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異世界の竈、ひとさじの涙

第2話 第2話

第2話

第2話

湯気が、裏手のほうへ細く流れていった。  湊は鍋のふちに木べらを当てたまま、動かずにいた。振り向けば、きっと三つの足音は弾かれたように遠ざかるだろう。そういう気配だった。腹を空かせてはいるけれど、見られることのほうをもっと怖がっている──そんな、奇妙に礼儀正しい怯え方だった。チェーン店の裏口にときどき迷い込んできた、痩せた野良猫の気配に少しだけ似ている。けれど、猫ではない。息の高さが、猫のそれではなかった。人間の、しかも三つ分の、慎重に吸って慎重に吐く呼吸の重なりだった。  風が向きを変え、湯気が茂みのほうへひとすじ長く伸びた。葉擦れがぴたりと止まる。止まったまま、しばらく動かない。見えないその向こう側で、誰かが息を詰めているのが、湊にははっきりとわかった。湯気に鼻先だけを差し入れて、しかし一歩も踏み出せずにいる──そんな止まり方だった。湯気の先端が葉先に触れ、露のように小さくほどけて消えていく。その消え際を、向こう側の誰かが、まばたきもせずに追っているのが、肌の産毛でわかった。  湊は包丁には触れなかった。代わりに、足元に転がっていた古い木椀をもうひとつ拾い上げ、井戸の水でゆっくりと洗った。水の音が、わざとゆっくり立つように、指の動きを抑える。椀の縁にこびりついた乾いた汁物の跡が、指先でほろほろとほどけていった。洗い終えた椀を、鍋のすぐ脇に、音を立てずに伏せて置く。それから、腰をかがめて小屋の軒先に座り直した。  背中をわざと、茂みのほうへ向けた。  見られている、と感じる視線を、見返さないでおくというのは、厨房時代にはなかった作法だった。あのころは、ホールから投げつけられる視線も、店長の怒鳴り声も、全部正面から受け止めて捌くのが仕事だった。捌ききれなかった日は、賄いの飯が喉を通らなかった。けれど今朝、湊にできたのは、ただ背中を向けて湯の面をかき混ぜることだった。そのほうが、三つの足音にとって、ずっと優しい気がした。背中を見せるということが、これほど言葉に近い仕事になるとは、前世の自分はついに知らずに終わったな、と思った。

 どのくらい、そうしていただろう。  薪がひとつ、小さく爆ぜた。その音に押し出されるように、茂みの葉がついに分かれた。最初に見えたのは、細い脛だった。擦り切れた麻のズボンから、棒切れのような脛が二本、覗いている。続いて、やや大きな影がその脛の横にぬっと立ち、さらにもうひとつ、低い背丈の影が、大きな影の後ろに半ば隠れるようにして出てきた。  湊は振り向かなかった。視界の端で、ぼんやり三つの輪郭を捉えるだけにした。  ひとりは、少女だった。歳のころは十に満たないか。肩のあたりで切りそろえられた髪は埃で灰色に褪せ、頬は削げて、目だけが不釣り合いに大きい。その目が、まっすぐ鍋を見ていた。鍋の中身ではなく、立ちのぼる湯気そのものを見ている、という視線だった。温度のあるものを久しく見ていない目の、それが色だった。唇はうっすらと開かれ、湯気の匂いを口でも吸おうとしているように見えた。喉仏の下が、何かを飲み下すように一度だけ小さく上下した。  もうひとりは、青年だった。まだ若い。二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。背ばかり伸びて、肩の線が細く、長い前髪の奥で目が伏せられている。口は固く引き結ばれ、何かを言おうとして、言わずに呑み込むのに慣れた人間の口の形をしていた。左手で少女の小さな手を、骨を折らないように気をつけながら、しっかりと握っている。その手の握り方に、湊はなぜか胸のどこかをつままれたような気がした。握るというより、少女の指の一本一本を、自分の指のあいだに編み込んで離さないでいる、そんな握り方だった。  そして、三人目。女性だった。歳は湊とそう変わらないか、少し上か。ほつれた髪を後ろで無造作に束ね、土埃に汚れた外套の下から、鋭い目がこちらの背中を射抜くように見ている。刃物を警戒する目だった。警戒に慣れすぎて、警戒することが呼吸の一部になってしまった人間の目だ。その女性が少女と青年を、自分の体の半歩後ろに庇うように立っていた。逃げる足の位置が、すでに決まっている。そういう立ち方だった。左足のつま先だけが、来た方角の茂みへ、ほんのわずかに開いていた。  三人とも、痩せていた。細さの種類が少しずつ違った。少女は元々の体がまだ出来上がる前に、養分を奪われたような細さだった。青年は働き盛りの体が、無理やり絞られて乾いたような細さ。女性は、食べ物を三人分に割ってきた者の細さだった。一目でわかる、そういう並びの細さだった。  湊は、三つの気配を背中で測りながら、ゆっくりと鍋の火を弱めた。湯気の勢いを、少しだけ落とす。音を出さないように、その場にしゃがむ。やがて、茂みのそばに朝露に濡れたまま残っていた、蕗に似た青い葉と、細い野蒜のような茎を、ひと束ずつ引き抜いた。根のついた土を指で落とし、井戸の水を桶にもう一度汲み直す。

 山菜を、洗い始めた。  何も、聞かなかった。  どこから来たのか、名は何というのか、なぜ村ではなくこの崩れかけた小屋の裏に迷ってきたのか。聞かないでおくことに、湊は迷わなかった。厨房で、辞める辞めると言い続けてついに辞められなかった後輩に、最後までかけてやれなかった言葉が、いくつかあった。あの言葉たちは、たぶん聞かないほうがよかったものだった。問いは、弱った人間にとっては、もうひとつの重さでしかない。空きっ腹に問いを落とすのは、冷えた胃に氷を落とすのと同じだ、と厨房の誰かが言っていた気がする。誰だったかは、もう思い出せない。  水の中で、蕗の葉が冷たく張りを取り戻していく。野蒜の根の、白い丸みを指の腹でこする。土が、水の底にうっすらと沈んでいく。湊は一枚ずつ、ていねいに裏表を返しながら洗った。指先は水の冷たさでかじかみ、爪の際がじんと痺れたが、その痛みがかえって手の動きを丁寧にした。急ぐ必要はなかった。急いではいけない気がした。背後の三つの視線が、山菜を洗う手元を、食い入るように追いかけているのが、指の甲に当たる空気の張りでわかる。手のひらの動きひとつで、あの視線は怯えもすれば、少しほぐれもする。湊は自分の指が、前世で何万回と繰り返してきた「食材を迎える動作」をしているのを、どこか他人事のように見ていた。ああ、この動き、覚えていたのか、と。指先だけが、体より先にこの世界に馴染みはじめている気がした。  女性の低い声が、背中越しに届いた。 「……その山菜は」  掠れていた。何日も人とまともに口をきいていない者の、錆びた声だった。語尾が、言い切る前にわずかに落ちた。問いの続きを口にするだけの体力すら、惜しんでいるような落ち方だった。湊は振り向かずに、手元の蕗を桶の水に沈めたまま、小さく答えた。 「毒はないやつだ。根は落とした。茎の外側も、あとで剥く」  声を、できるだけ平らにした。山菜の名前を説明する声の平らさのまま、相手の警戒の高さを一段だけ下げるつもりで、語尾を置きにいく。女性は黙った。警戒の鋭さが、ほんのわずかだけ角度を下げたのを、湊は首の後ろで感じ取った。少女が、青年の手の中で、ほんの小さく体重を移した。湯気のほうへ、ほんの少し。青年の指が、その動きを咎めるように一度締まり、それから、ゆっくりと、ほどけた。  湊は桶から手を引き上げ、濡れた指先を筵の端で軽く拭った。それから、鍋の縁に伏せて置いていた、あの洗ったばかりのもうひとつの木椀を、指先で少しだけ脇へずらした。椀と椀のあいだを、ほんの少しだけ広げる。そこにもう二つ、空きができるように。  それは言葉ではない合図だった。  背中の三つの気配は、またしばらくの間、動かなかった。けれど、その動かなさには、さっきまでとは違う性質があった。逃げる足の位置を決めていた女性の重心が、ほんのわずかに前へ傾いたのが、わかった。

 湊は山菜の根を、もう一度ていねいに切り落とした。包丁の背で茎の外側を削り、柔らかい内側を残す。これをあとで細く刻んで、湯に落とす。干し肉は、腰の袋に、昨日までの自分が持っていたはずもないのに、ひとかけらだけ入っていた。理由は、問わないことにした。刃物を研ぐ音も立てず、鍋の湯をかき混ぜる音も立てず、ただ、山菜を洗う水の音だけが裏庭に続いた。  三つの足音は、まだそこにいる。  朝の光が、茂みの葉を一枚ずつ金色に変えていくのを、湊は横目で見た。椀はもうひとつ、足りない。あとでどこかから見つけてこよう、と思った。四つ目の椀が要る朝が、もしかしたら、この先の自分には当たり前になるのかもしれない──そんな予感が、煮えはじめた湯の匂いの向こうで、静かに立ちのぼっていた。

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