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断罪された悪役令嬢は微笑む

第1話 第1話

第1話

第1話

「アンナリーゼ・フォン・ヴェルテンベルク。我が婚約を、ここに破棄する」

 王太子エドワード殿下の声が、大広間の高い天井に反響した。数百の蝋燭が揺れる黄金色の空間に、その宣告は鞭のようにしなって落ちた。

 瞬間——私の頭の中で、何かが弾けた。

 視界が白く染まり、次の瞬間、奔流が押し寄せた。濁流のように押し寄せる記憶。知らない部屋、知らない言葉、知らない世界。画面の向こうに映る物語を、何度も何度も繰り返した日々。指先がコントローラーを握る感覚。安っぽいスナック菓子の匂いが漂う六畳間で、深夜三時まで周回を重ねた、あの記憶。そして、この場面を——幾度となく見届けた記憶。

『ああ、そうだ。私は——知っている』

 乙女ゲーム『星詠みの聖女』。その悪役令嬢ルートの、冒頭シーン。婚約破棄、爵位剥奪、修道院送り。三段の処刑台が順番に落ちていく、あの断罪イベント。

 今まさに、私はその舞台の上に立っていた。

 大広間を埋める貴族たちの視線が、針のように肌を刺す。扇の陰からこぼれる嘲笑。絹の手袋に隠された口元が、愉しげに弧を描くのが見える。憐憫を装った好奇の目。年嵩の夫人が隣の令嬢に何事かを囁き、その令嬢が口元を押さえて肩を震わせた。誰もが次の展開を——悪役令嬢が泣き崩れるか、醜く喚くか——待ち望んでいた。まるで処刑台の周りに集まった群衆のように、他人の破滅を一等席で眺める特権に酔いしれている。

 殿下の背後では、聖女ルナリアが大きな瞳に涙を湛えている。

「わたくしのせいで……リゼット様が……」

 その声は小さく、しかし大広間の隅々まで届くよう計算された音量だった。白いドレスの裾を両手で握りしめ、か弱い身体が今にも倒れそうなほど震えている——ように見せている。前世の知識がなければ、心優しい少女の悲痛な呟きにしか聞こえなかっただろう。だが三周目の記憶が、その仕草の一つ一つに仕込まれた意図を冷徹に読み解いていく。涙を流すタイミング、殿下の視線を引きつける角度、周囲の同情を最大化する声の震わせ方。全てが、完璧に設計されている。

 私の心臓が、ひとつ大きく跳ねた。恐怖ではない。膨大な情報が一気に整理されていく、あの感覚だ。ゲームの攻略を組み立てるときの、あの冴えた集中。ただし今回は、失敗したらリセットボタンが押せない。

『泣き縋れば——修道院。反論すれば——即日追放。どちらを選んでも詰み』

 ゲームでは、悪役令嬢アンナリーゼにまともな選択肢は用意されていなかった。プレイヤーが操作するのは聖女であり、この場面はただの通過儀礼。悪役令嬢がどう足掻こうと、物語は聖女の幸福へ向かって転がっていく。

 ——けれど、今の私はプレイヤーでもなければ、台本通りに動く駒でもない。

 ならば、第三の選択肢を。

 私は背筋を伸ばした。震えそうになる膝を意志の力で押さえつけ、ドレスの裾を両手で軽く持ち上げる。絹の手袋越しに、自分の指先が氷のように冷たいのが分かった。それでも、唇の端だけは微かに上げた。この身体に十八年かけて叩き込まれた淑女の微笑みが、今ほど頼もしく感じられたことはない。

「殿下」

 自分でも驚くほど澄んだ声が出た。

「ご英断に、感謝いたします」

 深く、優雅に一礼した。宮廷作法の教本そのままの、完璧な角度で。

 大広間が凍りついた。

 嘲笑が止んだ。扇を動かす手が止まった。ルナリアの涙が、不自然に途切れた。囁き合っていた貴婦人たちが言葉を失い、グラスを傾けかけていた文官が動作を止めたまま固まっている。広間を満たしていた薄暗い愉悦の空気が、一瞬にして困惑の静寂に塗り替えられた。

 王太子殿下の翡翠の瞳が、わずかに見開かれるのが視界の端に映った。この展開は、殿下の台本にもなかったのだろう。断罪された令嬢が泣くでも怒るでもなく、感謝を述べて微笑むなど。殿下の右手が無意識にマントの縁を掴んだのを、私は見逃さなかった。あれは動揺の癖だ——ゲームのスチルで、何度も見た仕草だった。

「長きにわたるご厚情、心より御礼申し上げます。殿下のお幸せを、陰ながらお祈りしております」

 もう一度、一礼。今度は別れの礼。

 顔を上げた私と殿下の視線が交わった。ほんの一瞬——殿下の表情に、困惑とも動揺ともつかない何かが走ったように見えた。台本を奪われた役者の、あの空白の顔。断罪する側が、断罪される側に主導権を握られるという、想定外の逆転。

 けれど、それを確かめる必要はもうない。

 私は踵を返した。大広間の中央を、まっすぐに出口へ向かって歩く。背中に数百の視線が突き刺さるのを感じながら、一歩一歩を正確に刻んだ。急がず、遅れず。逃げるのではない。自ら退場するのだ。

 白大理石の床に、私の靴音だけが規則正しく響いていた。

 誰も、声を発しなかった。

 大扉の前で侍従が慌てて道を開ける。その目に浮かんでいたのは、軽蔑ではなく、明らかな戸惑いだった。私は軽く会釈して通り過ぎ、扉が背後で閉まるのを聞いた。

 ——終わった。

 大広間のざわめきが、厚い扉の向こうに遠のいていく。蝋燭の数が減り、廊下は薄暗い。窓から差し込む月明かりだけが、磨き上げられた石の床を青白く照らしていた。急に空気の温度が変わった。大広間の熱気と人いきれが嘘のように、廊下は冷え切っている。夜風が窓の隙間から忍び込み、汗ばんだ首筋を舐めるように撫でていく。

 十歩ほど進んだところで、足が止まった。

 膝が、震えていた。

 先ほどまで完璧に制御していたはずの身体が、主人の許可なく崩れようとしている。指先が冷たい。呼吸が浅くなっていることに、今さら気づいた。心臓が喉の奥まで競り上がってくるような圧迫感。大広間であれほど冴えていた頭が、今は真っ白な霧に包まれたように何も考えられない。

 私は壁に手をついた。ひんやりとした石の感触が、かろうじて意識を繋ぎ止めてくれる。指先に伝わる冷たさが、ここが現実であることを否応なく教えてくる。

『落ち着きなさい、リゼット。あれは最善手だった。泣けば修道院、反論すれば追放。感謝して去れば、少なくとも公爵家の体面は保たれる。父上の立場も、最悪は免れる。計算通り——計算通りよ』

 頭では分かっている。前世の記憶が与えてくれた情報と、この身体に刻まれた貴族教育と、その両方を総動員して選んだ最適解だった。

 それなのに。

 握りしめた手が止まらない。爪が掌に食い込む痛みが、妙に鮮明だった。

 これはゲームではない。画面の向こうの物語ではない。大広間にいた数百人の嘲笑は本物で、王太子の断罪も本物で、そしてこの胸を締めつける——名前もつけられない感情も、紛れもなく本物だった。悔しさとも悲しみとも違う、もっと底の深いところから湧き上がる、灼けるような何か。六年間の婚約期間、殿下のために学んだ作法も、覚えた舞踏も、読み込んだ政治書も——この身体の持ち主が積み重ねてきた全てが、たった一言で踏み潰された。その重みが、前世の記憶を持つ私にさえ、容赦なくのしかかってくる。

『泣くな。泣いたら終わりだ。ここで涙を見せれば、あの大広間での全てが台無しになる』

 私は唇を噛んだ。強く、血の味がするほどに。鉄錆びた味が舌の上に広がり、その生々しさが逆に意識を現実に引き戻してくれた。

 しばらくそうしていた。どれほどの時間が経ったのか分からない。月が廊下の窓枠をゆっくりと移動していくのを、ぼんやりと眺めていた。遠くで夜鳥の声がした。城の庭園に棲みついた梟だろうか。その低い鳴き声が、静寂の中に等間隔で響いては消えていく。

 やがて、震えが止まった。

 私は壁から手を離し、自分の掌を見下ろした。爪の跡が四つ、赤い三日月の形に残っている。

『——さて』

 頭を切り替えなければ。感傷に浸っている暇はない。

 婚約破棄は終わった。しかし、ゲームの悪役令嬢に用意された処刑台は三段ある。次は爵位剥奪、その次は修道院送り。今夜をどう凌いだところで、物語の流れが変わらなければ、遠からず同じ結末に辿り着く。

 ならば、流れそのものを変えるしかない。

 前世の記憶が、膨大な情報の断片を次々と差し出してくる。ゲームの設定資料、攻略サイトの考察、周回プレイで蓄えた知識。それらが今、ただの娯楽ではなく——生き延びるための武器になろうとしていた。

『王家との縁は切れた。社交界での評判も地に落ちた。でも、逆に言えば——もう失うものがない』

 父上の領地。ゲームでは没落の一途を辿る、あのヴェルテンベルク公爵領。確か、設定資料集に記されていた。廃坑の奥に眠る、希少鉱石の未開発鉱脈のことが——。

 私は顔を上げた。

 廊下の先には暗がりが続いている。宮廷の華やかさから遠く離れた、冷たく静かな闇。けれどその暗がりの向こうに、かすかな光の筋が見えた気がした。

 まだ、終わりではない。

 私は歩き出した。今度は震えない足で。大広間とは反対の方向へ——王太子でも聖女でもない、私だけの道へ向かって。

 背後の大広間では、まだ誰かがざわめいていた。だが私はもう振り返らなかった。

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