第2話
第2話
夜が、音もなく薄らいでいった。
屋根の穴から覗く空が、墨から鼠色へ、やがて乳白色へと移ろっていく。レインはまだ椀を抱いたまま、湿った床の上で浅く眠っていた。頬に触れる板の冷たさが、ゆっくりと肌のほうへ熱を返してくる。どこかで、一番鶏が鳴いた。遠い、ずいぶん遠い鳴き声だ。村が、近くにあるのかもしれない、とぼんやり思う。
瞼を開けると、天井の穴から、細い朝の光が一本、斜めに差し込んでいた。埃が、金色の粒になってゆるやかに舞っている。雨上がりの匂いが、鼻の奥に広がった。濡れた土と、新しい草と、どこか甘い木の皮の匂い。三年間、勇者の背中ばかり追いかけて嗅いでいたのは、鉄と汗と焦げた油の匂いだった。それに比べて、この朝の匂いのなんと柔らかいことだろう。
レインは身体を起こそうとして、軽く呻いた。背中が軋む。指先が強張っている。けれど不思議と、頭の奥は澄んでいた。夜のうちに溶けた雪解け水が、そのまま胸の奥に溜まっているような、静かな冷たさがある。
「……さて」
声が、やはり自分で思うより柔らかく響いた。誰にも急かされない朝。願ったそのままの朝が、本当に来てしまった。信じきれない気持ちと、受け止めてもいいのだという許しが、胸の内で静かにすれ違う。
膝をつき、崩れかけた柱に手を添えて立ち上がる。足の裏に冷たい床板の感触。窓枠の向こうでは、森の梢が風にゆれ、葉先に残った雫を光らせていた。遠くで、また鶏が鳴く。レインは深く息を吸い、吐いた。今日はまず、ここを直すのだ。昨夜の自分に、そう約束したから。
*
手始めに、屋根の穴を見上げた。梁は半ば朽ち、瓦代わりに葺いてあった板は大半が剥がれ落ちている。普通なら、一人で半月はかかる仕事だろう。けれどレインの指先は、もう知っていた。
前世の術式のうち、もっとも地味で、もっとも使い途が多かったものがある。木を呼ぶ術だ。伐り倒して建材にする術ではない。朽ちかけた繊維に水気と力を送り、かつての形を思い出させる術。戦に使われたことはない。師が、雪に潰された小屋を直すために編み出した術式だった。
レインは床にしゃがみ込み、ゆっくりと指を床板に当てた。記憶の奥から、古い詠唱がするりと出てくる。三年前なら喉が震えたはずの長さだ。けれど今朝の口は、まるで歌うように、その音を転がしていった。
指先から、淡い若葉色の光が、細い筋となって広がっていく。光はまず床板の節目を辿り、割れ目に沁み込み、やがて壁を這い、梁に昇っていった。木の繊維が、くぐもった音を立てて伸び直す。剥がれかけていた板が、ぱたり、ぱたりと、誰かの手で直されるように嵌まり直していく。屋根の穴の縁で、朽ちた木がゆっくりと瘡蓋のように閉じていった。
派手な音は、何ひとつ立たなかった。ただ、森の木がひと晩ぶんだけ育つような、静かなざわめきが廃屋の中を満たしていく。レインは光の筋を目で追いながら、胸の奥がかすかに熱くなるのを感じた。これだ、と思った。自分が本当にしたかったのは、こういうことだ。崩れたものを、崩れたままにしない。ただそれだけの、地味な術。
やがて光が薄れる頃には、廃屋は小屋と呼べる姿に戻っていた。完璧ではない。壁には節穴が残り、戸はまだ傾いている。けれど雨は、もう漏らない。風は、もう骨の奥まで吹き抜けない。
レインは自分の手のひらを見下ろし、ふ、と小さく笑った。笑ったつもりはなかったのに、勝手に口の端が持ち上がっていた。
次は、水だ。
小屋の裏手に、石で囲った古い湧き水の跡があった。苔と枯れ葉に埋もれ、底に黒ずんだ水がわずかに溜まっているだけの、忘れられた泉だ。レインは膝をつき、枯れ葉を両手ですくって退けた。指先に触れる苔は、意外と柔らかい。
澄ませる術式も、師に最初に教わった部類だった。指先を水面に浸し、短い詠唱を一息で唱える。すると水底から、ちいさな泡が次々と立ちのぼり、黒い濁りをほどくように散っていった。苔の胞子が、枯れ葉の屑が、泡に乗って岸に押し流されていく。濁りが抜けた跡には、底の小石が一粒ずつ見えるほどに澄んだ水が残った。
手のひらで掬って口に含むと、昨夜よりもさらに甘い水だった。雨の雫ではなく、土の底から永い時間をかけて濾されてきた水の味だ。喉の奥で、固くなっていた何かが、また一枚ほどけていく。
「……ここで、いい」
誰に告げるでもなく、レインは呟いた。ここで暮らしていこう、ではなく、ここでいい、という言葉の軽さが、自分でも気に入った。気負いのない決意ほど、長続きするものだと、前世の自分がどこかで頷いていた。
*
畑、と呼べるものは、小屋の東側にあった。
かつて誰かが耕した跡が、土の畝のかたちでかろうじて残っている。けれど今はすっかり荒れ、枯れた雑草と、石ころと、名前のわからない虫の抜け殻ばかりが散らばっていた。土の色も悪い。指ですくうと、ぼそぼそと崩れ、命の気配がほとんど感じられなかった。
レインは畝の端にしゃがみ、片手を土に置いた。もう片方の手で、外套の内側に仕舞っていた小さな紙包みを探る。勇者パーティを追い出される前、荷袋の底にこっそり忍ばせておいた、名も無い薬草の種だった。村の老婆から分けてもらったものだ。いつか自分の庭で育てるのだと、そう言ったとき、仲間たちは誰も笑わなかった。笑うほどの関心すら、もう無かったのだろう。
けれど、レインはその種を、最後まで捨てなかった。
種を掌に広げる。小さな、胡麻よりもなお細かい粒たちが、朝の光を受けて、わずかに琥珀色に光っている。レインは土に人差し指で浅い溝をひき、そこへ指先から種を落としていった。一粒、一粒、息を吐くたびに、一粒。
すべてを蒔き終えると、彼は両手を土の上に翳した。
今度は、芽吹きの術式だった。戦場の術ではない。死者を蘇らせる類の禁術でもない。ただ、土と種の間にある、最初の会話を少しだけ手伝うだけの術。時を早めるのではなく、種が本来持っている「伸びたい」という意志に、そっと背中を押してやる。師はこの術を、「返事をさせる術」と呼んでいた。
詠唱を唱えると、指先から今度は若草色の光が、霧のように土へ降りていった。光は畝を這い、一粒一粒の種に寄り添い、そのまわりの土をほんのわずかに温める。土が息を吸うような気配がして、乾いていた畝が、ゆっくりと湿り気を取り戻していった。
そして――ぽ、と、ひとつ目の芽が顔を出した。
ごく小さな、二枚の葉。それに続いて、二つ目、三つ目。畝のあちこちで、緑がぽつぽつと灯っていく。それは咲き誇る花畑のような派手さではなく、朝霧のなかに点された細かな灯火のような、慎ましい芽吹きだった。数分の間に、畝の全体が、うすい若草色にけぶっていった。
レインはしゃがんだまま、しばらく動けなかった。
前世で、大陸をひとつ震わせたと言われた男の指先が、たった数坪の畑に、薬草の芽を呼び戻している。その落差が、なぜか胸に染みて、目の奥がじわりと熱くなった。これでよかったのだ、と誰かに言ってほしかったのかもしれない。けれど、言ってくれる人はここにはいない。代わりに、芽吹いたばかりの薬草が、風にかすかに揺れていた。揺れることで、返事をしてくれているようにも見えた。
彼はそっと畝の縁に掌を置いて、「ありがとう」と口の中で呟いた。土にだったのか、種にだったのか、それとも、ここまで連れてきてくれた前世の自分にだったのか、自分でもよくわからない。ただ、その言葉を口にしたとき、胸の奥で燻っていた熾火が、静かに灰の下へ深く沈んでいくのがわかった。急がなくていい。本当に、急がなくていいのだ。
*
朝の光が、畝の上を斜めにすべっていく。
レインは立ち上がって、軽く腰を伸ばした。湧き水の縁で一度、冷たい水で顔を洗う。睫毛の先から雫が落ちるのを、指で拭わずにそのままにしておいた。頬に残る水滴の冷たさが、今の自分には妙に心地よかった。
そのときだった。
森の奥で、小さな枝を踏む音がした。
動物ではない、と直感でわかる。もっと迷いのある、遠慮がちな足音だった。森の下草をかき分ける衣擦れ。それに混じって、金具のぶつかる、こつん、という軽い音。木のバケツの取っ手だ、とレインは思った。水を汲みに来たのだろうか。けれど、この廃屋のまわりに水場があることを知っている者が、村にいるのだろうか。
足音は、一度ためらうように止まり、それからまた、一歩、また一歩と、こちらへ近づいてくる。
レインはゆっくりと顔を上げた。芽吹いたばかりの畝が、朝風に小さく揺れている。自分の指先には、もう光は残っていない。それでいい、と思った。見せるためのものではない。ただ、誰かがここへ辿り着いたのなら、温かい水の一杯くらいは、きっと渡してやれる。
森の木々の向こうで、若い娘の影が、ふ、と立ち止まる気配があった。