第3話
第3話
資料室の扉を背中で押さえるようにして、青柳灯里は私の手首を、壊れ物を扱う指先でそっと掴んだ。
「ここじゃ、だめ。人が来る」
彼女の声は低く、けれど急いでいた。私は自分の足がどうやって動いているのか分からないまま、ただ引かれるままに、古い廊下を渡っていた。膝の上にあったはずの古書は、いつの間にか私の胸の前に抱えられていて、革の表紙は相変わらず、かすかな体温を返してきていた。上履きが板張りを蹴る音は、さっきまでひとりだったときの倍になっていた。ぱたぱた、と、ぱたたた、と。自分の音と、誰かの音とが、半拍ずれて、けれど確かに重なっていく。その重なり方が、私はまだ、うまく呑み込めなかった。
渡り廊下の窓から、傾いた西日が斜めに差し込んでくる。灯里の髪の先が、その光の中でいっとき金色に透けた。走りながら、彼女は一度だけ振り返って、私の顔を確かめるように見た。怒っているのでも、怯えているのでもない、けれど「逃がさない」という色だけが、その目には残っていた。
「こっち」
本校舎の三階、音楽室の手前にある、鍵のかかっていない空き教室。彼女はそこに私を押し込むようにして入れ、ドアを閉め、すぐに内側から小さな掛け金を落とした。かちゃり、と、錠の落ちる音が、がらんとした教室の隅々まで、澄んだ石を投げ込んだみたいに響いた。
机も椅子も、隅に寄せられたまま埃を被っていた。黒板には、誰かがずっと前に描いたのだろう、消し残しの、下手くそな桜の絵が残っている。灯里は肩で息をしながら、私を窓際の机のそばへ連れていき、そこで初めて、私の手首から指をほどいた。
彼女の指の跡だけが、私の袖口に、ほのかに熱として残った。
「見せて」と、灯里は言った。
椅子を引く音もなく、彼女は私の正面に膝をついた。制服のスカートの膝小僧が、ぺたりと埃の上に下りるのを、私は呆然と見ていた。副会長のバッジが、彼女の胸元で静かに西日を弾いていた。埃の上に膝をつくことに、この人はなんのためらいもないのだ、と、私はどこかぼんやり思った。
「掌、見せてもらっていい?」
その声は、さっき資料室で「動かないで」と言ったときより、ずっと細くて、ずっと柔らかかった。お願い、と言わなかった代わりに、語尾の最後の一音が、ほんのりと下がっていた。私は、頷くことも、拒むこともできないまま、ただ、ゆっくりと、胸に抱いていた古書を机の上に置いた。革の表紙が、ことり、と小さく鳴った。
両の掌を、膝の上で、上向きに開く。
自分の掌なのに、見るのが怖かった。教室に差し込む西日が、指の輪郭を橙色に縁取っている。掌の付け根――さっき古書の光が這い上がってきた場所――には、まだ、じん、と湯が通ったような熱が残っていた。私は、その熱の中心に、そっと視線を落とした。
薄青い紋様が、そこにあった。
血管よりも、もっと内側。皮膚の表面ではなく、掌の肉の底の、さらに一枚奥の紙に、誰かが藍色のインクでゆっくりと描き足したような線。細い線が三本、手首の方からほんの少しだけ伸びてきて、掌の真ん中で、蕾のような形にまとまっている。濃くはない。目を逸らせば、すぐに見失いそうなほど淡い。けれど、凝視すれば、確かにそこに在った。動いてはいない。動いてはいないのに、呼吸している、という感触だけが、皮膚の下から伝わってきた。
「……あ」
声が漏れたのは、灯里の方だった。彼女は、ゆっくりと息を吐き、それから、その息を吸い戻すのを忘れたように、口を少し開けたまま、私の掌を見ていた。眉のあたりが、くしゃりと歪んだ。笑ったのでも泣いたのでもない。たぶん、両方を同時にやろうとして失敗した、そういう顔だった。
「やっぱり、浮いた」
やっぱり。その一言に、ひゅ、と空気が鳴る。私は顔を上げた。
「灯里先輩は、知ってたんですか。これが、出るって」
敬称が自分の口から自然に出てきたことに、言った後で驚いた。彼女は、私の掌の上で止めていた視線を、ようやく私の目まで持ち上げてきた。西日の中で、その瞳は、琥珀を水に浸したみたいな色をしていた。
「知ってた、というのは、嘘になる」
彼女は、自分に言い聞かせるように、ゆっくり言った。
「ただ、ずっと、待ってた。こういう掌が、いつかまた出るって」
また。 その二文字が、空き教室の床にぽとりと落ちて、私の足元まで転がってきた。
「この学校の、地下にね」と、灯里は声を一段と低くした。「古い話があるの。まだ校舎がここじゃなかった頃の話。誰が書いたのか分からない、『古の魔術』って呼ばれてるものの痕跡が、残ってる。私たちの書架研究会――ほとんど誰も知らないけど――は、ずっとそれを調べてる」
古の魔術、と彼女の口が動くのを、私はほとんど音のない世界で見ていた。普段なら、笑い飛ばしただろう言葉だった。ライトノベルの帯にでも書いてありそうな、浮ついた響き。けれど、私の掌には今、藍色の蕾が灯っている。私の目の奥には、さっきの資料室で戻っていった桜が、まだ焼きついている。笑おうとしても、唇の端が、うまく持ち上がらなかった。
「それで、百年前――ちょうど百年前に、この学校で、生徒が何人か、消えたって記録が残ってる」
「消えた……って」
「死んだ、じゃないの。名簿から、写真から、同窓会の記録から、一斉に。まるで、最初からいなかったことにされたみたいに」
灯里は、そこで初めて、自分の膝の上に置いた両手を、ぎゅっと握った。白い指の関節が、少しだけ浮き上がった。
「でもね、古書の中には、ちゃんと残ってるの。その子たちの書き込みが、頁の端に。笑ってる絵が、余白に。桜の下で肩を組んでる、落書きみたいな線が」
桜の下。私は息を呑んだ。さっき壁紙の染みの中に一瞬だけ見えた、あの影絵の輪郭――制服を着た何人かが、桜の下で笑っている、あの景色。網膜の裏に貼りついたままの、聞いたはずのない笑い声。それは、妄想じゃなかったのかもしれない、と、体の奥の冷えた場所が、静かに告げた。
「その古書に触れて、掌にしるしが浮いた人のことを、私たちは『覚醒者』って呼んでる。昔の書類の、どこかの端に、その呼び方だけが残ってた」
覚醒者、という言葉が、薄い空気の粒になって、教室の中をゆっくりと沈んでいった。私は、その言葉を、自分の掌の上の蕾と重ねてみようとして、でも、どうしても、自分のものとして飲み下すことができなかった。
灯里は、机の上の古書に、指先だけをそっと伸ばした。触れる直前で、指は止まった。爪の白い縁が、革の表紙の数ミリ上で、ほんの少しだけ震えていた。
「私がこれを触っても、何も起きない」
小さく、けれどはっきりと、彼女は言った。
「何年も、何冊も試した。どの頁に触れても、光らない。紋様も出ない。私は、扉の前に立っているだけの人間なの」
扉。私は、自分の掌の付け根に目を落とした。ほの青い蕾が、そこにあった。扉を開ける鍵が、今朝まで誰にも呼ばれなかった私の手の中に、落ちているということだった。
喉の奥が、ひりついた。ずっと「いない方が静かだ」と言われてきた手だった。誰かの名前の上から、自分の名前を重ねる勇気もなかった手だった。その同じ手の中に、百年前に消えた誰かへ続く扉の鍵が、ある。
「……私なんかで、いいんですか」
気づけば、声が出ていた。掠れていたし、みっともなく揺れていたけれど、それは、今日、私がこの学校で出した中で、いちばん自分の声に近い声だった。
灯里は、すぐには答えなかった。西日が一段と傾いて、彼女の睫毛の先に、小さな光の粒が一瞬だけ載った。彼女はその光を瞬きでそっと払ってから、ようやく、ほとんど囁くように言った。
「いいとか、悪いとかじゃないの。ただ――あなたが、選ばれたの」
選ばれた、という言葉を、私はどう受け止めていいか分からなかった。嬉しさとも、怖さとも違う、もっと古い感情が、胸の底で、ことん、と音を立てた。窓際の席でずっと冷えていた場所が、その音に合わせて、ひとつだけ、小さく灯った気がした。
灯里は立ち上がり、窓の外に目をやった。校庭の向こう、旧校舎の屋根の瓦が、夕陽を受けて鈍く光っていた。その下のどこかに、百年分の埃に覆われた「古の魔術」の入口があるのだと、彼女の横顔は言っていた。
「今日は、ここまで」
彼女は、振り返って、少しだけ笑った。今度は、泣きそうな笑い方ではなかった。けれど、その目の奥には、別の種類の覚悟が、静かに灯っていた。
「明日、屋上に来て。柊くん。続きの話は、空の下でする」
空き教室の掛け金が、かちゃり、と外された。私は机の上の古書をもう一度胸に抱え、その下で、まだ熱を残している掌を、ぎゅっと握りしめた。薄青い蕾は、皮膚の奥で、ひとつ、息をするようにまた瞬いた気がした。明日、屋上。その四文字が、今日初めて、私の予定表の中に、誰かによって書き込まれた言葉になった。
窓の外で、今日最後の花びらが、ひとひら、夕焼けに向かってのぼっていくように見えた。今度は、気のせいだと、打ち消す気にはもう、なれなかった。