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零層の賢者は嗤わない

第3話 第3話

第3話

第3話

最初の獣が、雪を蹴った。

黒い塊が、白い闇を裂いて宙を滑ってくる。雪狼、と頭のどこかが冷静に告げた。冬の森で最も群れの統率がとれた捕食者。跳躍の軌道は低く、まっすぐ喉笛を狙う定型。教本の挿絵で見た通りだった。──ただし、教本の挿絵には、牙の湿り気も、息の生臭さも、描かれていなかった。

ノアは身を捻った。外套の裾が遅れて翻る。牙は頬の横を掠め、耳の付け根に熱い線を引いた。血の匂いが、雪の匂いに一滴だけ混ざる。着地した狼が、雪を噛んで身を翻し、また低く構えた。その背後から、二頭目、三頭目が、音もなく木々の間に現れた。さらに、その向こうに四つ目の目。五つ目。六つ目。黄色い灯火が、木の幹を縫って広がっていく。包囲の形は、もう完成していた。

(早い)

掌の熱が、まだ完全には言葉の形になっていない。鍵穴と鍵はぴたりと合ったはずなのに、回す手順がわからない。写本は焼かれた。手順書は灰だ。あるのは、胸の奥で鳴り続ける呼び声と、指の皮膚に刻まれた文字の記憶だけ。

ノアは腰の帯から、古びた短杖を抜いた。学院支給の、一番安い等級。エリオットが返却させ忘れた、たった一本の魔術触媒。

「──『炎よ、灯れ』」

既存詠唱式。初等炎魔法。一番簡単な一節。

反応は、いつも通りだった。喉の奥で言葉が詰まり、胸の内側で何かが激しく押し返す。短杖の先に、火花の欠片すら宿らない。それどころか、触媒の木が、内側から熱ではなく冷気を噴き上げる。指先が凍りつくように痺れた。

──やはり、駄目だ。

駄目だ、と確認するために唱えたようなものだった。既存の言語は、今のノアの魔力を、一滴も運んでくれない。運ぶどころか、拒む。三年間、教官にも同級生にも見えなかった、この拒絶の壁が、雪の中では命そのものに直結していた。

二頭目が跳んだ。

ノアは短杖で牙を受けた。木の芯が、鈍い音を立てて折れた。衝撃が肩を抜け、雪の上を二歩、押し戻される。右の脇腹に、鉤爪が触れた気がした。外套の布が裂け、肋骨の上の皮膚に、熱い線が走る。

(届かない)

短杖の折れた先が、雪に突き刺さった。役に立たなかった触媒。教本通りの呪文。三年間、自分を「詠唱不全」と呼ばせ続けた、既存の魔術体系の、最後の一本。それが、今、雪の中で折れた。

ふしぎと、痛みより先に、すとん、と腑に落ちた。

──ああ、そうか。これも、焼かれるべきだったんだ。

写本と一緒に、この短杖も、この詠唱式も、三年分の「合わない言語」も、ぜんぶ焼却炉に放り込んでおくべきだった。背負って出たのが間違いだった。門の外へ持ち出していいものは、胸の奥の呼び声だけだった。

三頭目が低く唸り、雪を蹴る姿勢に入った。

ノアは折れた短杖の柄を、雪の上に落とした。そして、代わりに、空いた右手をゆっくりと前に差し出した。触媒はない。詠唱式もない。あるのは、掌に刻まれた一行だけ。

「……いい」

息が白く、細く立ち上った。

「お前たちが、最初の読者だ」

* * *

目を閉じた。

瞼の裏で、焼かれたはずの写本が、一枚ずつ、順番に開いていく。欠損だらけだった呪文の行間に、銀色のインクがするすると流れ込む。誰かが後ろから補筆するのではない。ノア自身の内側から、滲み出てくる。三年間、外に出られずに胸の奥で燻っていた、本物の言語。

文字が、勝手に並び替わっていく。

縦でも横でもない。螺旋でもない。強いて言うなら、折り畳まれていた一枚の布が、ひとりでに広げられていく動きに似ていた。ノアが写した順ではない。ノアが書き写す前の、本来の並びに戻っていく。一文字が別の一文字を呼び、その一文字がさらに三文字を呼び出す。欠損していた穴に、既に写した別の一行の末尾が、ぴたりと嵌る。写し続けていた三年分の文字列は、一枚の大きな呪文の、ばらばらに散らされた断片だったのだ。

(そういうことか)

学院の古文書庫に置かれていた本は、おそらく、意図的に解体されていた。一冊にまとめれば危険だから、十冊二十冊に散らし、読めない言語として忘却の棚の奥へ押し込んだ。誰かが、千年前に、そうした。そうして封じたはずの断片が、三年間、夜ごと、一人の「詠唱不全」の指先を経由して、また一つの呪文に戻ろうとしていた。

焼却炉は、最後の偽装だったのかもしれない。紙を焼けば断片は消える、と思わせるための。だが、断片はもう紙の上にはなかった。ノアの神経の走る道筋、指の関節、舌の裏側、胸骨の奥の、もっと柔らかい場所に、とっくに移し替えられていた。

三頭目の牙が、喉元まで迫った。

雪の匂い。獣の体温。自分の血の鉄の味。外套の裂け目から吹き込む冷気。そのすべてが、一瞬、透き通った。

ノアは、目を開いた。

そして、初めて、読めない言語を──口にした。

発音ではなかった。発声ですらなかった。喉を振動させる代わりに、胸の奥の鍵穴で、直接、一行を回した。既存詠唱式を唱えたときの、あの激しい拒絶の壁が、今度は綺麗に裏返った。押し返されるのではない。引き込まれる。魔力が、初めて、自分の言語を得て、外へ向かって流れ出していく。

掌の中心から、黒い光が、一粒、零れた。

光なのに、黒い。矛盾した言葉だが、それ以外に呼びようがなかった。周囲の雪を照らさず、ただ自分だけが、黒いまま、強く輝いている。その粒が、掌の上でゆっくりと形を変え、やがて古代語の一文字に──あの、三年間一番最初に写した一文字に、似た形になった。

三頭目の牙は、そこで止まっていた。

止まっていた、というより、届かなかった。

* * *

黒い文字が、ノアの掌を離れ、宙で緩やかに回転した。

一回転するごとに、周囲の空気が、薄く剥がれていくような感覚があった。雪が、途中で落下をやめて浮いた。獣たちの息が、吐き出された途中の白い形のまま、空中に止まった。風の音が消え、森全体が、一拍、ノアの呼吸に同期した。

二回転目で、文字は二文字に増えた。

三回転目で、五文字に。

四回転目で、ノアの視界の端から端まで、黒い古代語の行が、半円を描いてゆっくりと展開した。半円は、ノアを中心にしていた。ノアの立つ雪の一点から、半径十歩ほどの距離に、弧を描く文字の壁。その外側に、狼たちが、牙を剥いた形のまま凍りついていた。

ノアは、自分が何を起動したのか、まだ名前を知らなかった。

ただ、胸の奥で、鍵が一つ、完全に回りきった音がした。かちり、という音ではない。もっと深い、もっと静かな、地層の底で石と石が噛み合うような音。その音を聞いた瞬間、掌から腕、肩、背骨、踵、全身の神経が、一斉に「そうだ」と頷くような感覚があった。

(これが、俺の言語だ)

三年分の夜が、ようやく、一行の呪文に追いついた。

半円の弧が、きゅっと細く収束した。文字たちが、重なり合い、一つの、ごく短い、欠片のような句になった。それは、ノアが掌に刻み続けていた、あの最初の一行の──さらに、その先頭の、たった一節だった。

一節だけで、十分だった。

ノアは、ゆっくりと、息を吐いた。白い息が、黒い句の上をすべって、森の奥へ流れていった。

* * *

獣たちの足元で、雪がまず、音もなく沈黙した。

凍りついていた吐息の白い形が、内側から細かく砕け、粉雪のような粒になって地面に落ちた。それと同じ速度で、狼たちの輪郭が、外側から順に、薄れていった。悲鳴はなかった。血も飛ばなかった。三頭目の牙は、ノアの喉から一歩の距離で、空中に止まったまま──ゆっくりと、灰色の粒に変わって、雪の上に零れた。

遠吠えを返していた二頭も、木々の陰に潜んでいた四頭目も、同じだった。恐怖する時間すら与えられず、ただ、黒い一節の半径の中で、存在の縫い目をほどかれた。

森の奥で、一本の太い幹が、ずずず、と音を立てて傾いた。ノアから見て右前方、二十歩ほど先の巨木。その根本から上三尺ほどが、綺麗に消えていた。切断面ではない。削り取られたのでもない。ただ、そこにあったはずの木材が、無かったことにされている。上部が自重で滑り落ち、雪の中に、どさり、と重たく沈んだ。

風が、戻った。

止まっていた雪が、思い出したように、また降り始めた。ノアの睫毛の上に、新しい一粒が乗る。今度は、冷たいと感じた。感覚が、戻ってきていた。

ノアは、差し出した右手を、ゆっくりと胸の前に引き戻した。掌の中心で、黒い文字はもう消えている。熱だけが、まだ微かに残っていた。その熱が、じわりと胸骨の奥へ染み込んでいく。鍵は、回したあと、また鍵穴の中に静かに戻っていった。

膝の力が、遅れて抜けた。

ノアは雪の上に片膝をついた。呼吸が、ようやく追いついてくる。肺の底に、鉄の味と、焦げに似た匂いが残っていた。焦げたのは、自分の内側ではない。外の、あの半円の空間だ。何かが、確かに、焼き切られた。獣たちではない。獣たちの輪郭を描いていた「この世界の縫い目」の方が、焼き切られた。

(なんだ、これは)

怖くはなかった。不思議と、怖くはなかった。

怖いのは、これを名付けられないことだった。既存の炎魔法でも、風魔法でも、光魔法でもない。学院の分類表のどこにも載っていない。教本の索引にも、教官の口伝にも、エリオットが自慢げに振り回していた勇者候補用の秘伝書にも、載っていない。載っていないものを、自分は今、たった一節だけ、口にした。

一節で、これだった。

(全部、唱えたら──どうなる)

想像の入り口に、指を一本だけ触れて、ノアはすぐに引き戻した。今は、駄目だ。今日は、ここまでだ。胸の奥の鍵穴は、鍵を回したばかりで、まだ熱を持っている。連続して回せば、鍵穴の方が焼き切れる、という直感があった。誰に教わったのでもない。呪文の方が、そう囁いた気がした。

ノアは雪の上から、ゆっくりと立ち上がった。

外套の裂け目から、脇腹の血がひと筋、滴って雪に落ちた。赤い点が、白の上にぽつりと咲いた。その赤を見て、ノアは初めて、自分が生きている、と思った。門の外へ出てから初めての、まともな感情らしい感情だった。

生きている。詠唱不全ではなく、別の言語の話者として。

顔を上げる。森の奥、黒い幹の向こう側、雪の幕の一番薄いところに──かすかな、金属の光が見えた。

一瞬、気のせいかと思った。だが、光は二つ、三つ、と数を増やした。馬の蹄が雪を噛む音が、ずっと遠くから、風に乗って届いた。鎧の擦れる音。誰かの、低く鋭い号令。

ノアがたった今、森に開けた半径十歩の空白と、消えた巨木の上部。その「空白」を、遠方から見た者が、いた。

蹄の音は、まっすぐこちらへ向かってくる。

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