第3話
第3話
部屋に通されたのは、二階の角部屋だった。
六畳の和室に、古い木の匂いがした。畳はところどころ日に焼けて色が変わっていたけれど、きちんと掃除されていて、裸足で踏むとい草の感触が足の裏に沁みた。窓を開けると、眼下に海が見えた。夕方の瀬戸内は凪いでいて、水面が夕日を受けてゆらゆらと揺れている。潮風がカーテンを膨らませて、部屋の中の空気が一瞬で入れ替わった。
荷解きは五分で終わった。三日分の着替えと文庫本とスーツケースから出すものなんてそれだけで、押し入れに布団が畳んであるのを確認して、それで終わり。東京のワンルームでは床が見えないほど物が散らばっていたのに、ここには何もない。何もないことが、こんなに落ち着くとは思わなかった。
浴衣に着替えて廊下に出ると、先ほどの年配の女性が待っていた。
「お風呂、ご案内しますね。今の時間は誰もいないから、ゆっくり入れますよ」
小柄で、腰がほんの少しだけ曲がっていた。でも足取りはしっかりしていて、廊下を歩く速度は私より速いくらいだった。建物の奥へ進んで、渡り廊下を抜けると、潮の匂いが強くなった。
「露天のほう、おすすめよ。海が見えるから」
脱衣所の戸を開けてくれて、タオルの場所を示して、それだけ言って戻っていった。
一人になった。
服を脱ぐと、鏡に自分の身体が映った。鎖骨が浮き出ている。肋骨の形がうっすら見える。腕も脚も細くなっていて、これは痩せたのではなく、やつれたのだと分かった。三年間、ちゃんと食事をしていなかった。コンビニのおにぎりとカップスープ、デスクで齧る栄養バーが主な食事だった。鏡の中の身体から目を逸らして、ガラス戸を開けた。
湯気が顔に触れた瞬間、膝の力が抜けそうになった。
露天風呂は、思っていたよりずっと小さかった。三人も入ればいっぱいになるくらいの石造りの湯船。けれど目の前には遮るもののない海が広がっていて、水平線がゆっくりと橙色に染まっていくのが見えた。
お湯に足を入れる。熱い。でも嫌な熱さではなくて、冷え切った身体の芯に向かって、じわじわと染み込んでくるような温度だった。肩まで沈むと、湯の重みが全身を包んだ。
ああ、と声が出た。自分でも驚くほど深い溜め息だった。
肩が、固い。自分で触ると、首から肩甲骨のあたりまで石のように凝り固まっていた。いつからこんなに固くなっていたのだろう。毎日パソコンに向かって、同じ姿勢で十四時間。肩が凝っている自覚すらなくなるほど、それが当たり前になっていた。
湯の中で、ゆっくりと肩を回した。ごきり、と鈍い音がした。それから少しずつ、本当に少しずつ、筋肉がほぐれていくのが分かった。こめかみの奥でずっと鳴っていた低い耳鳴りが、いつのまにか消えている。代わりに聞こえるのは、湯が溢れる音と、遠くの波の音と、どこかで鳴く鳥の声だけだった。
目を閉じた。瞼の裏に蛍光灯の光はなかった。ただ夕日のあたたかい橙色が透けているだけで、それがひどく優しかった。
どれくらいそうしていたのか分からない。指先がふやけて、空が藍色に変わり始めた頃、ようやく湯船から上がった。身体が軽い。あれほど重かった肩が、完全にではないけれど、少しだけ人間に戻ったような感触があった。
脱衣所で髪を拭いていると、廊下から声がかかった。
「お食事、用意できてますよ」
さっきの年配の女性の声だった。浴衣を整えて廊下に出ると、一階の広間に案内された。
広間といっても、テーブルがひとつだけ置かれた小さな部屋だった。窓際の席に、料理が並んでいる。刺身、煮物、焼き魚、酢の物。小鉢がいくつか。ご飯と味噌汁。どれも量は多くないけれど、皿の一つひとつに手がかかっているのが見て分かった。刺身のツマまでちゃんと大根を桂剥きにしてあって、煮物の里芋は面取りしてある。
「すごい……」
思わず声が出た。東京では、こんなふうにちゃんと作られた食事を最後にいつ食べたか思い出せなかった。
箸を取ろうとしたとき、襖が開いた。
「あ、どうも」
桐生さんだった。さっきのリネンシャツから紺色の作務衣に着替えていて、盆の上に追加の小鉢を載せていた。
「これ、今日揚がったサワラの炙り。余ったんで」
「ありがとうございます」
小鉢をテーブルに置いて、桐生さんはそのまま立ち去るかと思った。でも、少し迷うような間があって、向かいの椅子を引いた。
「俺もまだ食べてないんで、ここで食っていいですか」
「あ、はい。もちろん」
断る理由がなかった。というより、少しだけほっとした。一人の食事は慣れているはずなのに、この広間で一人きりだったら、東京のワンルームと変わらない気がして。
しばらく黙って食べた。刺身が甘かった。醤油をほんの少しつけるだけで、魚自体の味がちゃんとする。煮物は出汁がしっかり染みていて、里芋がほろりと崩れた。味噌汁はあおさの味噌汁で、磯の香りが湯気と一緒に立ち上ってきた。
「おいしい、です」
「ばあちゃんの味付けなんで。俺はまだ追いつけないです」
桐生さんはそう言って、焼き魚の骨を器用に外した。さっきの年配の女性がおばあさんなのだと、ここで初めて知った。
「桐生さんは、ずっとこの島に?」
聞いてから、自分の質問の不躾さに気づいた。フェリーでの会話を考えれば、彼が「ずっとここにいた人」ではないことくらい察しがつく。案の定、桐生さんの箸が一瞬だけ止まった。
「……いや。三年くらい前に、戻ってきました」
三年。私が東京で擦り減っていたのと同じ長さだ。
「それまでは東京にいたんで」
「東京に」
「ええ。まあ、いろいろあって」
桐生さんは味噌汁を一口飲んで、椀を置いた。視線を窓の外に向けている。もう真っ暗で、海は見えない。ただ波の音だけが、規則正しく聞こえていた。
「さっきフェリーで、逃げてきたんでしょうって言ったじゃないですか」
「……はい」
「見抜いたとか、そういうんじゃないです。俺もそうだったから」
桐生さんの声は、相変わらず淡々としていた。感情を込めているわけでも、突き放しているわけでもない。ただ事実を述べているだけの声。でも、その一言の重さが、私には分かった。
「俺もそうだったから」という言葉の中にある時間の厚み。それは共感でも慰めでもなく、同じ地面に立っている人間だけが発することのできる、静かな宣言だった。
「……東京で、何をされてたんですか」
聞いてよかったのか分からないまま、口が動いていた。桐生さんは少しだけ間を置いて、それから小さく息を吐いた。
「IT系の会社やってました。友達と二人で立ち上げて」
「やってました」
過去形。桐生さんは頷いた。
「まあ、色々あって。今はここで旅館です」
それ以上は語らなかった。味噌汁の椀を手に取って、最後の一口を飲み干した。「色々」の中身を聞きたいと思ったけれど、聞けなかった。さっきフェリーで桐生さんが私の「逃げ」を追い詰めなかったように、私も踏み込む権利を持っていないと思った。
でも、何かが変わった。
三年間、私は他人に興味を持つ余裕がなかった。同期が辞めていくのを見送るとき、理由を聞いたことは一度もない。後輩が泣いているのに気づいても、声をかける気力がなかった。自分のことで精一杯で、他の誰かの事情に目を向ける隙間が、心のどこにもなかった。
それなのに今、この人の「色々」が気になっている。東京で何があったのか、なぜ島に戻ってきたのか、その「色々」の中にどんな痛みがあったのか。知りたいと思っている。
食事を終えて、桐生さんが食器を下げてくれた。
「明日の朝、七時に朝食です。たぶん、ばあちゃんがその前に起こしに来ると思いますけど」
「はい。ありがとうございました」
「おやすみなさい」
襖が閉まって、一人になった。
部屋に戻って布団に入ると、天井の木目がぼんやり見えた。波の音が絶え間なく聞こえていて、それが不思議と眠気を誘った。
桐生蓮。IT系の会社を友達と立ち上げて、何かがあって、島に戻ってきた人。「俺もそうだったから」と、あの淡々とした声で言った人。
枕に頭を沈めながら、私は自分の心の中に小さな灯りが点いたことに気づいていた。三年間ずっと暗かった場所に、かすかな光。他人に興味を持つということ。それがどういうことだったか、もう忘れかけていた。
知りたい。この人のことを、もう少しだけ。
目を閉じると、さっきの露天風呂の湯気と、あおさの味噌汁の匂いが混ざって蘇ってきた。三年間の強張りが、ほんの少しだけほどけた夜だった。
遠くで波が砕ける音がする。私はその音を聞きながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。——明日、桐生さんのおばあさんが、何時に起こしに来るのだろう。そんなことを、ぼんやり考えながら。