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零層の賢者は嗤わない

第1話 第1話

第1話

第1話

古文書庫の蝋燭が、音もなく短くなっていく。

地下三階。窓はなく、空気は鉄と黴の匂いがする。壁一面に並ぶ背表紙は、どれも金箔が剥げ落ち、背に押された題名の多くはもう読めない。誰も借り出さない本たち。学院の正規カリキュラムからとっくに外された、忘却の棚。その一番奥の机が、三年前からノアの定位置だった。

ノアは鵞ペンの先を確かめ、羊皮紙の上にまた一文字を落とした。読めない古代語。意味も発音もわからない。それでもこの文字列を写していると、胸の奥で魔力が細く、確かに鳴る。──呼ばれている、と思う。

ペン先がかすれ、インク壺に浸す。黒いインクの表面に、自分の顔が歪んで映った。落ち窪んだ目。痩けた頬。十七歳の顔ではない、と思う。だがどうでもよかった。顔より、指の記憶が大事だった。一文字一文字、筆の運びを身体に刻み込んでいく。読めなくても、書ける。発音できなくても、形は覚える。それだけが、今のノアにできる唯一の魔術修行だった。

「おい、見ろよ。まだ妄想書写をやってる」

扉の陰から忍び笑いが漏れた。同級の男が三人、卒業試験直前だというのに、わざわざこんな地下まで見物に来たらしい。

「詠唱不全のくせに古代語? 正気を失くしたんだろ」 「エリオット様のお情けで残ってるだけだってな」 「聞いたか? 今度の実験でも、こいつの魔力で実験用の水晶が三つ割れたってよ」 「呪われてるんじゃねえの。触らない方がいい」

ノアはペンを止めない。顔も上げない。耳は慣れている。入学してから三年、嘲笑は呼吸と同じだ。いちいち応えていたら、写本の一行も進まない。

蝋が指に垂れた。熱い。だが、それよりずっと深いところで、魔力が疼いていた。既存の詠唱式はどれも馴染まなかった。炎も、風も、光も。呪文を唱えた瞬間、体の内側で何かが拒絶する。まるで──話しかける言語を、間違えているかのように。

教本に書かれた詠唱式を初めて口にした日のことを、ノアはよく覚えている。入学式の翌日、初等炎魔法の実習。指先に小さな火を灯すだけの、最も簡単な呪文。同級生たちが次々と赤い灯を咲かせていく中で、ノアの指先だけが冷たかった。いや、冷たいのではない。内側で、何かが激しく押し返してくるのだ。まるで、喉に別の言語を詰まらせたまま無理に発音しようとしているような、違和感。教官は「集中が足りん」と言った。違う、とノアは思った。集中ではない。言語が、違う。

(俺の魔力は、別のものを求めている)

確信だけが、胸にあった。

* * *

「ノア。表に出ろ」

背後から低い声が落ちた。勇者候補エリオット。金髪を後ろに流し、腰には学院支給の儀礼剣。その後ろに、パーティの残り三人が腕を組んで控えている。治癒術士の女、斥候、そして近接役。全員、ノアより半歩前に立つ癖がついている。

ノアはペンを置き、立ち上がった。荷物持ち兼、実験の的役。呼び出されれば従う。それがこの三年の役目だった。

「荷物なら部屋に置いてある」 「今日は荷物の話じゃない」

エリオットは唇だけで笑った。その笑い方を、ノアは知っている。獲物を追い詰めたときにだけ見せる、勝者の余裕の笑み。廊下を歩く間、誰も口を開かなかった。四人分の靴音だけが、石畳の冷たさを反響させていた。

学院長室の扉はすでに開いていた。長机の奥に、白髭の学院長が両手を組んで座っている。目は合わせない。悪い予感は、背筋から頭頂へ一直線に抜けた。部屋の空気は、古い紙と、嗅ぎ慣れない香の匂いがした。儀礼用の香だ、とノアは遅れて気づいた。何かを正式に決定するときだけ焚かれる、あれ。

「ノア」

エリオットが先に口を開いた。

「お前を、パーティから外す」

短い言葉だった。治癒術士が鼻で笑い、斥候が肩をすくめる。

「お前の魔力は不安定で危険だ。実験でも何度も暴走しかけた。勇者一行の汚点になる」 「暴走じゃない」ノアは静かに返した。「既存詠唱式が俺に合わないだけだ」 「それが危険と言っている」

学院長がようやく顔を上げた。灰色の瞳は、ノアの顔を見ているようで、その後ろの壁を見ていた。この老人は、最初から議論するつもりがないのだ、とノアは悟った。

「他の生徒への影響も鑑み、退学処分とする。本日付で」

息が、止まった。

「学院長」 「覆らん」

言い切られた。反論の余地はない。採決も審問もない。ただ、決まっていた。最初から。机の上に置かれた羊皮紙の処分通知書には、もうとっくに学院長の署名が入っている。ノアが呼ばれる前に、全ては終わっていたのだ。

「私物は裏で処分させてもらう」 「古文書は──」 「あれは学院の所有物だ。お前が勝手に写した紙切れも、まとめて処分する」

処分、という語の意味を、ノアは遅れて理解した。

学院裏の焼却炉の前に、写本の束が積まれていた。夜ごと、指が痺れるまで写した古代語の羊皮紙。欠損だらけの呪文。読めないまま、それでも離せなかった文字たち。束の厚みは、ノアの掌二枚分。三年分の夜の厚みだった。

焼却炉の口は、獣の喉のように赤く爛れていた。炉番の老人が無言で炭を足し、温度を上げる。何を焼くかは聞かされていない様子だったが、束の上の一枚をちらりと見て、微かに眉をひそめた。読める人間には、あれが普通の落書きでないことがわかるのだろう。だが老人は何も言わなかった。言えば自分の立場が危うくなる。それだけの話だ。

斥候がその束を無造作に炉へ放り込んだ。火が、音を立てて食いついた。

羊皮紙は、紙よりずっとゆっくり燃える。まず端が茶色く変色し、次に表面の文字が浮き上がるように黒ずみ、それから一気に炎が這い上がる。ノアは、その過程を一枚一枚、目で追った。追わずにいられなかった。

「これでお前も、ただの落ちこぼれに戻れるな」

エリオットの声が、炉の熱気越しに届いた。

ノアは動かなかった。炎の中で古代語が縮れ、黒く丸まり、灰になっていく。三年分の夜が、十秒で消えた。顔の表面だけが、炉の熱で痛いほど焼かれていた。涙は、出なかった。出る前に、熱気が目の表面を乾かしていった。

胸の奥で、何かが──切れた音を立てた。

悲鳴ではない。怒りでもない。もっと静かで、もっと乾いた音。糸が一本、断ち切られるような、そんな音。三年間、自分を学院に繋ぎ止めていた最後の細い糸。それが、今、切れた。

ノアはゆっくりと息を吸い、吐いた。吐いた息は、炉の熱に混ざって見えなかった。

「……もういい」

ぽつりと、自分のためだけに呟いた。

「俺は俺の魔術で生きる」

顔を上げた。初めて、エリオットを正面から見た。金髪の勇者候補は、その目線に一瞬だけ肩を強張らせた。だがすぐに取り繕って、嗤う。

「どこへ行く気だ? 詠唱不全が」 「どこでもいい」

ノアは踵を返した。

学院の正門へ向かう石畳を、雪が薄く覆い始めていた。冬の初雪だった。頬に触れて、すぐに消える。背中に、四人分の嘲笑が刺さる。斥候の口笛。治癒術士の甲高い笑い声。エリオットの、低く満足げな溜息。

刺さっていた。確かに刺さっていた。だが、抜こうとも思わなかった。そのままで構わない。嘲笑ごと、俺は門の外へ運んでいく。いつか、この棘の一本一本に、別の名前をつけてやる。屈辱ではなく、燃料という名前を。

門番は何も言わず、扉を押し開けた。雪の向こうに、夜の森が黒く横たわっている。

ノアは一歩、踏み出した。

振り返らなかった。写本は燃えた。学院も、パーティも、三年分の時間も、燃えた。持って出られるものは何もない。それでも──胸の奥で、魔力が疼いていた。さっきまでより、ずっと強く。

まるで、主を呼ぶように。

(呼ばれている)

気のせいではなかった。焼かれたはずの古代語が、なぜか脳の裏側で今も明滅している。写した分だけではない。写す前に、もう一度、どこかで見たことがあるような──そんな錯覚。いや、錯覚ではないのかもしれない。あの文字たちは、学院の古文書庫に来るずっと前から、自分の内側のどこかに既にあったのではないか。ただ、思い出すための鍵が、今日ようやく回されただけなのではないか。

風が吹いた。森の奥から、獣の遠吠えが低く返ってきた。一つではない。二つ、三つ、重なっていく。

ノアは立ち止まらなかった。足を、雪の上へもう一歩進めた。

懐には、たった一枚だけ焼き残った羊皮紙の切れ端があった。炉に投げ込まれる前に、袖口へ忍ばせた一片。意味のわからない古代語が、震える筆跡で一行だけ残っている。

その文字が、指先の体温に触れて──微かに、熱を持ち始めていた。

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