第3話
第3話
山菜の白い内側が、光に透けて見えた。 湊は桶の水を一度だけ取り替え、刻み終えた野蒜の根を鍋の縁に置いた。茎は細く、葉は短く。刃の入り方を、三つの気配に聞かせすぎないように、まな板代わりの平らな板きれへ、包丁の背から静かに下ろす。とん、とん、と、呼吸と同じくらいの間隔で音を置いていく。早く刻めば、早く警戒が戻る。遅く刻みすぎれば、湯気が痩せてしまう。湊の指は、自分でも不思議なくらい、その間を勝手に探り当てていた。厨房ではついに一度も身につかなかった「待たせる技術」が、今朝は最初から指先に宿っていた。 腰の袋から、件の干し肉をひとかけら取り出す。指で持つと、乾いた筋が指紋に馴染んだ。刃を寝かせ、薄く、薄く削いでいく。一片ごとに、ほんのわずかな脂が刃に残る。その脂を鍋の縁にこすりつけ、匂いだけ先に湯へ渡してやる。湯面が、一瞬だけ金色の膜を張り、それからまたほどけて透きとおった。 蕗に似た葉は、最後だ。固い葉脈をそっと外し、柔らかいところだけを親指の爪で裂く。爪の先に、青い匂いが残った。その匂いを嗅いで、湊はふと、前世の賄いで何度か作った春の汁を思い出した。ふきのとうと油揚げ、昆布の一番出汁。あれも、誰かに食べさせたくて、結局自分で掻き込んで終わった一杯だった。 鍋の底から、細かな泡がひとつ、ふたつと上がりはじめる。湊は塩の包みを開いた。粗い粒が指先でざらりと鳴る。ほんの、ひとつまみ。二つまみ目を、途中でやめた。空きっ腹には、塩は毒にもなる。厨房の誰かの言葉だ。誰の言葉だったかは、やはり思い出せない。思い出せないまま、その言葉にだけ従った。
湯が、本当に湯になった。 薄く削いだ干し肉の縁が、湯の中でゆっくりと広がっていく。野蒜の白い根が透きとおり、蕗に似た葉が一拍おいて色を返した。香りが、湊自身の腹の底を先に突いた。ぐう、と、自分の腹が勝手に鳴る。背中の三つの気配が、その音にかすかに揺れたのがわかった。笑ったのかもしれない、と湊は思った。笑いに近い何か、が少女のほうから確かに一度、空気を震わせた。鼻を鳴らすような、息の漏れるような、小さな、小さな音だった。 湊は木べらで鍋の底を一度だけさらい、火をさらに弱めた。煮立たせない。沸かしきらない。弱った胃に、沸騰の荒さは毒だ。湯の表面がかすかに震える、そのくらいで止める。厨房では決してできなかった火加減だった。あの頃の火は、いつも最大で、いつも間に合わせのための火だった。今朝の火は、誰かのための火だった。誰か、と言っても、まだ名前も顔もよく見ていない三人のための火だ。それでも十分に、これは誰かのための火だった。 椀を、取った。 最初に洗ったほうの、ひびの入った木椀。続いて、さっき伏せておいた二つ目の椀。湊はそれを鍋の前にゆっくり並べ、しばらく迷って、自分の腰に下げていた布袋から、割れていない小ぶりの椀をもうひとつ取り出した。いつからそこにあったのかは、やはり問わないことにした。三つの椀が、竈の縁に一列に並ぶ。四つ目は、まだ、ない。 木べらの背で、湯を撫ぜるように混ぜる。湯気の柱が、まっすぐ空へ立った。 湊はそれぞれの椀に、ていねいに汁を注いだ。具の配分を、指で測るより先に、目が勝手に平等にした。少女の椀には、柔らかい葉を少し多めに。青年の椀には、干し肉の薄片を一枚多く。女性の椀には、野蒜の白い根を、香りが強いところだけ選んで。自分でも気づかないうちに、それぞれの痩せ方を見て、盛っていた。前世の癖が、ここでもひとり勝手に働いていた。 湊は椀を両手で抱えるように持ち、立ち上がった。それでも、まだ振り向かなかった。茂みのほうへ三歩だけ近づき、その手前の、乾いた石の上に、ひとつ、ふたつ、みっつ、と椀を並べて置いた。石の天板に、かたん、かたん、かたん、と控えめな音が三つ続いた。 それから、来た方向へそのまま戻り、竈の前に腰を下ろした。 「冷める前に」 と、それだけ言った。声を、できるだけ鍋の火加減と同じに揃えた。命令にも、誘いにもしなかった。ただ、湯気の温度に言葉を添えただけの声だった。背中越しに、三つの息の深さが変わるのがわかった。止まっていた息が、ゆっくり一度、吸い直された。
最初に動いたのは、意外にも少女だった。 青年の指にきつく編み込まれていた小さな手が、するり、と一度ほどけた。青年が慌てて握り返そうとした瞬間、少女はもうその手を追い越して、石の上の椀のひとつに両手を伸ばしていた。膝を折り、石に顔を近づけるようにして、椀の縁をおそるおそる掴む。指の節が白くなるほど、強く掴んでいた。湯気が、少女の前髪を小さく揺らした。 少女は、椀を口に運ぶ前に、一度だけ匂いを嗅いだ。鼻の頭が、湯気の中にすっかり埋もれた。息を止めていた。そしてゆっくり、ほんの一口だけ、椀の縁をくちびるに当てた。 飲んだ、というより、口に含んで、そのまま舌の上で長く転がしているように見えた。 次の瞬間、少女の大きな目から、ぽろりと涙がこぼれた。音も立てずに、ひと粒。続いて、もうひと粒。泣き声は、出なかった。出せないのだろう、と湊は思った。泣くのにも体力が要るのを、この子はもうずいぶん前に知ってしまったのだ。涙は、少女の頬を伝って、椀の縁にひとつ、小さな波紋を作って落ちた。少女はその波紋を、恥じるでも慌てるでもなく、静かに見ていた。 青年が、息を呑んだ。固く引き結ばれていた口が、一度わずかに開き、それからまた閉じた。何かを言いかけて、言葉になる前に、喉の奥で潰れた。代わりに、青年の左手が、少女の背にそっと置かれた。骨を折らないように気をつけた、あの握り方と同じ、ゆっくりとした手だった。青年のほうは、自分の椀にはまだ手を伸ばさなかった。 女性は、少女の涙を見ていた。 鋭いままの目で、けれどもう刃物を警戒するのとは違う目で、少女の頬の一筋を、じっと追っていた。逃げる足の位置に置かれていたはずの左足が、いつの間にか、真っ直ぐに揃っていた。 やがて、女性はゆっくり膝を折り、自分の椀をひとつだけ取り上げた。冷ますように、両手で長く抱えた。口に運ぶまでに、ずいぶんと時間がかかった。一度、二度、湯気を吸い、三度目にようやく、椀の縁に唇を当てた。 女性の喉が、一度だけ、ゆっくり上下した。 それから、低い、掠れた声がこぼれた。 「……久しぶりに、味がした」 呟きだった。誰かに聞かせるための言葉ではなかった。むしろ、言ってしまってから、自分の耳で確かめているような口調だった。言い終えた直後、女性は眉の奥をぎゅっと寄せ、しかし涙はこぼさなかった。涙をこぼす順番は、この女性の中で、まだ後ろのほうに並べられているらしかった。
湊は、湯気越しに三人を見ていた。 少女の、骨の浮いた肩の落ち方を。青年の、置かれた手の震えを。女性の、眉の奥の固い皺の形を。見ていた、というより、前世の厨房でついに使い道のなかった目の部分を、今朝はじめて全部使っている気がした。 少女は「味がする」と驚くのではなく、「味があった」と思い出すように泣いていた。舌ではなく、もっと奥のほうで、何かを久しぶりに確かめた泣き方だった。青年は、自分の椀より先に、少女の飲みっぷりを見届けようとしていた。たぶんこの青年は、自分の分を最後まで取っておく癖がある。女性は、汁の塩を舌の先だけでまず確かめた。塩の強さに反応する舌の構え方が、料理を知っている者の構え方だった。指の関節の硬さも、包丁を握ってきた者の関節だった。 湊は、頭の隅でそれらを一つずつ拾い集めた。干し肉の薄片は、青年が二枚目からようやく口にした。女性は、野蒜の根より、蕗の葉のほうを先に選んだ。少女は、椀の縁に落ちた自分の涙ごと、一滴も残さずに飲み干していく。飲み干しながら、青年の袖を、もう片方の手でそっと握り直していた。その握り方が、さっき青年が少女の手を編み込んでいた握り方と、そっくりだった。 誰も、ありがとう、とは言わなかった。 言わないでいてくれることが、湊にはありがたかった。ありがとうは、本当に一杯の汁に体が追いついてから、ずっと先の朝に言えばいい。今朝はまだ、そこまで辿り着かなくていい。
少女が、空になった椀の底を、名残惜しそうに指の腹で撫でた。指先に、汁のしずくがひと粒だけ残って、少女はそれをそっと舐めた。青年が、ようやく自分の椀を両手で抱え上げた。女性は、残り少ない汁を、椀の中で静かに揺らしている。 風が向きを変え、湯気がまた、湊の頬のほうへ戻ってきた。 そのとき、女性が椀から目を上げ、湊の背中ではなく、はじめて、湊の横顔のほうを見た。鋭さの抜けきらない目だった。けれど、その奥のどこかで、ほんのわずかに、問いの形が動いたのが見えた。聞かれていない問いを、女性は口のかたちだけで、一度飲み込んだ。 代わりに、女性の唇が、また低く動いた。 「あなた……名は」 風が、竈の煙を一度だけ大きく揺らした。湊は、答える前に、鍋にまだ残っていた汁をもう一度、木べらでゆっくりかき混ぜた。四つ目の椀を探さなくては、と、煮えのこる湯気の向こうで、静かに思っていた。