Novelis
← 目次

冥府の誓約者

第2話 第2話

第2話

第2話

広場の石畳の上に、銀の地に三つ首の猟犬の旗が、ひとつ、またひとつと立ち並んでいく。

 馬車の扉がきしみながら開き、中から白貂の襟巻をつけた痩身の男が降り立った。徴税官だ。年の頃は三十を少し過ぎたあたり、頬は削げ、眼の下には不機嫌そうな隈が刻まれている。寒気に顔をしかめるその横顔を、レイスはまだ一度も見たことがない。——だが、その男を馬上から睥睨するように護る、筆頭騎士の姿には、見覚えがあった。

 白銀の甲冑。兜の庇の下から覗く灰色がかった碧眼。腰に佩いた長剣の、鞘に施された三つ首の猟犬の浮彫り。その騎士が手綱を引くたび、黒毛の馬は従順に首を垂れ、蹄鉄が石畳を鳴らした。全身の装いのどれひとつを取っても、辺境の空気には似合わぬ、磨かれ尽くした中央の気配である。

 ——知っている。

 少年の足が、広場のただ中で止まった。

 知っている、あの佇まい。あの馬の御し方。あの、剣を佩く位置の、ほんのわずかな右への傾き。前世で、幾度も稽古場で対峙した男の癖だ。家庭教師が去ったあと、剣術指南役が帰ったあと、従兄だけが残って「もう一本」と木剣を差し出してくる、あの夜の回廊の記憶までが、一息に鼻先まで戻ってきた。木剣の握りの、少しだけ湿った麻布の感触。自分より半歩だけ踏み込みの速い、あの足音の間合い。負けるたびに「次は勝て、レイス」と囁く、低く、どこか優しげですらあった声音。

 視線が、ゆっくりと騎士の胸甲へと吸い寄せられていく。銀と黒で象嵌された、その紋章——三つ首の猟犬の、中央の一頭だけが、牙のあたりに細い紅の線を咥えている。ヴァルドレインの本家の紋ではない。分家の、それも、従兄カルヴァン・ヴァルドレインただ一人に許された、継嗣候補の略紋だった。

 レイスの喉の奥で、乾いた音が鳴った。

 十二年だ。十二年、ずっとこの日を待っていたような気もするし、一生来ぬよう祈っていたような気もする。寒村の朝の香り——湿った苔と、焚き火の残り香と、黒麦パンの甘い匂い——が、少年の周囲から一斉に遠ざかった。代わりに鼻腔を満たすのは、前世の回廊に染みついていた、蝋と、磨き油と、鋼鉄の、あの冷えた匂いだ。舌の奥にまで、鉄錆に似たかすかな味がのぼってくる。喉が、知らぬうちに干上がっていた。

 掌の内側で、古代語に似た細い線が、ひっ、ひっ、と脈を打つ。指の腹が、その熱と冷たさの入り混じった疼きに、かすかに痺れた。

 レイスは、ゆっくりと息を吐いた。吐いた息が、薄い靄になって、睫毛の先をかすめて消えていく。

 ひとまず、気取られてはならない。十二歳の子どもが、中央の貴族の紋章を、一目で判じられるはずがないのだ。俯け、と自分に言い聞かせる。俯いて、怯えた村童の顔をしていろ。前世で幾百と見てきた、あの、何も分からぬ顔を、今度は自分が作るのだ。

 広場の中央、石積みの井戸のそばに、村長のシモンが立っていた。痩せた背を、精一杯まっすぐに伸ばして。両手は腰の後ろで組まれ、くたびれた毛皮の外套の裾が、風にあおられて揺れている。その隣には、助役を務める老爺テオと、祭祀を司る白髪の巫女、そして数名の村の若者。祭りのために編まれた麦穂の冠が、足元に落ちて踏みにじられていた。黄金色の穂先が、泥と馬糞の上で、無惨にくすんでいく。

 徴税官は、村長の前まで歩を進めると、懐から一巻の羊皮紙を取り出した。封蝋は、神殿の鷲と天秤。中央の、正真正銘の文書である。

「ヴァレーシュの村長、シモン・クエルゴ。中央徴税庁の名において、勅令を読み上げる」

 声は、高く、乾いていた。温度のない、抑揚の乏しい声だ。耳に触れた途端、薄い紙で皮膚を切られたような、細い痛みが走る。

「本年度、北方辺境諸村に課せられる貢納は、昨年度の二倍半と定める。内訳、黒麦七十袋、羊毛四十荷、塩漬け肉二十樽、ならびに、労役として壮丁十名を三月のあいだ中央街道の整備に供出すること。期日は七日後。違背あらば、村の資産をもって差し押さえ、補填されざれば、家族の身柄を担保とする」

 村人たちの間から、ひっ、と短い悲鳴が漏れた。

 二倍半。去年の貢納だけで、冬を越えるための麦は半分が消えた。子を埋めた家がいくつあったか、少年は数えたくもない。——その二倍半を、この痩せた土地から、どう搾り出せというのか。

 壮丁十名。ヴァレーシュに、十名の壮丁などいない。若者と呼べる者は、祭りの場に立っている数人と、山の向こうで炭を焼いている兄弟だけだ。あとの働き手は、すでに前の徴発で戻っていない。三月の街道工事に連れていかれた者のうち、生きて帰った者を、少年はひとりしか知らなかった。その一人も、帰ってきた日から右足を引きずり、夜ごと、誰のものともつかぬ名を呼んで泣くのだ。

 徴税官は羊皮紙を巻き直し、口元を歪めた。笑ったのだ、とレイスが気づくのに、一瞬の間があった。

「辺境の民よ。中央の慈悲をありがたく受けよ。本来であれば、貢納の倍加は三倍と定められるところを、閣下の温情により、二倍半に抑えていただいたのだ」

 閣下。

 その一語が、少年の鼓膜を、鉄の針のように突き抜けた。

 誰のことを、この男が「閣下」と呼んだか——問うまでもない。徴税官の背後で、筆頭騎士カルヴァンが、兜の下からわずかに顎を引いた。ただそれだけの動きだった。けれどその仕草こそが、前世で少年が何度も目にした、あの従兄の、承認の合図だった。夜の回廊で、木剣を交わしたあとに見せた、あの、何もかもを見透かしたような、静かな頷き。

 レイスの視界が、細く絞られていく。

 見ておくだけだ、と母に告げたはずの自分の声を、もう、うまく思い出せなかった。指先が、いつのまにか、麻の上衣の裾を固く握りしめている。爪が布越しに掌へ食い込み、その痛みだけが、かろうじて少年を今の身体につなぎ止めていた。

 村長のシモンが、一歩、前に出た。

「……お待ち、ください」

 嗄れた、しかし芯のある声だった。筆頭騎士の馬が、耳を後ろへ倒す。徴税官は眉をひそめ、面倒そうに村長を見下ろした。

「何だ」

「昨年度の貢納で、我が村は、種麦の三割を手放しました。この冬、子ども七人と老人四人を、麦の不足から弔いました。今年、二倍半の貢納を受け入れれば、村は春を迎える前に無人と化します。どうか——どうか、中央のご慈悲を、もう一度だけ、お計らいいただきたい」

 シモンの背が、わずかに震えていた。震えていたが、折れてはいなかった。辺境の村長が、中央の徴税官の前で、震えながらも折れぬこと。その事実のまっすぐさに、レイスは何かがこみ上げるのを感じた。喉の奥に、熱い塊がつかえる。前世、己の領地で泣き伏していた老婆たちの前で、ただ黙って税吏の書類に署名した若き自分の顔が、遠くに浮かぶ。あの日、あの書類に、自分はどんな顔で判を押したのだったか。——無表情だった、と思う。無表情であることを、あのとき自分は、貴族の矜持だと信じていた。

 徴税官は、ふん、と鼻を鳴らした。

「慈悲ならば、もう示した。二倍半がそれだ」

「それでは——」

「これ以上の抗弁は、叛意とみなす」

 徴税官は、羊皮紙を懐に収めながら、筆頭騎士の方へ、軽く顎をしゃくった。

 カルヴァンの馬が、ゆっくりと前に出た。蹄鉄が石畳を打つ、ひとつ、ふたつ、という重い音が、広場の空気を、その拍だけ押し下げた。

 兜の下の灰色の碧眼が、村長シモンの頭の上を一度だけ舐めるように流れ、——そして、広場の隅で拳を握りしめて立ち尽くしている、一人の少年の上で、ふと止まった。

 気のせいだったかもしれない。十二歳の村の子どもなど、視界の端のごみ程度の扱いでしかない。けれど、レイスには分かった。あの灰色の瞳は、確かに、自分の何かを見た。何かを——見ようとした。前世、幾度となく木剣越しに合わせたあの視線の、角度も重さも、寸分違わぬままに。

 掌の古代語に似た紋様が、皮膚の下で、どくり、と一度だけ、強く脈を打った。

 鞘鳴りの、かすかな音がした。

 筆頭騎士の右手が、ゆっくりと、腰の長剣の柄にかかろうとしていた。村長シモンは気づかぬまま、震える声でなおも言葉を継ごうとしている。広場の村人たちは息を詰め、祭りのために編まれた色紐だけが、主を失った風の中で、ぱたぱたと間の抜けた音を立てている。

 ——まだ、駄目だ。

 レイスは自分に言い聞かせた。まだ、動くな。まだ、呼び覚ますな。掌の紋様がどれほど疼こうと、この場で前世の力を解いてはならない。母が、村の裏手で、息子の帰りを待っている。今朝、黒麦のパンを懐に押し込みながら、「気をつけて、すぐ戻るのよ」と囁いた、あの少しかすれた声。あの声の行き先を、自分の手で塗り潰してはならない。一度発動すれば、あの馬車も、あの甲冑も、あの三つ首の猟犬の紋も——すべて、この村もろともに、巻き込まずには済まなくなる。

 けれど。

 村長の震える背を、こちらに向けたまま、筆頭騎士カルヴァンの右手が、ついに柄を握った。鋼の擦れる、ほんのわずかな音。その音を、広場でただひとり、聞き逃さなかった少年の瞳の奥で、十二年間抑え込まれてきた前世の男が、静かに、目を開けようとしていた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ