第2話
第2話
自室の扉を閉めた瞬間、張り詰めていた糸がようやく緩んだ。
侍女のマリーが駆け寄ろうとするのを片手で制し、私はそのまま寝台の端に腰を下ろした。ドレスの裾が冷たい石の床に広がる。腰を下ろした拍子に、コルセットの骨が肋骨を圧迫して鈍い痛みが走った。鏡台に映る自分の顔は、思いのほか蒼白だった。大広間で浮かべた微笑みなど、もうどこにも残っていない。頬にわずかに残る紅だけが、先ほどまで社交の仮面を被っていた名残を物語っている。
「お嬢様、お加減が——」
「マリー。お茶を淹れてちょうだい。それから、しばらく一人にして」
声が掠れていた。マリーは何か言いたげに口を開きかけたが、私の表情を見て飲み込んだのだろう。静かに一礼して部屋を出ていった。
一人になった室内で、私は深く息を吐いた。窓の外では満月が煌々と輝いている。月明かりに照らされた調度品が青白い影を落とし、見慣れたはずの自室が別の場所のように見えた。どこか遠い、手の届かない絵画の中に迷い込んだような心許なさだった。
『さて——整理しましょう』
前世の記憶が完全に戻った今、やるべきことは明確だ。この世界が乙女ゲーム『星詠みの聖女』の世界であること。私がその悪役令嬢アンナリーゼ——通称リゼットであること。そして、ゲームの筋書き通りに進めば、私を待つのは破滅しかないということ。
私は寝台の上で膝を抱え、三周分のプレイ記憶を丁寧にほどいていった。
まず、破滅ルートの全体像。悪役令嬢の末路は大きく三つの分岐に収束する。第一に、婚約破棄の後に社交界でさらなる失態を演じ、爵位剥奪に至る道。第二に、王太子への未練から聖女に敵対し、断罪裁判で修道院送りになる道。第三に——最も稀なルートだが——追い詰められた末に国外逃亡を図り、途上で命を落とす道。
いずれにせよ、全てのルートに共通する起点がある。
『攻略対象との接触。これが全ての破滅フラグのトリガーになっている』
攻略対象は五人。王太子エドワード、第二王子アレクサンドル、騎士団総長の息子ヴィクトール、宮廷魔術師のセドリック、そして大商会の若き会頭レオンハルト。聖女ルナリアがいずれかと結ばれるのが正規ルートであり、悪役令嬢はその恋路を邪魔する障害物として配置されている。
つまり、彼らに近づけば近づくほど、破滅フラグが立つ。逆に言えば——。
『全員から距離を取れば、フラグは立たない』
単純な結論だった。ゲームの悪役令嬢が滅びるのは、王太子への執着を捨てきれないからだ。嫉妬に駆られて聖女を害し、攻略対象たちの怒りを買い、最終的に断罪される。その連鎖の起点さえ断てば、物語は私を巻き込む理由を失う。
次に、聖女ルナリア。
『——あれが、最大の不確定要素ね』
ゲームでは聖女の「浄化の力」が物語の中核を成していた。だがその力には裏がある。ルナリアルートの最終章、浄化の暴走イベント。聖女の力が制御を失い、王都を巻き込む災厄へと発展する。攻略対象の誰かが身を挺して止めるのがゲームの山場だが——もし止める者がいなければ、どうなる。
ゲームでは描かれなかった。プレイヤーが操作する以上、必ず誰かが止める前提で設計されていたからだ。
だが今、この世界に「プレイヤー」はいない。
『考えすぎ。まずは足元を固めること。聖女の問題は、少なくとも今の私が手を出すべき領域じゃない』
最適解は、こうだ。社交界から身を引き、領地に戻り、静かに暮らす。攻略対象とは接触しない。聖女の暴走が起きようと、それは王家と教会が対処すべき問題であって、没落寸前の公爵令嬢が首を突っ込む話ではない。
完璧な計画だった。合理的で、隙がなくて、そしてどこか——味気ない。
『味気なくて結構。生き延びることが最優先よ』
マリーが盆にお茶を載せて戻ってきた。カップを受け取り、一口含む。カモミールの穏やかな香りが喉を滑り落ちていく。少しだけ、身体の強張りがほどけた。
そのとき、扉を叩く音がした。
マリーの淹れたばかりの茶がまだ湯気を立てている時刻だ。こんな夜更けに訪れる者など、限られている。
「入れ」
低い声が扉越しに響いた。ノックではなく命令。マリーが怯えた目で私を見る。
——父上だ。
扉が開き、ヴェルテンベルク公爵ルドルフの長身が室内に影を落とした。銀灰の髪を後ろに撫でつけた厳格な容貌。冷徹な灰色の目が、寝台に腰掛けたままの私を見下ろす。廊下から流れ込む冷気が、カモミールの残り香をかき消した。
「恥を晒してくれたな、アンナリーゼ」
感情の読めない声だった。怒りとも失望とも取れる、あるいはそのどちらでもない、ただ事実を告げるような平坦さ。
「王家との縁が切れた今、我が家の立場がどうなるか。分かっていような」
分かっている。ヴェルテンベルク公爵家は名門ではあるが、近年は財政が逼迫している。王家との婚姻は起死回生の一手だった。それが崩れた今、社交界での求心力は急速に失われるだろう。取引先は離れ、縁談は遠のき、領地経営はさらに困窮する。
ゲームの中では、このあとの父上の選択は二つだった。リゼットを修道院に送って王家への恭順を示すか、あるいは別の縁談を急いで体面を取り繕うか。どちらも、場当たりの延命策に過ぎない。
——でも。
私は膝の上のカップを静かに置き、立ち上がった。
「父上」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。あの大広間で王太子に向けた声とは違う。計算ではなく、覚悟から出た声だった。
「領地の財務帳簿を見せていただけませんか。過去五年分、全て」
沈黙が落ちた。
父上の灰色の目が、わずかに細められた。怒りではない。品定めだ。十八年間、社交と作法しか学ばなかったはずの娘が、突然、財務資料を要求した。その意味を、この人は一瞬で秤にかけている。
「何を企んでいる」
「企みなどございません。ただ、現状を正しく把握したいのです」
父上は黙って私を見つめていた。長い沈黙だった。暖炉の火が爆ぜる音だけが、室内に響いている。薪の弾ける乾いた音が、二人の間の緊張を際立たせるように、一定の間隔で繰り返された。
私は視線を逸らさなかった。前世の記憶が叫んでいる。ここが分岐点だと。ゲームのリゼットは、この場面で泣き崩れるか、あるいは父に縋って赦しを乞うた。どちらを選んでも、父は娘を修道院に送る決断を固める。
だが、私は泣かない。縋らない。代わりに、数字を求める。
「……帳簿か」
父上がゆっくりと呟いた。その声に、ほんのわずかだが——氷の下を流れる水のような、かすかな揺らぎがあった。
「よかろう。明朝、執務室に届けさせる」
それだけ言って、父上は踵を返した。扉が閉まる直前、一瞬だけ足が止まったように見えた。何かを言いかけて、飲み込んだような間。
けれど扉はそのまま閉じ、重い足音が廊下に遠ざかっていった。
私はふっと息を吐いた。握りしめていた手を開くと、先ほど廊下でつけた爪の跡が、まだ赤く残っていた。指先が微かに震えている。覚悟から出た声だと思ったけれど、身体のほうは正直だった。膝にもかすかな力の抜けた感覚があり、立ったままでいられたのが不思議なくらいだった。
『第一関門、突破。……多分』
寝台に腰を下ろし、冷めかけたカモミールティーに口をつけた。香りはもう薄かったが、喉を通る温もりが心地よかった。
明朝届くであろう帳簿の中身は、おおよそ見当がついている。歳入の減少、積み上がった負債、手入れの行き届かない領地。ゲームの設定資料で読んだ通りなら、ヴェルテンベルク領はあと数年で自壊する。
だが、設定資料にはもう一つ、重要な記述があった。領地北東部の廃鉱——かつて掘り尽くされたとされた鉱山の、さらに深部に眠る希少鉱石の鉱脈。ゲームでは単なるフレーバーテキストに過ぎなかったその一節が、今は全く違う意味を帯びて浮かび上がってくる。
『……上手くいくかは分からない。でも、何もしなければ確実に詰む。ならば賭ける価値はある』
窓の外で、梟がまた鳴いた。月は西に傾き始めている。長い夜はまだ続くけれど、もう目の前の闇は、先ほどまでとは違って見えた。
帳簿を開くのが、少しだけ楽しみだった。