第2話
第2話
目が覚めたのは、車内アナウンスの声だった。
「まもなく、岡山、岡山です」
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。窓ガラスに額をつけたまま、首が変な角度に曲がっている。右の肩が痛い。慌てて姿勢を正すと、隣のビジネスマンはもういなくて、代わりに大きなリュックを抱えた学生らしい男の子が座っていた。
在来線への乗り換えは、思っていたよりもスムーズだった。新幹線のホームから階段を降りて、案内表示に従って歩くだけ。学生のときは誰かが先頭に立って、みんなでぞろぞろ移動したはずなのに、一人だとこんなにあっけない。ローカル線の車両は二両編成で、座席のモケットが日に焼けて色が褪せていた。乗客はまばらで、窓の外には菜の花畑が広がっていた。四月の光が車内に斜めに差し込んで、つり革の影が床の上をゆっくりと揺れている。
港町の駅に着いたのは午後三時を過ぎた頃だった。改札を出ると、潮の匂いがした。東京の、排気ガスとコンクリートが混ざったあの空気とはまるで違う。肺の奥まで吸い込むと、身体の内側が少しだけ洗われるような感覚があった。
フェリー乗り場までは歩いて十分ほど。スーツケースを引きながら、港沿いの道を歩いた。カモメが防波堤の上に並んでいて、私が近づいても逃げなかった。
フェリーの待合所は、コンクリートの壁にペンキで時刻表が書いてある簡素な建物だった。次の便まで四十分。ベンチに座ろうとスーツケースを動かしたとき、がくん、と嫌な手応えがあった。
キャスターが一つ、完全に取れていた。
車輪が地面に転がって、排水溝の蓋の隙間にはまった。しゃがんで拾い上げると、車軸を固定していたネジごと折れている。安物のスーツケースだった。三年前にネットで買った、三千円くらいの。まさかこんなところで壊れるとは思わなかった。
三輪では真っ直ぐ引けない。持ち上げるには重すぎる。フェリーの乗り場まであと少しなのに、待合所のベンチから乗船口まで五十メートルほどの距離が、急に遠く見えた。
私は折れたキャスターを手のひらに載せたまま、しゃがみ込んだ。情けないと思った。東京から逃げてきて、たどり着いた先でスーツケースが壊れて、港で立ち往生している。なんだか自分の現状そのもののようで、笑えるはずなのに笑えなかった。
「あー、それ、軸ごといってますね」
声は真横から聞こえた。顔を上げると、リネンシャツの男の人が立っていた。白に近い薄い青のシャツで、袖を肘の上まで捲っている。日に焼けた腕。背は高いけれど威圧感はなくて、前髪が風に揺れていた。歳は、たぶん私と同じくらい。
「ちょっと見ていいですか」
返事を待たずに、彼はしゃがみ込んで折れたキャスターを見た。ポケットから小さな万能ナイフを取り出して——刃ではなく、ドライバーの部分を開いた。
「完全に直すのは無理ですけど、フェリーに乗るまでは持つようにできると思います」
「あ、いえ、そんな、悪いです」
「もう始めてますんで」
確かに、もう始めていた。折れた車軸の残りを抜き取って、ナイフの先で何かを調整している。手つきに迷いがない。慣れた動きだった。
「旅行ですか」
「……はい。まあ、そんな感じです」
曖昧に答えた。旅行。そう言ってしまえば楽だった。逃げてきました、と正直に言う必要はどこにもない。
「島に渡るんですよね。向こうに泊まるところ、決めてます?」
「ネットで見た旅館を、一応……予約は入れてないんですけど」
「どこです?」
私はスマホの電源が切れていることを思い出した。旅館の名前は——確か、メモ帳に書いたはず。スーツケースの前ポケットを探ると、折りたたんだ紙切れが出てきた。
「えっと……潮路屋、っていう」
彼の手が一瞬止まった。それからゆっくりと顔を上げて、少しだけ笑った。口の端が片方だけ上がる、控えめな笑い方だった。
「うちです」
「え?」
「潮路屋、うちの旅館です。桐生蓮です」
間の悪さに、頭が真っ白になった。初対面の印象がスーツケースの壊れた女。しかも予約すら入れていない。口が開いたけれど、気の利いた言葉が何も出てこなかった。
「今、繁忙期じゃないんで、部屋は空いてますよ。予約なしでも大丈夫です」
蓮さん——桐生さんは、キャスターの応急処置を終えてスーツケースを立てた。試しに引いてみると、少しがたつくけれど、ちゃんと四輪で転がった。
「ありがとうございます」
「いえ。ちょうど仕入れの帰りだったんで、車あります。乗り場まで——っていうか、フェリーの向こうまで送りますよ」
断る理由が見つからなかった。というより、断る気力がなかった。三年分の疲れが足に溜まっていて、好意を遠慮するだけの元気がもう残っていなかったのだ。
「……すみません。お願いします」
桐生さんの軽トラックは、荷台に発泡スチロールの箱が積んであった。魚市場から仕入れてきた食材らしい。助手席に乗ると、車内には微かに磯の匂いがした。ダッシュボードの上に貝殻がひとつ転がっていて、日に焼けて白くなっていた。
フェリーに車ごと乗り込む。甲板に出ると、海風が髪を攫った。四月の瀬戸内は穏やかで、水面がきらきらと光っている。遠くに島影がいくつか浮かんでいて、空と海の境界線が溶けるようにぼやけていた。
「東京から?」
桐生さんが甲板の手すりにもたれて聞いた。
「はい」
「仕事、休みで?」
「……有給です」
短い沈黙があった。海風がリネンシャツの裾を揺らしている。カモメが一羽、フェリーの横を並走するように飛んでいた。
「東京、逃げてきたんでしょう」
心臓が跳ねた。
桐生さんはこちらを見ていなかった。海のほうを向いたまま、独り言のように言った。その声に責めるような響きはなくて、ただ事実を確認するような、淡々としたトーンだった。
私は何も答えられなかった。図星だったからだ。旅行です、と嘘をつくことはできたのに、あの一言の前では嘘が喉を通らなかった。
「別に、悪いことじゃないですよ」
桐生さんがそう付け足して、手すりから身体を離した。
「島に着いたら、まず風呂入ってください。うちの湯、けっこういいんで」
話題を変えられたのだと気づいた。追い詰めるつもりはなかったのだ。ただ見抜いて、それだけ言って、あとは放っておいてくれる。その距離感がありがたくて、同時に少しだけ悔しかった。初対面の人間に、こんなに簡単に見透かされるほど、私はわかりやすい顔をしていたのか。
島が近づいてきた。港の防波堤に「ようこそ」と書かれた看板が見える。白いペンキの文字が、塩風で少しかすれていた。
フェリーが接岸する振動を足の裏に感じながら、私は手すりを握る自分の手を見た。ボールペンを握りしめて倒れた、あの夜の手とは違う。力が抜けている。ただ、風に飛ばされないように軽く添えているだけの、当たり前の手の使い方。
桐生蓮という人は、不思議な人だった。
初対面で他人のスーツケースを直して、車に乗せて、逃げてきたでしょうと言い当てて、そのあと何事もなかったように風呂を勧める。距離の詰め方も引き方もちぐはぐなのに、不快ではなかった。
島に降り立つと、空気が変わった。港町とも違う、もっと柔らかい風。潮の匂いの中に、どこかから金木犀に似た甘い香りが混ざっている。軽トラックの助手席から降りて地面に足をつけた瞬間、靴底を通して土の感触が伝わってきた。アスファルトではない。踏み固められた土の道。
「潮路屋、この先です」
桐生さんが荷台から発泡スチロールの箱を降ろしながら言った。坂道の上に、古い木造の建物が見えた。瓦屋根に夕日が当たって、鈍い橙色に光っている。
スーツケースを引いて、がたつくキャスターの音を響かせながら坂を上る。たった五十メートルの坂道なのに、息が切れた。体力が落ちている。三年間、会社と自宅の往復しかしていなかったのだから、当然だった。
玄関の引き戸を桐生さんが開けた。中から、出汁の匂いがした。
「ただいま戻りました。お客さん、一人連れてきた」
奥から「はいはい」と年配の女性の声が返ってきた。その声の調子がやけに温かくて、私はまた少しだけ泣きそうになった。お客さん。ただそれだけの言葉なのに、歓迎されていることが声色で伝わってきた。
桐生さんが振り返って、靴を脱ぎながら言った。
「ゆっくりしてってください。うちの島、逃げてくるには悪くないところですよ」
その言葉を、私はうまく受け止められなかった。ありがとうございます、と言ったはずなのに、自分の声がひどく小さくて、波の音にかき消されそうだった。