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零層の賢者は嗤わない

第2話 第2話

第2話

第2話

雪は、次第に本格的になっていた。

門の外、十歩も進まないうちに、背後で慌ただしい足音が追いついてきた。一人ではない。複数。ノアは振り返らずに歩幅だけを落とした。どうせ、まだ終わっていないのだ。こういう男たちは、追放で満足しない。最後の一押しまで、自分の手で確かめなければ気が済まない種族だ。

「待てよ、ノア」

エリオットの声が、雪の粒を裂いて届いた。

ノアは立ち止まった。振り返らない。背中越しに応える。

「まだ何か」 「懐に何か隠しただろう」

声音が変わっていた。さっきまでの余裕の笑みではない。少し、低い。少し、焦っている。ノアの袖口に押し込んだ一枚の羊皮紙。あれを、斥候の目が見逃さなかったらしい。

「……写本の切れ端だ。ただの紙屑だろう」 「紙屑なら見せろ」

エリオットの手が肩に伸びた。雪に濡れた革手袋の冷たさが、外套越しに触れる。ノアは動かない。動けば、奪われる。動かなくても、奪われる。結果は同じだ。だが、こちらから差し出すか、奪われるかで、意味は変わる。

「……勝手にしろ」

ノアは袖口から折り畳んだ一片を取り出し、エリオットの掌に載せた。勇者候補の指が、乱暴にそれを開く。震える筆跡で、古代語が一行。読めない。誰にも読めない。エリオットは一瞥し、鼻で嗤った。

「やっぱりな。ミミズの這ったような落書きだ」

そして、紙片を雪の上に落とした。革靴の踵が、その上にゆっくりと乗った。

ぐり、と音がした。

ノアの内側で、もう一本、糸が鳴った。焼却炉のときとは別の、もっと細い、もっと深い場所にあった糸。踏まれたのは紙ではない。三年分の夜を削って刻んだ、指の記憶そのものだ。インクを切らして薄めた水で書いた行。蝋燭の芯が尽きて、月明かりだけを頼りに書き継いだ行。指先の皮が羽ペンの軸で擦り切れ、血が滲んで文字の一部を赤く染めた行。凍えた手をかじかませながら、息で指を温め、温めた端から再びかじかんで、それでも一文字ずつ拾い集めた行。そのどれもが、今、見知らぬ男の踵の下で、雪と泥と一緒くたに擂り潰されていく。ぐり、ぐり、と、踵は二度、三度、丁寧に捻られた。まるで虫を潰すときの手つきだった。

それでも、ノアは動かなかった。動かないことだけが、今の自分にできる唯一の抵抗だった。奥歯だけが、外套の下で静かに軋んでいた。

* * *

「覚えておけよ、ノア」

エリオットは踵をねじりながら言った。雪の下で、羊皮紙の一行が泥にまみれていく。

「お前がこの先どこへ流れ着いても、勇者パーティを追放された男だという事実は消えない。街に入れば、真っ先に疑われる。宿は貸さん。仕事はもらえん。ギルドの受付は、お前の名前を見た瞬間に札を裏返す。──それが、俺たちに逆らった人間の末路だ」

治癒術士の女が、横から甘ったるく付け加えた。声だけは優しげで、それが余計に耳の裏を撫でるようにざらつく。

「かわいそうにねえ。せめて雪が止む前に、どこか雨宿りの場所を見つけなさいよ。魔獣に食べられたら、骨も残らないわよ」

斥候が笑う。近接役は無言のまま、腰の得物の柄を撫でていた。いつでも抜ける、という合図。ノアに対してではない。仲間たちに対して、自分もちゃんと役に立つ男だと示すための、しょうもない小芝居。

ノアは、四人を順番に眺めた。

三年間、荷物を持った男たちだ。実験の的になった男たちだ。魔力制御の暴発を被せられ、水晶を割ったと罵られ、実験棟の床を這いつくばって雑巾がけをした夜もあった。治癒術士の薬草を採りに、冬の崖を降りたこともあった。斥候の夜警の代役を、三晩連続でやらされたこともあった。エリオットの儀礼剣を、毎朝磨いてから登校したこともあった。

全部、思い出した。全部、今、同じ袋に詰めた。

そして、袋ごと、雪の上に置いた。

「──ご丁寧に、どうも」

ノアの声は、自分でも驚くほど平坦だった。

「忠告は受け取った。お前たちの名前も、顔も、今日のこの雪の匂いごと、覚えておく」

エリオットの眉が、わずかに上がった。

「何だ、その言い方は」 「そのままの意味だ」

ノアは、初めてまっすぐにエリオットを見た。炉の前で見たときよりも、もう一段深いところから見た。

「お前たちが俺をどう潰そうとしたか。学院長がどう署名したか。斥候がどう写本を炉に投げたか。近接役が、今どの手でその剣を撫でているか。治癒術士が、どの角度で笑ったか。全部、覚える。忘れない。恨みじゃない。──記録だ」

「記録、だと?」

「いつか照合する日が来る。そのときのためだ」

雪の降りが、少し強くなった。ノアの睫毛に、白い粒が乗った。拭わなかった。四人の顔の上にも、同じ雪が降っていた。だが、ノアの目から見ると、その雪は四人にだけは積もらず、すり抜けて地面に落ちているように感じられた。──もう、同じ世界にいない人間たちだ、と思った。同じ雪を浴びる資格すら、この連中にはない。

エリオットが、一瞬、言葉に詰まった。喉の奥で、小さく唾を呑む音がした。革手袋の指先が、無意識に自分の剣帯をまさぐり、それからすぐに離れた。その微かな狼狽を、ノアは見逃さなかった。見逃さない、と決めたからだ。

想定外だったのだろう。泣き叫ぶか、すがるか、呪詛を吐くか。そのどれかだと思っていたはずだ。荷物持ちの落ちこぼれが、平坦な声で「記録だ」と言い放つ絵は、勇者候補の脚本になかった。

「……行け。二度と、俺の視界に入るな」

エリオットが吐き捨てた。それは、ノアへの命令ではなかった。自分に言い聞かせるための、短い呪文だった。

ノアは一度だけ頷き、雪の上の紙片を拾わずに、踵を返した。

* * *

森への道は、すぐに獣道に変わった。

雪はもう脛まで積もり始めていた。一歩踏み出すたび、外套の裾が重たく絡みつく。外套は薄い。指先は、もう感覚が鈍い。頬に当たる雪の粒は、最初は冷たく感じたのに、今はもう熱いのか冷たいのかさえ判らなくなっていた。耳の奥で、自分の呼吸だけがやけに大きく響く。それでも、歩みは止まらなかった。止めると、寒さに殺される。動いている限り、まだ、何かになれる気がした。

木々の間を抜けながら、ノアは右手を開いた。

掌の中心に、微かな熱があった。さっきエリオットに渡し、雪と泥に踏みにじられたはずの、あの一行の羊皮紙。あれは確かに、奪われた。踏まれた。だが──焼却炉の炎を目で追っていたとき、ノアの指先はすでに、あの一行を完全に写し取っていた。紙の上ではなく、掌の皺の奥に。神経の走る道筋に。そして今、その記憶が、掌の中で熱を持ち始めていた。指の関節の一つひとつに、文字の形が灯っていくような、奇妙な感触だった。

紙は、もう要らなかったのかもしれない。

(呼ばれている)

さっきより、ずっとはっきりと、胸の奥で何かが鳴っていた。鐘ではない。声でもない。強いて言うなら、鍵穴が、鍵の形を覚え始めた音。

ノアは立ち止まり、雪の積もる幹に背を預けた。樹皮の凍てつきが、外套越しにじんと背骨まで届く。息を整える。白い息が、ゆっくりと立ち上る。吸い込んだ冷気が、肺の奥で細く尖り、それがかえって頭の芯を澄ませた。

目を閉じると、焼かれた写本の文字列が、瞼の裏で一斉に明滅した。欠損だらけだったはずの呪文が、今は欠損の隙間までくっきりと見える。誰かが、欠けていた部分に、後から銀のインクで補筆してくれたかのように。補筆したのは誰か。外ではない。自分の内側の、もっと奥にいる、もう一人のノアだ。その「もう一人」は、三年間ずっと、黙って後ろに立っていた。罵倒されるノアを。雑巾を絞るノアを。夜ごと写本の隅に齧りつくノアを。ただ黙って、見ていた。そして今、初めて、口を開こうとしている。

──待っていたのは、こっちだったのかもしれない。

自分がずっと既存の詠唱式を裏切られてきたのではない。自分の内側の魔力が、既存の詠唱式を拒みながら、本当の言語が降りてくる日をずっと待っていたのだ。学院も、パーティも、三年分の夜も、ぜんぶ、その日のための助走だったのだとしたら──。踏みにじられた紙片も、焼かれた写本も、肩に残る革手袋の冷たさも、助走路の石畳の一枚一枚だったのだとしたら──。

懐の中で、心臓が一度、大きく鳴った。

そのとき、森の奥から、低い唸り声が返ってきた。

一つではなかった。二つ、三つ、四つ。重なり合って、雪の粒を震わせる。黄色い目が、木々の間でいくつも灯った。飢えた獣の目だ。冬の森に、獲物をみすみす逃す獣はいない。

ノアはゆっくりと幹から背を離し、雪の上に立ち直した。

掌の熱は、もう指全体に広がっていた。胸の奥の鍵穴が、ぴたりと鍵の形に一致した。今なら、唱えられる。既存の言語ではない、あの、読めないはずの一行を。

白い息の向こうで、ノアは微かに口角を上げた。怒りでも、恐怖でもない。──ようやく、だ、と思った。三年分の夜が、今この一行に、ようやく追いついた。

最初の獣が、雪を蹴って跳んだ。

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