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潮風と退職届

第1話 第1話

第1話

第1話

蛍光灯の青白い光が、瞼の裏にちらついている。

それが最後に見た景色だった。金曜日の午後十一時四十分、私——佐倉陽菜は、広告代理店の十二階フロアで意識を手放した。

気がついたとき、頬に冷たいものが当たっていた。デスクの天板ではなく、床。灰色のタイルカーペットが視界いっぱいに広がっている。倒れたのだ、と理解するまでに数秒かかった。カーペットの繊維の一本一本がやけに鮮明に見えて、その隙間に溜まった埃の匂いが鼻をついた。椅子が横倒しになって、デスクの脚にぶつかっている。右手にはまだボールペンが握られていた。指の関節が白くなるほど強く。まるで、最後の一行を書き終えるまでは倒れまいと、身体だけが頑張っていたみたいに。

「佐倉さん!」

総務の誰かが駆け寄ってくる足音がする。でもその声がどこか遠くて、水の中で聞いているみたいだった。蛍光灯の光がぼやけて滲んで、天井の模様が二重に見えた。

大丈夫です、と言おうとした。口が動かなかった。

それは金曜の夜のことで、フロアにはもうほとんど人が残っていなかった。ほとんど、というのは正確ではない。私と、もう一人の後輩と、掃除のおばさんだけだった。後輩が異変に気づいてくれなかったら、私は始発の時間まであの床の上で眠っていたかもしれない。

翌朝、産業医の古谷先生の前に座らされた。先生はカルテから目を上げて、眼鏡の奥の目を細めた。診察室は消毒液のにおいがして、壁に貼られた「ストレスチェックのお知らせ」というポスターの角がめくれていた。私はパイプ椅子の冷たさを背中に感じながら、自分がここに呼ばれた理由を、まだ半分くらいしか受け入れていなかった。窓の外からはビル風の低い唸りが聞こえていて、診察室の時計だけが規則正しくカチカチと秒を刻んでいた。

「佐倉さん、最後にまともに休んだのはいつですか」

まともに。その言葉の定義がわからなくて、少し考えた。

「……去年の、年末年始は」

「それ、五日間でしょう。うち二日は出社してましたよね」

バレていた。私は黙って視線を落とした。先生のデスクの上に、私の勤怠記録が印刷されて置いてあった。赤いマーカーで何箇所も線が引いてある。その赤い線の多さに、自分自身が少し驚いた。こんなにも休んでいなかったのか。数字で突きつけられると、自分の異常さが他人事のように見えた。

「このままだと入院です。冗談じゃなく」

先生の声のトーンが変わった。さっきまでの穏やかさが消えて、はっきりとした警告の響きがあった。先生の指がカルテの縁を二度叩いた。その小さな音が、静まり返った診察室に硬く響いた。

入院。その二文字が、乾いた会議室の空気の中にぽとりと落ちた。

三年間、私はこの会社で走り続けてきた。新卒で入った同期は十二人いた。二年目の終わりには四人になり、三年目が終わる頃には私しか残っていなかった。

辞めなかった理由は単純だった。企画が通るのが嬉しかったのだ。クライアントの反応が返ってきて、数字が動いて、自分の考えたものが世の中に出ていく。その感覚だけが、終電のホームで膝が笑うような毎日を支えていた。

けれど、通した企画書に載る名前はいつも同じだった。

「矢島さん、今回の企画も素晴らしいですね」

クライアントがそう言うたびに、隣に座った上司の矢島が「いやいや、チーム全体の力ですよ」と笑う。チーム全体。深夜二時まで一人でリサーチして、土日を潰してデザイナーとやりとりして、プレゼン資料を七回作り直したのは私だ。矢島がやったのは、最終稿に赤字を三箇所入れて、自分の名前を一番上に書いたことだけだった。

一度だけ、言ったことがある。「この企画、私がメインで担当したんですけど」と。矢島は片眉を上げて、あの薄い笑みを浮かべた。

「佐倉さん、クライアントの前で恥をかかせるつもり? チームワークって知ってる?」

声を荒げたわけではなかった。むしろ静かだった。だからこそ、その言葉は喉の奥に刺さって、抜けなくなった。

それ以来、何も言わなくなった。

産業医の部屋を出て、私はロッカーの前で立ち尽くした。スマホには矢島からのメッセージが三件。「月曜の会議資料、日曜までに出せる?」「佐倉さん?」「既読つかないんだけど」

有給が四十二日分溜まっていた。三年間で一度も申請しなかった有給。存在すら忘れていた。

指が震えた。でもそれは恐怖ではなくて、もっと別の何かだった。怒りに似ていて、けれど怒りよりも静かで、長く溜まったものが身体の奥から浮き上がってくるような感覚だった。胸の底で何かが軋んで、ゆっくりと亀裂が走っていくような——我慢の限界を、身体のほうが先に知らせていた。

申請ボタンを押した。二週間分。矢島を通さず、人事に直接出した。

押し入れの奥からスーツケースを引っ張り出したとき、取っ手に去年の健康診断の案内が引っかかっていた。未開封のまま。笑えなかった。

行き先は、大学三年の夏にゼミの合宿で訪れた瀬戸内の島だった。名前は覚えていたのに、何があったかはほとんど思い出せない。ただ、海がきれいだったことと、夜が静かだったことだけが、記憶の底にぼんやりと残っていた。

東京駅の新幹線ホームで、スマホの電源を長押しした。画面が暗くなっていくのを見つめながら、ひとつ息を吐いた。これで矢島からの通知は届かない。「既読つかないんだけど」も、「日曜までに出せる?」も。

電源が落ちた瞬間、身体がほんの少しだけ軽くなった気がした。同時に、こんなことで楽になる自分がひどく情けなかった。

のぞみの自由席に滑り込んで、窓際に座った。発車のベルが鳴り、ホームがゆっくりと流れ始める。品川、新横浜、と停車駅の名前が電光掲示板に流れていく。いつもなら車内でもノートパソコンを開いているはずの時間に、私はただ窓の外を見ていた。

名古屋を過ぎたあたりで、ふと窓に視線がとまった。

暗くなった車窓に、自分の顔が映っていた。

目の下の隈。こけた頬。唇の色が悪い。ファンデーションを塗る気力すらなかったから、肌荒れがそのまま見えている。髪もぱさついて、毛先が枝分かれしている。いつからこんな顔になったのだろう。去年の社員証の写真と比べたら、たぶん別人に見える。

ああ、と思った。

これが三年間の答えなのだ。通した企画書の数でも、クライアントの評価でも、矢島に奪われた手柄の数でもなく。この顔が、私の三年間のすべてだった。

涙がこぼれたのは、悲しかったからではなかった。

ただ、ようやく自分の顔をちゃんと見た、それだけのことだった。窓の中の私と目が合って、その目があんまりにもくたびれていて、ああ、ごめん、と思った。誰に対してでもなく——この顔の、自分自身に。

新大阪で乗客がどっと入れ替わった。隣に座ったビジネスマンがノートパソコンを開いて、カタカタとキーボードを叩き始める。つい一週間前の自分と同じ姿。私は窓に映った自分の顔を手のひらで拭って、目を閉じた。

岡山で在来線に乗り換える。そこからローカル線で港町まで行き、フェリーに乗る。学生のときはゼミのみんなと騒ぎながらだったその道のりを、今度は一人で辿る。それでいい。むしろ、今は一人がいい。

瀬戸内の海は、きっとまだ静かだろう。

スーツケースの中身は三日分の着替えと、日焼け止めと、文庫本を一冊。充電器は入れたけれど、もう電源を入れるつもりはなかった。少なくとも、しばらくは。

列車が西へ向かうにつれて、車窓の風景が少しずつ変わっていく。ビル群が減り、山が近づき、空が広くなる。私は額を窓ガラスにつけて、流れていく景色をぼんやりと眺めた。ガラスは冷たくて、そのひんやりとした感触だけが、今の私には心地よかった。

矢島の顔が頭をよぎったけれど、振り払うように目を閉じた。

月曜の会議資料のことも、来月のプレゼンのことも、今は考えない。考えたら、きっとまたスマホの電源を入れてしまう。入れたら最後、私はまたあの蛍光灯の下に戻ってしまう。

だから今は、ただ西へ向かう。

ガラスに額をつけたまま、私はいつのまにか眠っていた。三年ぶりに、仕事の夢を見ない眠りだった。

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