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雨宿りの廃屋で、禁術魔術師は薬師になる

第3話 第3話

第3話

第3話

森の木々の向こうで立ち止まった影は、しばらく動かなかった。

 レインも、動かなかった。急かせば逃げる、と分かる種類の気配だった。野の兎や、水辺に降りたばかりの鹿を前にしたときと似ている。彼はただ、湧き水の縁にしゃがんだまま、指先で水面にかすかな波紋を作り、それが岸へ届いて消えるのを眺めていた。朝の光が、濡れた葉先を一枚ずつ銀色に縁取っていく。どこかで、ほっ、ほっ、と山鳩が鳴いた。

 やがて、下草を踏む音がもう一歩、踏み出された。

「……あの」

 細い声だった。喉の奥に何かが引っかかっているような、泣き止んだばかりの人の声。

「ここに、お薬になる草が、あるって……お婆ちゃんが、昔、話していて」

 レインは顔を上げた。木の幹の陰から、十四、五ほどの娘が、木のバケツを胸に抱えて立っていた。亜麻色の髪をひとつに結わえ、袖の擦り切れた麻の上衣を着ている。頬には泥の跡。目の縁が赤い。バケツの底には、朝露に濡れた薬草がほんの一握り、頼りなく沈んでいた。

「森の奥まで、来ちゃいけないって、言われてるんですけど」

 娘は、自分に言い訳するように呟いた。

「弟が、昨日から、熱が下がらなくて」

 言い終える前に、彼女の目からぽろりと雫が落ちた。拭おうともしない。拭く余裕がない、という顔だった。バケツを抱く指が、白くなるほど強く握られている。

 レインは湧き水の縁から立ち上がり、濡れた指を外套で軽く拭った。畝のほうへ娘の視線が吸い寄せられ、そして、小さく息を呑む音がした。昨夜まで枯れ草と石ころしかなかったはずの畑に、若草色の芽が一面に揺れている。娘は目を丸くして、しばらく言葉を失っていた。唇がわずかに開き、何かを問いかけようとして、けれど問いの形にならず、代わりに、ひゅう、と細く息を吸う音だけが喉から漏れた。その音の頼りなさが、かえって彼女の疲労の深さを物語っていた。

「……朝のうちに、少しだけ、手入れをしたんだ」

 レインは、噓にならない程度の嘘をついた。娘は頷きかけて、頷ききれないまま、また弟の名前を呟いた。トビ、と聞こえた気がした。その名を口にするとき、彼女の声は一度だけ、幼い子をあやすように柔らかく撓んだ。

    *

「ちょっと、そこに座って」

 レインは廃屋の前の、乾きかけた切り株を指差した。娘はこくりと頷き、バケツを膝の上に抱えたまま、浅く腰掛けた。膝が小刻みに震えている。長く歩いてきたのだ、とわかった。土で汚れた素足の甲に、細かな擦り傷が何本も走っていた。靴を履く余裕すらなかったのか、と思うと、レインは胸の奥が小さく軋むのを感じた。

「名前は」

「……フィオナ、です」

「フィオナ。弟さんの熱は、いつから」

「昨日の昼過ぎから。夕方には、もう起き上がれなくなって。夜じゅう、ずっと、うなされて」

 口にしながら、彼女の唇が震えた。レインはそれ以上は訊かなかった。症状の細かいところは、薬草が教えてくれる。前世で、戦の後の村々を回って熱病の子どもを診たとき、師はそう言っていた。患者の名前と、熱が出た時間。あとは、薬草に訊け、と。

 彼は畝のほうへ歩み寄り、膝をついた。芽吹いたばかりの若草色の葉先を、指の腹でそっと撫でる。返事をするように、葉が一度だけ、かすかに震えた。レインは数種を選び取った。熱を冷ます葉、子どもの胃を守る根、眠りを深くする花。どれも、前世の記憶のなかで、師の書棚の奥に収まっていた匂いだ。手のひらに集めた葉は、朝露を含んでひやりと冷たい。指先から伝わるその冷たさが、奇妙なほど懐かしかった。何百という夜、同じ冷たさを握りしめ、同じ青い匂いを嗅いで、眠らぬ子の枕元へ運んだ。あの頃の自分の呼吸が、今、この手のひらの中で、静かに目を覚ましていく。

 廃屋の中に戻り、竈の跡に手をかざす。昨日までただの石組みだった場所に、水を呼ぶ術式で澄ませた湧き水を小さな土鍋へ注ぎ、暖の術式で静かに熱していった。火を熾すのではない。水そのものの温度をゆっくりと上げていく、いちばん初歩の術。湯気が立ちはじめる頃、レインは薬草を両手で揉み、繊維が息を吐くまで柔らかくしてから鍋に落とした。青い匂いが、ふわりと小屋に広がる。フィオナが戸口の外から、息を詰めてその匂いを嗅いでいるのがわかった。祈るような、すがるような、細い呼吸だった。その呼吸のひとつひとつが、レインの背中を、ゆっくりと押していた。

「禁術」と人が呼んだ術式の大半は、こうした日常の術式を、少しだけ組み合わせたものに過ぎない。熱を移す術。匂いを閉じ込める術。繊維をほどく術。戦場では血を止めるために使い、城壁を崩すために歪めて使った。けれど本来は、熱を出した子どもの枕元で、ぬるい湯を作るための術だ。レインは鍋の縁に指を沿わせ、最後にひとつだけ、薬効を逃がさない封じの文字を刻んだ。湯気が、ふと匂いを変える。青臭さの奥に、蜂蜜のような甘さが滲んだ。指先に残る術式の余熱が、かつて幾千の命を絶った手と同じものだと思うと、喉の奥が軋んだ。けれどその軋みごと、湯気の甘さが包んでいった。鍋の底で、葉の一枚がくるりと身をよじり、また静かに沈んだ。

「できた」

 呟くと、自分の声が穏やかだったことに、また少し驚いた。

 レインは木椀に薬湯をひと匙分だけ取り、味を確かめる。苦みの後ろで、土の甘さが舌を撫でていく。悪くない。残りを、娘が持ってきた木のバケツへそのまま移した。バケツなら、走って帰る道すがら冷めにくい。

「これを」

 差し出すと、フィオナは両手で受け取り、その重みに少しよろめいた。湯気の立つバケツの縁を、彼女は食い入るように見つめた。

「ほんとうに……飲ませて、いいんですか」

「ひと口、小さじで。熱い湯じゃないから、唇を火傷させない。飲めたら、半刻ごとにひと口ずつ。夜までに、熱は下がる」

「……お代は」

 彼女の声が、かすれた。持ち合わせなどないのは、膝の上の震える指が語っていた。レインは首を横に振った。

「いらない。いま、ちょうど、こっちも助けられたところだから」

 嘘ではなかった。誰かに飲ませるための薬を、誰かのために煮るということ。その行為の輪郭が、今朝の自分をもう一段、はっきりとさせてくれた気がした。フィオナは言葉を探すように口を開き、結局、言葉にならないまま、深く、深く頭を下げた。結わえた亜麻色の髪が、朝の光にほろりとほどけて、肩に落ちた。

    *

「気をつけて。森の道は、まだ濡れてる」

 レインが言うと、フィオナはバケツを胸に抱え直し、一度だけ振り返った。

「あの、名前を、訊いてもいいですか」

「レイン」

「レイン、さん」

 彼女は口の中でその音を繰り返し、頷いた。それから、走るでもなく、歩くでもない、バケツの中身を揺らさないだけの速さで、森の小道を戻っていった。朝の光が、彼女の背中を一度だけ金色に縁取って、木々の間に見送った。

 足音が遠ざかり、やがて消える。レインは畝の前にしゃがみ込み、薬草を摘んだあとの土を、指の腹でならした。芽たちは何事もなかったかのように、また朝風に揺れている。摘まれた分の空白も、不思議と痛々しくは見えなかった。必要な人のところへ行った、という顔をしている。

 胸の奥の熾火は、昨夜より一段、灰の底へ沈んでいた。戦場の号令でも、裏切りの夜の沈黙でもなく、泣きそうな娘の声と、青い薬草の匂いが、今はそこに覆いかぶさっている。急がなくていい、と前世の自分が、また小さく頷くのが聞こえた気がした。

 小屋に戻り、残った湯で、今度は自分のための香草茶を淹れた。欠けた木椀に注ぐ。ひと口含むと、喉の奥で、固まっていた何かがまた一枚、静かにほどけた。窓の外では、芽吹いたばかりの畝の上を、小さな蝶が一匹、迷い込むようにして舞っている。どこから来たのか、とレインは思った。昨日までここには、花の一輪もなかったのに。

    *

 日が高くなり、やがて傾き、森の梢が橙色に染まりはじめた頃。

 レインは戸口に腰掛け、膝の上で薬研を転がしていた。フィオナが置いていったバケツの底の薬草の残りを、明日の分にと砕いている。ごり、ごり、という音が、小屋の前の小さな空気を穏やかに満たしていく。

 ふと、手を止めた。

 森の向こう、フィオナが戻っていった方角の木立の隙間に、小さな灯りが揺れていた。一つ、二つ、やがて三つ。ランタンの灯だ。距離はまだ遠い。けれど、確かにこちらへ近づいてくる。足音はまだ聞こえない。ただ、夕闇に浮かぶ橙色の光だけが、森の木々を縫うようにして、ゆっくりと、ゆっくりと歩を進めていた。

 レインは薬研を膝から降ろし、立ち上がった。急ぐ気持ちはなかった。胸の奥の熾火も、冷たくはならなかった。ただ、灯りの数を目で数えて、口の中で小さく呟いた。

「……迎えに来たのか」

 自分に言ったのか、灯りに言ったのか、わからなかった。畝の芽が、夕風にひとつ、こくりと頷いた気がした。

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