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雨宿りの廃屋で、禁術魔術師は薬師になる

第1話 第1話

第1話

第1話

雨は、骨の奥まで染みてくる種類の雨だった。

崩れかけた廃屋の軒下に転がり込んだレインは、濡れた前髪から滴る雫を拭う気力もないまま、湿った床板に頬を押し当てていた。森の土と、腐りかけた木と、遠い雷の匂いがする。三年ぶりに自分のためだけに吸う空気は、ひどく重たくて、同時にどこか懐かしかった。頬に触れる板の冷たさが、ようやく「自分の身体」というものを思い出させてくれる。勇者の荷物でも、仲間の剣でもない、ただの自分の皮膚だ。

「無能は、もういらない」

耳の奥で、勇者の声がまだ乾かないまま反響している。差し出されたのは褒賞ではなく、剣の切っ先だった。荷物持ちとして背負い続けてきた革袋も、夜通し磨いた剣も、名も無い薬草の束も、すべて森の入口に置いてこさせられた。残ったのは、ぬるくなった水筒と、濡れそぼった外套一枚。そして――自分でもよく知らない、どこまでも疲れきった身体だけ。

雨音が強くなる。屋根の穴から垂れる滴が、床に小さな水たまりを作っていた。その縁で、蜘蛛が一匹、糸を張り直している。誰にも急かされず、ただ淡々と。レインはその動きをぼんやりと追いながら、ふいに、目の奥が熱くなるのを感じた。

涙ではなかった。もっと古い、底のほうから染み出してくる何かだった。喉の奥で、固くなった何かが少しずつほどけていく。三年間、「遅い」「邪魔だ」「役立たず」と言われ続けて、飲み込んできた言葉たちだ。その塊が、雨音に溶けるようにしてゆるんでいくのが、自分でもわかった。怒りでも、悲しみでもなかった。ただ、長く詰まっていた息を、ようやく吐き出せたような、そんな感覚だった。

*

意識が、薄い膜の向こうに遠のいていく。

泥の匂いが、鼻の奥でゆっくりと広がった。雨と土と、朽ちた木の甘ったるさ。その香りに押されるようにして、閉じていた扉が、軋みながら開いていく。レインは喉の奥で小さく呻いた。こめかみの奥で、見知らぬ鐘が鳴るような痛みが走る。けれど、それは不快な痛みではなかった。むしろ、長く凍りついていた何かが、溶けて流れ出すときの疼きに似ていた。

――ああ、この匂い。

脳裏に、別の雨が降り始める。石造りの塔の窓、分厚い書物の頁、羊皮紙の上を滑る羽根ペン。油ランプの芯が、ぱちりと小さく爆ぜる音。術式の光が、指先から糸のように伸びていく感覚。窓の外では、今と同じように雨が降っていた。硝子越しに滲む灰色の空、湿った石畳、遠くで鳴る晩鐘。懐かしい、という言葉では足りない何かが、胸の奥を静かに満たしていく。机の端には冷めかけた香草茶の匂い。頁をめくる指先の乾いた音。誰かが隣で、静かに呼吸をしていた気配さえ、鮮やかに蘇ってくる。

記憶、と呼ぶにはあまりに鮮明だった。 前世。禁術魔術師。大陸を震わせたと謗られた男。

流れ込んできた知識の洪水に、レインは小屋の床の上でかすかに身を丸めた。戦場の号令も、崩れ落ちる城壁も、弟子を失った夜の沈黙も、全部、一息に思い出した。厖大な術式の文字列が、頭蓋の内側で冷たい川となって音を立てる。指先が、使い慣れた詠唱の形を勝手になぞろうとする。骨が、筋が、神経が、すべてを覚えている。これだけの力があれば、あの勇者も、裏切った仲間たちも、造作なく――。

そこまで考えて、レインは自分の息が詰まっていることに気づく。胸の内側に、鉛のような重さが広がっていた。復讐を思い描いた瞬間、身体のほうが先に拒んだのだ。まるで、二度と歩きたくない道を示されたときのように。喉の奥がひりつき、舌の根が苦くなる。かつて幾度となく味わった、血と硝煙の後味だった。もう、たくさんだ、と骨の髄が呟いていた。

違う。違うのだ。

雨音の隙間から、かつての自分が問いかけてくる。もう一度、戦場に立ちたいか。もう一度、誰かを切り裂く術式を描きたいか。もう一度、血の匂いに慣れた指先で、子どもの名前を呼びたいか。答えは、驚くほどはっきりしていた。首を振る力さえ惜しいほどに、はっきりしていた。

「……いらない」

かすれた声が、自分の唇からこぼれる。自分の声が、こんなにも静かに響くことを、久しぶりに知った。

「もう、いい」

膝を立て、湿った床に両手をつく。指先が震えているのは寒さのせいだけではなかった。欲しいものは、ひとつだけだった。たったひとつでよかった。

温かいスープと、誰にも急かされない朝。

ただ、それだけ。それ以上は、もう何も望まない。望まないでいられることが、どれほどの贅沢か、今の自分にはわかる気がした。望みが小さいのではない。望みを自分の手に取り戻せたということが、途方もなく大きかった。

*

雨が、ふと弱まった。

屋根の穴から落ちていた雫のリズムが、少しだけ間延びする。遠い雲の向こうで、月の気配が滲んだ。レインは薄目を開けて、濡れた床に手をついたまま、自分の右手をじっと見下ろす。三年間、革袋の紐を握り続けてきた手のひら。胼胝ができ、荒れ、薬草の汁で緑色に染みついた手。爪の間には、まだ森の黒い土が残っていた。

その指先に、ゆっくりと呼吸を下ろしていく。吸って、吐いて、もう一度吸う。肺の底まで、湿った夜気を満たす。

前世の術式は、力を振るうためだけのものではなかった。思い出す。ずっと昔――まだ弟子だった頃、師が最初に教えてくれたのは、火を熾す術だった。傷を洗う術だった。井戸を澄ませる術だった。戦に使われたのは、もっとあとの話。師は、よく言っていた。術とは、暮らしに寄り添うためのものだ、と。その声の調子まで、今ははっきりと思い出せる。低く、少しだけ掠れた、冬の暖炉のような声だった。

本来は、こういうもののためにあった。

レインは人差し指を、ゆっくりと床板の上にかざした。記憶の奥から、細い文字列がひとつ、ほどけてくる。暖の術。ほんの小さな、手のひらを温めるだけの初歩の術式。幼い日、かじかんだ指先に師が灯してくれたのと、同じものだ。

ふ、と息を吐くと、指先に淡い橙色の光が灯った。

蛍のような、頼りない光だった。けれどそれは、確かに温かかった。濡れた外套の内側に手を差し入れると、冷え切った胸のあたりが、じんわりと熱を取り戻していく。肩の震えが、少しずつおさまっていった。息が、白くならなくなる。凍えていた爪先の感覚が、ゆっくりと戻ってくる。胸骨の奥で固まっていた何かが、湯に浸した紙のようにふやけ、ほろりと崩れていくのがわかった。

それから彼は、もう一度だけ、術式を描いた。

今度は、水を呼ぶ初歩の術。荒れた壁の隙間から、透き通った滴がひと筋、宙に浮かび上がる。レインはその雫を、欠けた木椀で受け止めた。喉の奥に流し込むと、雨の冷たさとは違う、鉱泉のような甘さが舌の上で広がっていく。乾いていた喉が、一口ごとにほどけていくのがわかった。

「……美味しい」

呟いた声が、自分で思ったより柔らかかったことに、レインは少しだけ驚いた。美味しい、と誰かに急かされず言えたのは、いったい何年ぶりだろう。 気づけば、頬が濡れていた。今度は、雨ではなかった。

*

外の雨が、やがて静かに止んだ。

破れた窓の向こうで、雲が薄くほどけていく。木々の葉から雫が落ちる音だけが、ぽつ、ぽつ、と森に戻ってきた。レインは椀を膝に置いたまま、暗がりの天井を見上げていた。崩れかけた梁。蜘蛛の巣。穴だらけの屋根。

――ここを、直そう。

ぼんやりと、そう思った。

明日、朝が来たら、まずこの屋根を直す。床を乾かし、竈を組み直し、水を引く。畑を耕すには、まだ土の匂いを確かめなければ。薬草の種は、森のどこかで拾える気がした。記憶の片隅で、前世の自分が静かに頷いている。急がなくていい、と。

遠くで、梟が一声だけ鳴いた。

レインは椀の縁を指でなぞりながら、目を閉じる。勇者のことも、裏切られた夜のことも、まだ完全には消えていない。胸の奥底には、まだ小さな熾火が残っている。けれど今夜は、それを吹き消そうとも、燃やそうとも思わなかった。ただ、そっと灰をかけて、朝まで寝かせておく。

温かいスープと、誰にも急かされない朝。

その願いだけを抱きしめて、彼はゆっくりと、湿った床の上に身を横たえた。指先にはまだ、橙色の光がかすかに残っていた。まるで、遠い昔に置き去りにした何かが、ようやく帰り道を見つけたみたいに。

森の奥で、夜明け前の風が、土の匂いを運んでくる。

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