第2話
第2話
指先が、革の表紙に触れた。
ひやりとしているはずなのに、その革は、まるで長いあいだ誰かの掌のなかで温められていたみたいに、かすかに体温に似た湿り気を返してきた。背表紙の金箔は剥げかけていて、読めない文字が二つ、三つ、辛うじて残っている。私は背伸びをしたまま、その一冊をそっと引き抜いた。棚の上の埃が、ぱらりと頬に落ちてくる。埃はすぐに溶けるみたいに消えて、代わりに鼻の奥に、古い紙と、どこかで嗅いだことのある花の匂いが残った。桜ではない。もっと重くて、もっと甘い、知らない季節の匂いだった。
本を胸の高さで開こうとしたとき、指がすべった。
あ、と声を出す間もなかった。分厚い革表紙は、私の手の中で一度だけ跳ねて、床の埃の上に、ばさりと落ちた。鈍い音。古い木の床が、わずかに揺れた気がした。開いたページの角が、西日の筋の中にちょうど入り込む。私はしゃがみ込み、慌てて拾い上げようとして――指先が、ページに触れた瞬間、止まった。
紙の繊維の下で、何かが脈を打っていた。
見間違い、ではなかった。ページに並んだ古い古い文字――崩れた仮名とも漢字ともつかない、線の多い文字――が、ひとつ、またひとつと、内側からふっと発光し始めたのだ。蛍のように、息をするように、ゆるやかに。青とも白ともつかない、淡い光だった。指の腹に当たる紙はざらりと乾いているのに、その下の繊維の一本一本が、まるで細い血管のように、温く膨らんだり縮んだりしているのが分かる。文字の一画一画が、誰かの唇の形をなぞるように、ゆっくりと輪郭を持ち直していく。部屋の空気が、すう、と下がる。いや、下がったのではない。動き出したのだ。
資料室の埃が、渦を巻き始めていた。
西日の斜めの帯の中を、細かな光の粒がゆっくりと回る。ゆっくり、ゆっくり、そしてだんだん速く。ひとつひとつの粒が、まるで小さな星屑みたいに自分の影を持っていて、床に落ちるべき重さを忘れたまま、宙のどこか高い一点に向かって、糸に引かれるように昇っていく。本棚の縁や、錆びた鍵のついた抽斗の取っ手が、埃越しに、薄い藍色の輪郭でぼんやりと浮かび上がる。私はしゃがんだまま、動けなかった。息をするのを忘れていた、というより、息の仕方が急に分からなくなった、といった方が近かった。吸っているのか、吐いているのか、口の奥がただ乾いていく。胸の内側で、心臓が、規則正しい拍子を失って、走り出した子どもみたいに転びそうになっている。
窓の外――散り残っていたはずの桜の花びらが、見えた。
見えたのではない。視界いっぱいに、満開の桜が、戻ってきていた。
ガラスの向こう、さっきまで校舎の壁に貼りついていたはずの白い花びらが、逆回しの映像みたいに風から剥がれ、枝の先へと吸い寄せられていく。一枚、二枚、十枚、百枚。散っていた花たちが、空中で方向を変え、どこかの過去へ帰っていく。薄い桃色が空を覆い、校庭の向こうの景色を塗り替えていく。地面に落ちていた花びらまでが、土の色をふるい落として、羽を思い出したように宙へ舞い戻る。校庭の隅のブランコも、錆の浮いた鉄棒も、その淡い桃色の雪の奥に沈んでいって、輪郭だけが、遠い記憶の下絵みたいに透けて見えた。私の知っている今年の桜じゃない。もっと濃くて、もっと若くて、もっと――誰かが、この桜を、まだ散らせたくないと願っている。そんな匂いのする桜だった。喉の奥にまで、その甘さが押し寄せてきて、息をするたび、知らない誰かの祈りを一緒に吸い込んでしまう気がした。
遠くで、鈴の音が聞こえた気がした。
ちりん、と、ひとつだけ。耳の中ではなく、胸の奥で鳴る鈴だった。資料室の壁紙の模様が、ほんの一瞬、人の形に見えた。制服を着た何人かが、桜の下で笑っている、その影絵のような輪郭。セーラーの襟のライン、長いスカートの裾、短く刈った男子の後ろ頭。誰かが誰かの肩を叩き、誰かが空を仰いで、何か大事なことを叫ぼうとしている――そんな気配までが、一枚の影絵の中に畳み込まれている気がした。けれど目を凝らすと、それはただの古い壁紙の染みに戻っていた。戻っていたのに、網膜の裏にだけ、その笑い声の残像がしつこく貼りついていた。聞いたはずもない声なのに、なぜか、そのうちの一人の笑い方を、私はもう知っている気がした。
古書のページの光が、私の指先まで這い上がってきた。
掌の付け根が、じん、と熱い。熱いのに、痛くない。むしろ、ずっと冷えていた場所に、湯が通ったみたいな、安堵に近い熱だった。誰かに、初めて手を握られたみたいな。そんな温度。私は、自分の指がかすかに震えているのを、光の中で見ていた。震えているのに、怖くなかった。怖いよりも先に、泣きそうだった。理由も分からないのに、目の奥が、熱くなっていた。
――誰かが、私を、見つけた。
そう思ってしまった。根拠もないのに、そう思ってしまった。窓際の席で「いない方が静かだ」と言われていた私を、この光は、ちゃんと見ていた。そう感じてしまうことが、ばかみたいで、ずるくて、でも、止められなかった。
「……ぁ」
声にならない声が、喉からこぼれた。
そのときだった。
バタン、という派手な音が、廊下の方から響いた。
古い扉の軋みを、誰かが乱暴にかき消して、駆け込んでくる足音。上履きが板張りを蹴る、タタタ、という若い音。私は反射的に、膝の上で本を閉じようとした。光が、慌てて逃げるように指の隙間へ潜り込む。けれど間に合わなかった。
「――っ、見つけた!」
資料室の入り口に、息を切らした女の子が立っていた。
肩までの髪が風を孕んで、白いリボンが制服の胸元で揺れている。額にうっすら汗をかいていて、頬が桜みたいに上気していた。走ってきた距離の長さを物語るように、肩が小さく上下していて、開いた唇の間から、速い呼吸が白く零れそうなほど細かく震えている。胸に留められた生徒会のバッジが、西日を受けて、ちかりと光った。見たことのない顔だった。でも、この学校のどの生徒よりも、今、この資料室に存在することが、ものすごく自然な顔をしていた。ずっと前からこの部屋の扉の向こうで、この瞬間だけを待っていた人の、到着の顔だった。
彼女の視線は、まっすぐ私に――いや、私の膝の上の、まだ微かに光を残した古書に、注がれていた。その目の奥には、安堵と、怯えと、それからもっと言葉にしにくい何か――たとえば、長いこと探していた忘れ物をやっと見つけたときの、泣き笑いの一歩手前の色が、混ざっていた。
息を整えるのも待たず、彼女は一歩、踏み込んだ。上履きが、ぱり、と埃を鳴らす。さっき私が踏んだのと同じ音。けれど、その音は彼女の足の下だと、なぜだか軽やかに聞こえた。
「動かないで」
命令する口調ではなかった。祈るような、でも引き下がらない声だった。彼女は片手を小さく前に出して、まるで野良猫を怯えさせないように、ゆっくりと距離を詰めてくる。
「今、見えたでしょう」
その一言で、私の胸の中で、何かの扉が、かちりと音を立てた。
見えた、なんて、私の口からは絶対に出てこなかったはずの言葉だった。桜が逆向きに戻っていくこと。埃が渦を巻いたこと。古い文字が息をしたこと。掌が、誰かに握られたみたいに熱くなったこと。そのどれも、口に出したら全部、妄想として笑われて終わるはずだった。なのに、目の前の彼女は、笑いもせず、怪しみもせず、ただ、確かめるように、もう一度繰り返した。
「見えた、よね。桜が、戻ってくるところ」
私は、答えられなかった。ただ、膝の上の古書を両手で抱えなおすことしか、できなかった。革の表紙の、あのかすかな体温が、掌を通して、私の胸の奥にまで染み込んでくる。それは、今日初めて私に話しかけてきた誰かの声に、少し似ていた。
「よかった」
彼女は、ふ、と肩の力を抜いた。そして、泣きそうな顔で、笑った。
「やっと、見つけた。ずっと待ってたんだから」
誰が。何を。いつから。問いたい言葉は、舌の上でばらばらに散らばって、どれ一つ、形にならなかった。西日は傾いて、彼女の横顔を橙色に染めている。睫毛の先まで光を吸い込んだその顔は、笑っているのに、どこか遠い場所で小さく傷ついたままの子どもにも見えた。その光の中で、彼女の瞳の奥に、私と同じ――いや、私のそれより、もっとずっと深い場所にある種類の「淋しさ」が、一瞬だけ覗いた気がした。
資料室の空気は、まだ、かすかに震えていた。古書のページは、いつの間にか元の古い紙に戻っていて、さっきまでの光が嘘だったみたいに、静かに閉じかけている。けれど、私の掌の付け根には、まだ、熱が残っていた。しるしを押されたみたいに、確かに、そこに。
彼女は、自分の胸元のバッジに指先で触れて、小さく名乗った。
「生徒会、副会長。青柳灯里(あおやぎ・あかり)」
名前を、初めて誰かから、ちゃんと私に渡された気がした。
窓の外、今年の桜の花びらが、また一枚、ガラスに貼りついて、それから静かに剥がれていった。今度は、ちゃんと、散っていく方向に。
私の指先の震えは、まだ、止まらなかった。止めたいとも、もう、思えなかった。