第3話
第3話
翌朝、約束の帳簿は執務室ではなく、私の部屋に届けられた。
それも、侍従が恭しく運んできたのではない。廊下の前に木箱が三つ、無造作に積まれていた。まるで不要品の処分でも頼まれたかのような扱い。父上なりの意思表示だろう——好きにしろ、ただし期待はしていない、と。
マリーに手伝わせて室内に運び入れ、寝台の脇の書き物机に最初の帳簿を広げた瞬間、息を呑んだ。古い紙とインクの匂いが鼻をつく。経年で黄ばんだ頁の端は脆く、触れるだけで細かな破片がぱらぱらと机に散った。
『——これは、思っていたより遥かにひどい』
ゲームの設定資料では「財政が逼迫している」程度の記述だった。数行のフレーバーテキストで片づけられていた公爵領の台所事情。しかし目の前の数字は、逼迫どころの話ではなかった。
過去五年分の帳簿を、机の上に年度順に並べる。数字を追う指先に、前世で身についた癖が戻ってきていた。前世の私は経理でも会計士でもなかったけれど、周回プレイで培った情報処理の速さが、この場面では存外に役に立つ。
歳入は五年前の六割にまで落ち込んでいた。主要な収入源だった鉱山が枯渇して以来、農業と林業の細い柱だけで領地を支えている。一方で歳出は減っていない。むしろ王都での社交費——私の婚約維持に関わる費用を含めて——が歳出の三割近くを圧迫している。
『皮肉ね。殿下との婚約を維持するために、領地が干上がっていた』
負債の総額を暗算して、思わず帳簿を閉じそうになった。二年——いや、このままなら一年半で領地の運営資金が底をつく。売却できる資産も限られている。代々の領地を切り売りすれば数年は延命できるだろうが、一度手放した土地は二度と戻らない。それは再建ではなく、緩やかな死だ。
私は机に頬杖をつき、窓の外を見た。朝の陽光が庭園の薔薇を照らしている。手入れの行き届いた美しい庭。だがこの庭園の維持費すら、もはや領地の体力では贅沢品だった。
三つ目の木箱の底から、古い地図が出てきた。領地の全域図。鉱区の位置に朱で×印がつけられている。閉山を示す印だ。
その×印の一つに、指を置いた。領地北東部の第三鉱区。
『ここよ』
ゲームの設定資料集に記された、たった一行のテキストが蘇る。——かつてヴェルテンベルク領の繁栄を支えた鉱山群は、主要鉱脈の枯渇により三十年前に閉山された。しかし、一部の地質調査記録は、深部に未到達の鉱層が存在する可能性を示唆している——。
ゲームでは、この記述に意味はなかった。プレイヤーが掘り返す展開は存在せず、ただ世界観に奥行きを持たせるための装飾に過ぎない。設定資料を読み込んだ物好きなプレイヤーだけが「もったいない」と呟いて終わる、そんな一節。
だが今の私には、この一行が金塊に見える。
問題は、ゲームの設定が現実とどこまで一致するか、だった。この世界がゲームの通りに動く保証はない。婚約破棄のイベントは確かに起きたけれど、細部は既に違っている。鉱脈が実在する確証はどこにもない。
『けれど、他に手がない』
帳簿の数字が突きつける現実は残酷だった。新しい収入源を見つけなければ、ヴェルテンベルク公爵家はゲームの筋書き通り没落する。婚約破棄を回避できなかった以上、王家からの援助も望めない。社交界で新たな後ろ盾を探すにも、今の私の評判では門前払いが関の山だろう。
残された道は、足元を掘ることだけ。文字通りに。
私は帳簿と地図を抱え、父上の執務室へ向かった。
扉を叩くと、短い間があって「入れ」と返事があった。昨夜と同じ冷たい声。執務室の中は朝だというのに薄暗く、分厚い帳簿や書簡が机の上に積み重なっている。その向こうに座る父上の顔には、隠しきれない疲労の影があった。目の下の隈が深い。昨夜も数字と格闘していたのだろう。同じ帳簿を、同じ絶望とともに。
「帳簿は読んだか」
「はい。率直に申し上げます。このままでは一年半で資金が枯渇します」
父上の眉がぴくりとも動かなかった。知っていたのだ。私よりずっと前から、この数字と向き合っていたのだろう。
「それを言いに来たのか」
「いいえ。提案がございます」
地図を父上の机に広げた。指先が示したのは、朱の×印がつけられた第三鉱区。
「北東部の廃鉱の再調査を進言いたします。閉山時の地質記録を精査したところ、深部に未到達の鉱層が存在する可能性がございます」
嘘は言っていない。ゲームの設定資料ではなく「地質記録の精査」という体裁を取った。帳簿と一緒に入っていた古い鉱山資料にも、確かに類似の記述があったのだ。ゲームの設定が現実の資料と一致していた——その事実が、私の中の確信をわずかに強くした。
「閉山した鉱山を掘り返す。莫大な費用をかけて、出るかも分からぬ鉱脈を探せと」
「現状の財政では大規模な再開発は不可能です。ですが、最小限の人員で試掘調査を行うだけなら、三ヶ月分の社交費を振り替えるだけで賄えます」
社交費。つまり、もう不要になった王都での体面維持の費用。婚約破棄によって皮肉にも浮いた金を、鉱山の調査に回す。私は意図してその言葉を選んだ。
父上の灰色の目が、地図の上の朱印と私の顔を交互に見た。その視線には、怒りでも侮蔑でもない、もっと複雑な感情の色が滲んでいた。
「……お前は、何を読んだ」
帳簿のことではない。父上が問うているのは、もっと深い何かだった。社交と作法しか学ばなかったはずの娘が、財政を読み解き、鉱山の再調査を論理的に提案している。その不自然さを、この人は見逃さない。
「帳簿を読みました。それだけです」
視線を逸らさずに答えた。嘘をつく者の目ではなく、覚悟を決めた者の目で。少なくとも、そう見えるように努めた。
父上はしばらく無言で私を見つめていた。信じてはいないだろう。だが今、問い詰める実益もない。
「……失うものは、もはやないか」
独り言のような呟きだった。失うものがないのは領地も、私も、そして——この人自身も同じなのだと、その声音が語っていた。
「好きにしろ。ただし、結果が出なければ次はない」
「承知しております」
一礼して執務室を辞す。廊下に出た途端、止めていた息がこぼれた。背中を壁に預け、冷たい石の感触に意識を戻す。指先がかすかに震えていた。緊張していたのだと、今さら気づく。
同じ頃、王都の社交界では別の物語が紡がれていたらしい。
帰り際にマリーがそっと教えてくれた。「お嬢様のこと、王都でいろいろと噂されているようです」と。侍女仲間の伝手で入ってくる、貴族たちの茶会の話題。
「婚約破棄された公爵令嬢が、田舎に引っ込んだそうよ」
「よほど恥ずかしかったのでしょうね。顔を出せなくなるのも無理はないわ」
嘲笑は想定の範囲内だった。むしろ、忘れられるなら好都合ですらある。
だが、マリーが次に伝えた話には、さすがに眉が動いた。
「それから……聖女様が、お嬢様のことを心配なさっているとか。『リゼット様のお気持ちを思うと胸が痛い、わたくしにできることがあれば何でもしたい』と、夜会のたびに涙ぐんでおいでだそうです」
私は窓の外に目を向けたまま、静かに息を吐いた。
『——お見事ね、ルナリア』
加害者と被害者の構図を固定する手腕。涙を見せるたびに、周囲は聖女の優しさに感嘆し、私の「悪役」としての像はさらに強化される。婚約破棄の場であれほど計算された涙を流せる人間が、善意だけで動いているはずがない。
だが、今はいい。遠い王都の噂話に心を砕いている余裕はない。
私は机の上に広げたままの地図に視線を落とした。朱の×印の上に、そっと指を置く。
社交界が嗤っている間に、この地の底から答えを掘り出してみせる。ゲームの設定が正しければ、あの廃鉱の奥には——没落を覆すだけの光が眠っているはずだから。
三日後の朝、私は領地北東部へ向かう馬車の中にいた。窓の外に流れていく景色は、王都を離れるごとに荒涼としていく。整えられた街道が土の轍に変わり、並木が途切れて痩せた草原が広がる。領地の現実が、車窓から容赦なく映し出されていた。それでも、胸の奥に灯った小さな火は消えなかった。
むしろ、揺れる馬車の中で帳簿を開くたびに、その火は静かに強さを増していった。