第3話
第3話
鞘鳴りの音が、広場の空気をひとつ、静かに切り裂いた。
鋼と鋼が擦れる、ほんの指一本ぶんの音である。けれどその音は、朝の光の中に張られていた薄い膜を、確かに破った。祭囃子の途絶えた広場で、村人たちの呼吸までもが凍りつく。井戸の水面に張った薄氷が、どこかでぴしり、と鳴った気がした。
筆頭騎士カルヴァン・ヴァルドレインの右手が、長剣の柄から、ゆっくりと鞘を離す。灰色の碧眼は、兜の庇の下で微動だにしない。抜くわけではない。抜くぞ、と示すためだけの動きだった。前世、レイスが幾度となく稽古場で見せられた、あの「間」の作り方——相手に選ばせるための、ほんのわずかな余白——そのままの仕草である。
徴税官が、白貂の襟巻の下で唇を吊り上げた。
「村長どの。賢明なる辺境の長として、どちらが慈悲か、今一度お選びいただこう」
シモンの背が、一瞬だけ硬くなった。痩せた肩の下、くたびれた毛皮の外套が、風にあおられて揺れる。老いた村長は、それでも退かなかった。両足を石畳に据え直し、震える息を一度だけ呑み込んで、しわがれた声を、さらに絞り出した。
「……中央のお情けは、確かに承りました。なれど、貢納の二倍半は、この村の命にござります。命を、二つに割って差し上げる術は、村長である私にも、わかりませぬ」
筆頭騎士の顎が、兜の下で、わずかに下へ落ちた。
それが合図だった。
背後に控えていた二人の衛兵が、馬の腹を蹴って前へ出る。一人が革の鞭を腰から引き抜いた。鞭の先が、朝の光を一度だけ、鈍く舐めた。
レイスは、動けなかった。
動いてはならないのだ、と自分に言い聞かせていた。掌の古代語めいた紋様が、皮膚の下で脈を打つ。その熱が肘へ、肩へ、喉の奥へと這い上がってくる。歯を食いしばって、少年は息を殺した。広場の隅、色紐の影に半ば隠れるようにして、拳を握りしめたまま。
——まだだ。まだ、呼ばない。
鞭が、鳴った。
広場の空気を、鋭い音が裂いた。シモンの肩口から頬のあたりまでを、革の先端が斜めに走り、老いた村長の身体が、たまらず前へ泳ぐ。二打目が、背を打った。三打目が、くずおれかけた腰に巻きついた。シモンは膝をつき、それでも手だけは、腰の後ろに組まれたままだった。折らない、折ってやるものか、という、意地の形である。
村人たちの間から、悲鳴にもならない息が漏れた。巫女の白髪が震え、助役の老爺テオが、前へ出ようとして若者たちに腕を掴まれた。誰もが分かっていた。ここで動けば、鞭は次の肩に落ちる。そしてもう一つ、誰もが分かっていた。——動かなければ、シモンは殺される。
レイスの視界の端で、何かが、白く走った。
母だった。
広場の裏手から、祭服の裾を蹴立てるようにして、母が駆け込んできたのだ。結い上げた髪が風に崩れ、細い手が、まっすぐにシモンのほうへ伸ばされていた。息子を家の奥にやったはずの母が、なぜここへ——と思ったのは、ほんの一瞬だけだった。母は、息子を探しに来たのだ。この広場に、十二歳の痩せた背中が紛れ込んでいるのを、母の勘で察してしまったのだ。
「およし、くだされ——!」
母の声が、鞭の音を上書きした。
細く、澄んで、祈りに似た声だった。母は駆けながら、倒れたシモンの前に身を投げ出すようにして腕を広げた。祭服の白い胸が、衛兵の馬のすぐ鼻先で、一枚の旗のように翻った。
鞭が、四打目のために振り上げられていた。
衛兵の腕が、止まらなかった。
革の先端が、母の肩口から、鎖骨の上あたりを斜めに裂いた。祭服の白い布に、一条の赤が、花の咲くようにひらいた。母は声を上げなかった。ただ、膝から石畳に崩れ落ち、シモンを庇うように、その背へと倒れ込んだだけだった。結い上げていた髪のほつれが、冷たい石の上に散った。
レイスは、自分の喉の奥で、何かがひび割れる音を聞いた。
十二年。十二年、少しずつ馴らしてきた二つの自我の縒り糸が、その一音で、音もなくほどけた。ほどけながら、逆に、ひとつの固い縄へと縒り直されていく。前世と今生の、境い目が消える。消えながら、前世の男の記憶のすべてが、少年の背骨を駆け上がってきた。
処刑台の石畳の冷たさ。曇天の灰色。最後に見た弟の歪んだ口元。審問官の読み上げる罪状の、最後の一節——ヴァルドレインの名において、ヴァルドレインを裁く。稽古場の回廊で、従兄カルヴァンが「次は勝て、レイス」と囁いた、あの低い声。己の領地で泣き伏す老婆の前で、無表情に署名を落とした若き日の自分の横顔。——そして、今、目の前の石畳に倒れている、この生の母の、細い肩。
ぜんぶ、同じ色だ、と少年は思った。
中央の鞭が、石畳に赤を落とすとき、その赤は、いつも同じ色をしている。前世でも、今生でも。名門の長子の首からでも、辺境の母の鎖骨からでも。——ならば。
掌の古代語が、皮膚を破るようにして、明るく浮かび上がった。
浮かび上がった、というより、内側から外へと、細い銀色の線が這い出してきたのだ。指の付け根から手の甲へ、手首へ、麻の上衣の袖の下へと、紋様は蛇のように伸びていった。熱くはない。むしろ冷たい。冷えた鋼の、あの前世の匂いが、今度は少年自身の掌から立ちのぼってきた。蝋と、磨き油と、鋼鉄の——死者の廻廊の匂い。
レイスは、ゆっくりと顔を上げた。
広場の村人たちは、倒れた母とシモンに気を取られていて、広場の隅の少年に気づく者はいない。ただ一人、——馬上の筆頭騎士カルヴァンだけが、ふと、視線をこちらへ滑らせた。さっき一度だけ止まった、あの灰色の碧眼が、もう一度、少年の上で止まった。今度は、視界の端のごみを眺める眼ではなかった。稽古場の回廊で、木剣越しに合わせていた、あの、相手の芯を見定めようとする眼だった。
兜の下で、カルヴァンの唇が、ごくわずかに動いた。言葉の形は読めない。けれどその唇の動きは、前世、幾度となく向けられた「次は勝て、レイス」の、最初の一音によく似ていた。
レイスは、握りしめていた拳を、静かに開いた。
掌の中央で、古代語の紋様が、ひとつ、脈を打った。その脈動に合わせて、少年の瞳の奥が、色を変えていく。十二歳の子どもの、薄い茶色の虹彩の底から、冷えた灰色の——前世の、あの男の——眼差しが、ゆっくりと浮かび上がってくる。睫毛が一度だけ伏せられ、そして、上がった。
上がったとき、そこに立っていたのは、もう、薪割りの少年ではなかった。
祭りのために撒かれた麦藁が、風に乗って、少年の足首をかすめて流れた。井戸の水面が、再びぴしり、と鳴った。広場の石畳の下、土の奥の、そのさらに下のほうから、聞こえるはずのない何かの気配が、ひたひたと這い上がってくるのを、レイスは感じていた。冥府の底に沈めていたはずの、名もなき者たちの、低い、低い囁き。それは、呼ばれるのを、十二年、待っていた。
少年の口が、わずかに開いた。
声にはならない。けれど、その唇は、確かに古代語の一語を形づくっていた。前世の書物の余白に、ただ一度だけ書き写して、そのまま忘れたつもりでいた、一語である。
筆頭騎士カルヴァンの馬が、突然、前脚を高く跳ね上げた。
何かに怯えたのだ。馬が、主より先に、それを嗅ぎつけた。黒毛の首筋に、びっしりと汗が噴き、鼻面から白い息が幾筋も噴き出す。広場の石畳の継ぎ目から、薄い霧のようなものが、幾筋も、ゆるやかに立ちのぼり始めていた。朝の冷気とは違う、湿って、鉄錆の匂いを含んだ、死者の息に似た靄である。
徴税官が、白貂の襟巻の下で、ようやく事態の異様に気づいた。口を開きかけ、しかし声を出すより先に、その視線が広場の隅——井戸端の、一人の少年の上で、凍りついた。
少年の掌で、古代語の紋様が、今や皮膚を透かして銀色に燃えていた。その光が、倒れた母の祭服の白を、遠くからそっと舐めるように照らしている。レイスは、母のほうを一度も振り返らなかった。振り返れば、きっと、十二歳の子どもに戻ってしまう。戻ってしまえば、この術は、母の血に届かない。
——ごめん、母さん。
胸のうちで、少年は、今朝よりもずっと深く、詫びた。
そして、掌をゆっくりと、広場の中央へ——三つ首の猟犬の旗の、そのまっすぐ下へと、差し向けた。石畳の継ぎ目から立ちのぼる霧が、その掌の動きに引き寄せられるように、ひとところへと渦を巻き始める。馬が嘶き、衛兵の一人が鞭を取り落とした。徴税官の喉から、意味を持たぬ、かすれた音が一つだけ漏れた。
筆頭騎士カルヴァンの灰色の碧眼が、兜の下で、わずかに——ほんのわずかに——見開かれた。その口元が、今度こそ、はっきりと動いた。
——レイス。
前世の名が、十二年ぶりに、この世の風の上で呼ばれた。