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偽物聖女と孤高の第三皇子

第3話 第3話

第3話

第3話

その夜も、窓辺に立っていた。

もう何度目になるのか数えてはいなかった。椅子を運び、窓枠に手をかけ、中庭を覗く。一連の動作はすでに儀式のようなものになっていた。自分のための、誰にも知られない小さな儀式。月は昨夜よりも細く、中庭に落ちる影は淡かった。青年の姿はまだなかった。

回廊の壁に刻まれていた古い文字を、繰り返し思い出していた。——聖なるものは、沈黙のうちに宿る。指先でなぞったあの感触が、まだ皮膚に残っているような気がした。風化した石の凹凸。何百年もの時間を経て、それでも消えきらなかった言葉。沈黙が不在を意味するとは限らない。けれどそう思いたいのは、ただの慰めだろうか。

中庭の隅に、影が動いた。

今夜も来たのだ。銀色の刃が月の薄明かりを弾く。その軌跡を追いながら、私は息をつめていた。昨夜、あの人の視線がこちらを向いたこと。見つかったかもしれないという恐れ。それでもこうして窓辺に立っている自分がいる。

剣の音が夜気に溶けていくのを聞きながら、このまま何も変わらない日々が続くのだろうと、半ば覚悟していた。偽物の居場所はこの石壁の内側にしかなく、世界との接点は高い窓からの眺めだけだと。

けれど翌朝、その予感は裏切られた。

朝の沐浴に向かう途中だった。回廊がいつもと違う空気を帯びている。見張りの神官の足取りが速い。すれ違う神官たちの表情にも緊張が滲んでいた。ひそひそと交わされる言葉の断片が耳に届く——「地下回廊の」「封印が」「……まさか」。

沐浴室の手前で、見張りが足を止めた。

「戻れ。今日の沐浴は中止だ」

理由は告げられなかった。踵を返し、来た道を戻る。回廊の奥から、低い振動が伝わってきた。石の床を通じて足裏に届くそれは、地鳴りのようでもあり、巨大な何かが呼吸しているようでもあった。壁の燭台の炎が揺れ、影が不規則に踊った。

部屋に戻されることなく、東棟の広間に集められた。正規の聖女候補たちがすでにいた。翡翠の耳飾りの少女、その隣にいつも並ぶ二人、残りの候補たち。誰もが落ち着かない様子で、聖印の光が忙しなく明滅していた。老神官が広間の中央に立ち、低い声で告げた。

「地下回廊の第七封印魔法陣に異常が発生した。原因は調査中だが、封じられた瘴気が漏出し始めている。聖女候補による浄化制御を行う」

候補たちの顔に緊張が走った。訓練は受けているのだろう。けれど実戦は初めてなのか、翡翠の少女の指先がかすかに震えているのが見えた。老神官の視線が私の上を素通りしていく。当然だった。偽物には声もかからない。

「ついてきなさい。全員だ」

全員。その言葉に、見張りの神官が私の肩をぞんざいに押した。ここに一人で置いておくわけにもいかない——そういう意味だろう。荷物のように連れていかれるのだと理解した。

地下への階段は、東棟の奥にあった。松明の灯りが石壁を赤く染め、降りるにつれて空気が重くなった。湿った冷気に混じって、甘いような苦いような匂いが漂っている。沐浴室の香ではない。もっと古い、土の底に眠っていた何かの匂い。足を踏み出すたびに振動が強くなり、壁の石が小さく軋んだ。

第七封印魔法陣は、地下回廊の突き当たりにあった。

床一面に刻まれた幾何学模様が、薄紫の光を放っている。その光は呼吸するように膨張と収縮を繰り返し、模様の線が蛇のようにうねっていた。中心部には亀裂が走り、そこから黒い霧のようなものが這い出している。瘴気。それが何であるか名前を知らなくとも、身体が本能的に拒絶した。胃の底がせり上がり、膝の力が抜けそうになった。

「始めなさい」

老神官の号令で、五人の候補が魔法陣を囲むように配置された。聖印が一斉に光を強め、少女たちが祈りの文言を唱え始めた。声が重なり、回廊に反響する。薄紫の光が白に押し戻されていく——一瞬、そう見えた。

けれど次の瞬間、魔法陣が脈打った。

轟音とともに紫の光が爆ぜ、黒い霧が噴き上がった。候補のひとりが悲鳴を上げ、膝をついた。聖印の光が明滅し、制御を失ったように点滅を繰り返す。翡翠の少女が歯を食いしばり、両手を前に突き出して浄化を続けようとしていた。額に汗が浮き、聖衣の裾が瘴気に黒く染まっていく。

二度目の脈動。壁の石が弾け飛び、松明がひとつ消えた。闇が広がった。

「だめよ、これ——抑えきれない!」

翡翠の少女が叫んだ。その声には、初めて聞く種類の恐怖が混じっていた。振り返った彼女の瞳が、一瞬だけ私と合った。しかしそこに助けを求める色はなかった。偽物の存在など、今この瞬間にも忘れている。

三度目の脈動が来る前に、候補たちは走り出した。老神官が「退避」と叫び、神官たちが先を争うように階段へ向かった。足音が遠ざかる。松明の残りが壁に赤い光を投げている。

私は、動けなかった。

足がすくんでいたのではない。身体が重かった。瘴気が黒い靄となって足元にまとわりつき、靴の隙間から冷気が肌に触れていた。逃げなければならないと頭では理解していた。けれど腰が石壁に張りつき、指一本動かすにも意志の全量が必要だった。空気が粘度を増し、呼吸のたびに肺の中に何かが溜まっていくような感覚があった。

魔法陣の光がまた膨れ上がった。亀裂がさらに広がり、黒い霧が天井を舐めるように這い上がっていく。このまま放置されれば、封印は完全に崩壊するだろう。それが何を意味するのか、私にはわからない。けれど本能が、ここにいてはいけないと告げていた。

掌が、熱かった。

はっとして手のひらを見下ろした。何も触れていないのに、皮膚の内側から焼けるような熱が湧き上がっている。指先がぴりぴりと痺れ、手首の血管が脈打つたびに熱が全身に広がっていく。鑑定儀式のときの冷たさとはまるで逆だった。あのときは拒絶だった。今は——招かれている。

掌が動き始めた。自分の意志ではなかった。

右手の人差し指が空中に文字を描いている。見たことのない文字だった。回廊の壁に刻まれていた古い文字とも、神官たちが使う聖文字とも違う。もっと原初的な、言葉が言葉になる前の形のようなもの。指が描くたびに、空中に淡い金色の光が残った。光は文字の形を保ったまま宙に浮かび、ゆるやかに回転している。

左手もまた動き出した。右手が描いた文字を鏡写しにするように、もうひとつの文字が空中に現れた。二つの文字が引き合うように近づき、重なった瞬間、金色の光が弾けた。

止められなかった。止めたいとも思わなかった。身体の奥底から湧き上がるこの力は、聖印の沈黙の向こう側にあったものだ。水晶球が認識しなかった何か。偽物と断じられたときには存在さえ感じなかった何かが、今、瘴気に呼応するように目を覚ましている。

指先から紡がれる文字の数が増えていく。三つ、五つ、七つ。それぞれが固有の光を放ち、魔法陣の上に環を描くように配列された。瘴気の黒い霧が、金色の光に触れたところから蒸発するように薄れていく。地下回廊に充満していた甘苦い匂いが、澄んだ空気に洗われていくのがわかった。

けれど制御しているという感覚はなかった。力が勝手に流れている。蛇口を捻ったまま手を離してしまったように、止め方がわからなかった。金色の光は強まり続け、文字の環が回転を速め、やがて光が回廊全体を白く染めた。

眩い。目を開けていられなかった。瞼の裏まで光が染み通り、身体の輪郭が溶けていくような感覚——召喚されたときと同じだ。あのときと同じ、自分が消えていく感覚。

怖い、と思った。初めて思った。

掌の熱が限界を超えようとしていた。骨まで焼けるような痛みが走り、膝が折れた。石の床に崩れ落ちながら、薄れていく視界の端に、階段の方から駆け下りてくる影が見えた気がした。

銀色の、何か。

意識が途切れる寸前、最後に感じたのは、冷たい石の床と、自分の掌にまだ残る熱だった。あの金色の文字が何であったのか。なぜ偽物であるはずの私の手から溢れたのか。その答えを知る前に、闇が私を飲み込んだ。

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