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冥府の誓約者

第1話 第1話

第1話

第1話

風が、まだ夜の匂いを残したまま山肌を撫でていた。

 辺境の寒村ヴァレーシュは、北方山脈のふもとに抱かれた三十戸あまりの集落である。石を積んだだけの素朴な家々、苔むした井戸、煙突から立ちのぼる細い煙——それらの向こうに、白く凍りついた峰々がそびえていた。大陸の縁、中央の貴族たちが地図の端にも書き込まぬような土地。ここでは、神殿の鐘の音も風に千切れて届かない。代わりに聞こえるのは、谷を渡る鴉の啼き声と、牛の首にくくられた鈴の、間遠な揺れだけだ。

 レイスは納屋の裏で薪を割っていた。

 十二歳の痩せた肩に、古びた斧は重い。柄の木目は汗と脂で黒ずみ、握り直すたびに手のひらの皮が薄く剥けた。それでも少年は黙々と刃を振り下ろし続けた。樫の丸太が、鋭い音とともに二つに裂ける。新しい木の香りが、朝の冷気に混じって立ちのぼった。湿った苔と、昨夜の焚き火の燻った残り香と、遠くで焼かれる黒麦パンの甘い匂い。——村の朝は、いつもこの三つの香りで始まる。

 ——石畳の感触を、今でも覚えている。

 刃を振り下ろすたび、頭の奥で別の光景がよみがえる。灰色の石畳に転がった己の首。見上げる形で広がった曇天。遠ざかっていく群衆の靴音と、誰かの笑い声。首と胴が離れた刹那のあの、奇妙に澄んだ静寂を、少年は忘れたことがない。音が失われ、痛みさえ追いつかぬうちに、世界のすべてがゆるやかに傾いて、曇天の灰色だけが視界を満たしていった、あの一瞬を。舌の奥に広がった鉄錆の味も、最後に吸い込んだ血の匂いの混じった雨気も、少年の身体の奥に、冷えた楔のように残り続けている。

 前世で、彼は斬られた男だった。

 大陸中央の名門ヴァルドレイン家の長子として生まれ、書物と剣術に明け暮れ、いずれは一門を継ぐはずだった男。朝は家庭教師の講義で歴史と古代語を叩き込まれ、昼は騎士団長の手ほどきで剣を振り、夜は蝋燭の灯の下で律法書をめくった。それが実の弟と、従兄の差し金によって横領の濡れ衣を着せられ、衆目のさらしものとされた上で斬首された。弁明の声は一度として聞き届けられなかった。神殿の審問官は、彼の血筋と地位ごと切り捨てることに、何の躊躇も見せなかった。審問官が朗々と読み上げた罪状の、最後の一節——「ヴァルドレインの名において、ヴァルドレインを裁く」——は、今も耳の奥にこびりついて離れない。

 その記憶のすべてを抱えたまま、レイスはこの辺境の寒村で目覚めたのだ。

 十二年。少年の体にはまだ余る記憶を、彼は少しずつ馴らしてきた。母の薄い肩の骨が指先に触れるたび、寝藁の匂いで目を覚ますたび、「今度は、違う生だ」と己に言い聞かせて。井戸水で顔を洗い、固い黒麦パンを噛み、羊の乳を啜る——そうした一つひとつの些細な行為を、彼は前世の男として噛みしめ、同時に十二歳の子どもとして受け入れようと努めてきた。二つの自我は、まだ一つに溶け合ってはいない。けれど、少しずつ、ほどけた糸が縒り合わされるように、近づいてはいる。

 斧を地に突き立て、レイスは掌を返した。薪のささくれに擦れた、ただの子どもの手だ。爪の先に土が入っている。前世の白絹の手袋とは、似ても似つかない。けれど、この手でなければ掴めぬものもある——そう、彼は静かに思った。

 納屋の向こうから、母の呼ぶ声がした。

「レイス、鶏を一羽絞めておくれ。収穫祭の振る舞いにするから」

「——うん」

 少年は鶏舎へ歩いた。藁と糞の匂い、羽毛の舞う埃っぽい空気。群れの奥でおびえる一羽を摑み上げ、刃をあてる。温い命が指先でひと震えして、やがて静かになった。命が抜けていく感触は、前世の戦場でも、刑場でも、何度も味わったものだ。だからこそ、彼は鶏の首に刃を当てる前に、一瞬だけ目を伏せた。手についた血を布で拭いながら、レイスは低く呟く。

「今度は、間違えない」

 その声は、十二歳の少年のものではなかった。

 村の広場から、祭囃子の笛の音が聞こえ始めた頃、街道の方角から馬蹄の響きが届いた。

 最初にそれを聞きつけたのは、丘の上で羊を追っていた少年たちだった。やがて広場に走り込んできた一人が、息を切らしながら叫んだ。

「中央から——徴税官の隊が来てる!」

 村人たちの手が止まった。祭りの供物を並べていた老女が皿を取り落とし、素焼きの破片が石畳に散った。酒樽の栓を抜きかけた男が顔色を変え、握っていた木槌が鈍い音を立てて地に落ちる。子どもを抱いた若い母親は、とっさに我が子の口を手で覆った。辺境にとって「中央」とは、鐘楼の鐘ではなく、鞭と天秤の形をした言葉だった。祭りの笛は途中で息を失い、広場に張られた色紐が、主を忘れた風の中でぱたぱたと寂しげに鳴った。犬が一匹、尾を垂らして家の軒下へ滑り込む。その沈黙の重さだけで、辺境に生きる者がこれまで幾度「中央」という名の影に踏みにじられてきたか、嫌というほど伝わってくる。

 レイスは井戸端で手を洗っていた。水面に映った自分の顔が、小さく揺れる。痩せた頬、そばかすの浮いた鼻、——そして、子どもには不似合いなほど静かな眼。井戸の底から吹き上がる冷気が、濡れた指先を痺れさせた。指の節に残った鶏の血が、澄んだ水の中でゆっくりと解け、赤い糸のように渦を描いてから消えていく。その紅が消える速さに、前世で己の血が石畳に吸い込まれていった速さが、ふと重なった。

 水を弾いて立ち上がったとき、少年の背には前世の男の重さが宿っていた。徴税官。中央からの隊。この季節に、この辺境へ。神殿が辺境民を「血の純度が薄い」と蔑み、税だけは容赦なく絞り取るこの国の流儀を、彼はよく知っている。前世、彼の領地でも同じ光景が繰り返されていた。納める麦のない老婆が泣き伏す姿も、連れ去られる若い娘の背中も、黙って見送るしかなかった日々があった。——あのとき、止められなかった自分を、彼は今も許していない。

 母が、祭服の裾を押さえながら駆け寄ってきた。息が乱れ、結い上げた髪のほつれが頬にかかっている。

「レイス。家の奥におでいき。あの人たちが村を出ていくまで、表に出てはいけないよ」

 少年は首を振った。

「母さん。……村長のところへ行ってくる」

「レイス」

「大丈夫。ただ、見ておくだけだ」

 我ながら、ずいぶん大人びた声だと思った。母は何か言いかけ、けれど息子の眼を覗き込んだ途端、言葉を呑んだ。唇がわずかに震え、伸ばしかけた手が、行き場を失って祭服の胸元を握りしめる。その瞳の奥にあるものが、十二年間ずっと、名前のつけられぬまま母を戸惑わせてきた何かだと、少年も知っている。乳を与え、夜泣きをあやし、熱を出せば額に手を当てて眠らずに看病してくれたこの人に、自分は一度も本当の名前を告げていない。——ヴァルドレインの長子だった、と。

 ——すまない、母さん。

 胸のうちでそう詫びながら、レイスは広場へ向かって歩き出した。足の下で、霜の解け残った土がかすかに軋む。祭りのために撒かれた麦藁が、風に流れて足首をくすぐった。背後で母の祭服の裾が鳴り、やがてその音が足を止めるのが分かった。振り返らなくても、母が両手を胸の前で組み、息子の小さな背中を祈るように見送っているのが見えるような気がした。

 道の先、村の入り口に、朝日を照り返しながら黒塗りの馬車が現れた。その後ろに、甲冑の列。磨き上げられた鋼が、朝日を冷たく撥ね返す。馬の鼻息が白く立ちのぼり、蹄鉄が凍った土を叩く音が、ひとつ、またひとつと胸に刺さる。先頭の騎士が手にする旗に、見覚えのある紋章が刻まれていた。

 ——銀の地に、三つ首の猟犬。

 その紋を認めた瞬間、少年の時は凍りついた。

 聞こえていたはずの祭囃子も、風の音も、すべてが遠くに退いた。耳の奥で、己の鼓動だけが、太鼓のように重く打ち続けている。掌の奥が、じわりと熱い。見下ろせば、皮膚の下に何かが蠢くような、古代語に似た細い線が、うっすらと浮かびかけている。初めて見る紋様のはずなのに、なぜか読める気がした。いや——読めるのではない。その文字の一つひとつが、前世の彼の血の中に、最初から刻まれていたのだと、そう思えた。

 処刑台で自分の首を落としたのは、あの紋章を掲げる男の、主だった。

 レイスは石畳の感触を、再び足の裏に感じた。前世の、あの曇天の下の冷たさを。冷たい石の上に転がった頬の痺れも、最後に見た空の色も、群衆の中に紛れていた弟の、わずかに歪んだ口元も——そのすべてが、ひとつの鮮明な像として胸の奥に結び直された。

 少年は拳を握り、歩みを止めない。握りしめた拳の内側で、古代語に似た細い線が脈打つように明滅していた。笛の音が途切れ、村人たちの顔から色が抜け落ちていく中を、まっすぐに広場の中央へと進んでいった。

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