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異世界の竈、ひとさじの涙

第1話 第1話

第1話

第1話

薪の匂いで、目が覚めた。

湊がまず感じたのは、鼻の奥にじんわりと染みてくる、湿った土と焦げた木の混ざった匂いだった。油と揚げ物と食洗機の洗剤に馴染みすぎた鼻には、ずいぶんと遠い匂いだ。瞼の裏が朝の色に染まっている。目を開けるより先に、自分がどこか知らない場所にいるのだと、頬に当たる風の冷たさで理解した。風は湿り気を帯びて、けれど嫌な湿り気ではなく、夜通し草の上を渡ってきたような、やわらかな冷たさだった。 ゆっくりと身を起こす。寝ていたのは、崩れかけた木の小屋の軒先だった。板壁は半分腐りかけ、屋根は片側がたわんで、空が覗いている。軒の下に敷かれていたのは、誰かが干し忘れたのか、藁を束ねた古い筵。頬の跡がついたその藁を、湊はぼんやりと指先でなぞった。乾いた藁は、触れるたびに微かな草の匂いを返してきて、どこか懐かしい。子供の頃に一度だけ祖母の田舎で嗅いだ、稲刈り後の畦道の匂いに似ていた。指の腹に、藁の小さな棘がちくりと刺さった。その痛みさえ、どこか優しく感じられた。 前の記憶は、チェーン居酒屋の厨房だ。揚げ場の油が跳ね、オーダー伝票が打ち出される甲高い音が絶えず鳴っていた。深夜二時、四十皿目のから揚げを揚げ終えた瞬間、胸の奥で糸が切れるような音がして、視界が白くなった。それから、ここだった。油に焼かれた右腕の古傷も、左膝の立ち仕事の鈍い痛みも、そのまま自分に残っている。まるで、あの厨房から体ごと持ち上げられて、ここにそっと置き直されたみたいだった。袖をまくって右腕を見ると、ひきつれた火傷の跡が朝の光にてらてらと鈍く光っていた。触れてみると、皮膚の固さも、その下の引き攣るような違和感も、昨日までと寸分変わらない。 「……死んだのか、俺」 声に出してみたが、不思議と怖くはなかった。森のほうで、名前も知らない鳥が鳴いている。遠くで木を伐る音。空は淡い灰青で、東の稜線だけがうっすらと金色を含んでいた。見上げた瞬間、湊は自分でも驚くほど長い息を吐いた。急かされる音が、どこにもなかった。肺の底に溜まっていた油煙のようなものが、その一息で少しだけ薄くなった気がした。吐いた息が、朝の冷えた空気に白く滲んで、やがてほどけていく。そのほどけ方さえ、やけにゆっくりだった。

立ち上がって、ふらつく足で小屋の周りを一周する。裏手には、小さな井戸と、錆びついた鉄の鍋。竈の跡らしい石組みは半分崩れ、煤だけが黒く残っていた。小屋の中には、虫に食われた毛布と、割れた木椀が二つ。それだけだ。生活の跡はあるのに、人の気配はもうずいぶん前に消えている。毛布には細かな埃が積もり、椀の縁には乾いた汁物の跡がこびりついていた。誰かがここで、最後に何か温かいものを飲んで、そのまま去ったのだ。理由はわからない。ただ、その椀のかたちが妙に人恋しく見えた。 ふと、自分の腰に触れて、湊は息を止めた。前世で愛用していた、柄の黒ずんだ牛刀が、革の鞘に収まって腰に下がっていた。店の名前が焼き印されたあの包丁。指で触れると、刃の温度まで前世のままだった。鞘からそっと引き抜くと、刃の根元に残った小さな欠け──去年の暮れ、冷凍の鶏腿を無理に切ってつけてしまった傷までが、そのままそこにあった。 「……お前は、来てくれたのか」 馬鹿げた呼びかけだとわかっていた。それでも、湊はしばらく柄を握ったまま動けなかった。派手なスキルの声も、勇者の使命を告げる声も、どこからも聞こえない。ステータス画面も開かない。ただ、手のひらに馴染んだ刃の重みと、使い古された柄の感触だけが、前世と今を繋ぐ細い糸のように残っていた。柄に巻かれた黒い紐の、親指が触れる位置だけが擦り切れている。それが自分の癖の形そのもので、湊は不意に泣きそうになった。喉の奥が狭くなって、鼻の付け根が熱くなる。けれど涙はこぼれず、ただ刃にうっすらと息の曇りだけが残った。 それで十分だ、と思った。 井戸に桶を落とし、水を汲み上げる。水は驚くほど澄んでいて、指を入れると骨まで冷えた。湊はその冷たさを、しばらく味わうように両手で受け止めていた。掬った水の中に、自分の顔がゆらりと映る。髭の伸びた、疲れた男の顔だ。けれど、目だけが少し前より静かだった。チェーン店の厨房では、水道の水をこんな風に見たことは一度もなかった。いつも何かを洗うための水で、いつも次の工程が待っていた。蛇口を全開にして、ざぶざぶと流し続けていた水。自分はあの水に、一度でも「ありがとう」と言ったことがあっただろうか。掌からこぼれ落ちる雫が、朝日を受けて小さく光った。その一粒一粒が、惜しいくらいに綺麗だった。 崩れた竈の石を積み直す気力はまだなかったが、少しだけ整え、落ちていた枯れ枝を拾い集める。火打石のようなものは、小屋の隅に転がっていた黒い石と、腰に差した包丁の背で代用できた。火花が散り、枯葉が小さく音を立てて燃え始める。最初の一撃ではつかなかった。二度、三度、四度目に、枯葉の縁がじりっと赤くなり、やがて小さな炎に変わった。その最初の一筋の煙を見たとき、湊はなぜか、膝を折ってしゃがみ込んでしまった。 煙が、鼻の奥にしみた。目の奥も、同じくらいしみた。

鍋に水を張り、火にかける。ただ湯を沸かすだけ。それなのに、湊の胸はしんと静かに満ちていった。厨房で湯を沸かすとき、いつも同時に三つも四つも作業があった。パスタを茹でながら、揚げ物の温度を見て、ホールからの呼び出しに返事をしていた。湯が沸くのをただ眺める、という時間を、自分はいつから失っていたのだろう。たぶん、調理師学校を出た春からこっち、ずっとだ。十何年、湯が沸く音を、ただの合図としてしか聞いてこなかった。鍋の底から立ちのぼる細い気泡を、湊はまじまじと見つめた。ひとつ、またひとつ、水の中から生まれて消えていく。その律儀さが、ひどくいとおしかった。 やがて、水面が震え、細かな泡が立ち始める。湊は割れた木椀を井戸水で丁寧に洗い、湯を注いだ。湯気が顔に当たる。何も入っていない、ただの白湯だ。それを一口すすった瞬間、喉の奥から胸の真ん中へ、温かいものがゆっくり落ちていった。胃の底で、その温かさがじんわりと広がり、強張っていた肩の力がふっと抜ける。体の内側で、凍りかけていた何かが、音もなく溶けていくのがわかった。 「……うまいな」 ひとりごちて、湊は少し笑った。味なんて、あるはずもないのに。けれど本当に、うまかった。水の甘さと、薪の匂いと、沸かすのに使った時間の全部が、味になっていた。 誰にも急かされない朝だった。伝票の音も、店長の怒鳴り声も、冷蔵庫の唸りもない。代わりにあるのは、鳥の声と、薪の爆ぜる音と、遠くの川の気配。湊はもう一度、ゆっくりと湯を含み、今度は目を閉じた。 瞼の裏に、前世で最後に作れなかった料理が浮かぶ。まかないに出そうと思って、結局出せなかった、ただの具だくさんの味噌汁。大根と、人参と、油揚げと、余った豚こま。出汁は煮干しでいい。そういう、どこにでもある一杯だ。誰かに、温かい飯を食わせたかった。その癖だけは、死んでも抜けなかったらしい。湊は自分の手を見た。指の節は固く、親指の腹には包丁だこが残っている。この手と、この癖と、この包丁。持って来られたのは、それだけだった。 それで十分だ、ともう一度思う。むしろ、そのほかに何も持って来なかったことが、今朝の空と同じくらい澄んで感じられた。肩書きも、シフト表も、未払いの給料も、辞めると言い出せなかった日々も、全部あの厨房に置いてきた。惜しいとは、不思議なくらい思わなかった。

椀を置いて立ち上がり、湊は小屋の裏手へ回った。崩れた板壁の向こうに、小さな畑の跡のような土の盛り上がりが見える。誰かが確かに、ここで暮らしていた。耕せば、何かが育つかもしれない。川はどこだろう。塩は、どこで手に入る。頭の中で、前世の癖で献立を考え始めている自分に気づき、湊はふっと息を漏らした。根菜が採れるなら、まず汁物だ。青菜があれば、塩で揉んで一晩置く。そこまで考えて、自分で自分がおかしくなった。 そのときだった。裏手の茂みの向こうで、枯れ葉を踏む音がひとつ、ふたつ。やがて、息を殺したような小さな足音が、確かに三つ、こちらへ近づいてくるのがわかった。足音は軽い。大人ではない。けれど、近づき方は慎重で、どこか怯えを孕んでいた。腹を空かせた獣の足取りでもなかった。茂みの葉擦れの奥から、押し殺したような、けれど隠しきれない荒い息遣いが、微かに届いてくる。湯気のほうへ、湯気のほうへと、その息は迷いながら引き寄せられていた。 湊は包丁には触れなかった。ただ、鍋の湯をもう一度、静かにかき混ぜた。椀がもうひとつ、あったはずだ、と思いながら。

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