その音を聞いていた。もう窓を覗く気力は残っていなかった。ただ音だけを頼りに、彼がまだそこにいることを知った。
このまま夜ごと窓辺に立ち続けていたら、いつか本当に見つかるだろう。そのとき彼は何を思うのだろうか。偽物が窓から覗いている——そう思って眉をひそめるだろうか。それとも、私のことなど気にも留めず、ただ剣を振り続けるだろうか。
どちらにしても、私には関係のない話だ。そう言い聞かせた。
けれど剣の音がやみ、中庭に静寂が戻った後も、私はしばらく窓辺を離れることができなかった。
翌日の沐浴の帰り道、回廊の壁に文字が刻まれていることに気がついた。古い文字だった。風化して半ば消えかけているが、かろうじて読み取れる一節があった。
——聖なるものは、沈黙のうちに宿る。
立ち止まって、指先でその文字をなぞった。誰がいつ刻んだものかはわからない。けれどその言葉は、まるで私に向けられたもののように胸に落ちた。聖印は沈黙した。けれどそれは、不在の証明だったのだろうか。それとも——。
「早くしなさい」
見張りの声に促され、私は指を離した。回廊を歩きながら、もう一度だけ振り返った。文字はもう影に沈んで見えなかった。
夜が来た。椅子を窓の下に運ぶ手が、昨日よりほんの少しだけ迷わなかった。