第1話
第1話
四月の光は、まだ少し冷たい。
窓際のいちばん後ろ、机の木目に指先をすべらせながら、私は自分の呼吸の音だけを聞いていた。始業式の帰り、教室に戻ってきた同級生たちの声が、遠くの海鳴りみたいに教室の隅へ押し寄せてくる。誰かが笑い、誰かが椅子を引き、誰かが春休みの話を大声でしている。その輪のどこにも、私――柊夜(ひいらぎ・よる)の名前はない。
「いない方が静かだ」
遠縁の家のおばさんが、朝、玄関先で小さく呟いた言葉が、まだ耳の奥に残っている。責めているわけじゃないのは分かっていた。ただ、事実として、私はいない方が誰かにとって静かな存在らしい。そのことを確かめるみたいに、私は今朝も同じ窓際の席に腰を下ろした。机の表面はひやりと冷たく、指の腹に木の節のくぼみが引っかかる。誰かが去年のうちにボールペンで刻んだらしい小さな落書き――ハートの形が半分だけ――が、指先の下でかさついた感触を返してきた。その誰かはもうこの席にはいない。私も、いつかこの席からいなくなる。そう思うと、不思議と気持ちは静まった。いなくなることに慣れている、というのは、たぶん自分の数少ない特技だった。
袖の少し長い制服。上履きの内側には、薄く「タカハシ」と前の持ち主の名前が残っている。消そうとして消えなかったのか、消す気がなかったのか、それはもう分からない。私は、その名前の上から自分の名前を書く気にもなれないまま、つま先で床を軽く鳴らした。誰かの名前の上に、自分の名前を重ねるというのは、思っている以上に勇気のいることだ。重ねた瞬間、自分がその「誰か」の代わりに過ぎないと認めてしまう気がして、私はいつも、ペンを持つ手を止めてしまう。
黒板では、新しい担任がチョークでクラス名簿を書き写している。白い粉がぽろぽろ落ちる。その粉の粒ひとつひとつまでが、自分には関係ないもののように思えた。チョークの擦れる音、きゅっ、きゅっ、という短い摩擦音が、耳の奥を細く引っ掻いていく。前の席では、誰かがシャーペンの芯をかちかちと出している。隣の列では、女子が二人、昨日見たドラマの話を小声でしている。そのどれもが、私の知らない言葉でできた外国の会話みたいに聞こえた。
「柊くん、だっけ」
前の席の女子が振り返って、ちょっとだけ笑った。悪気はないのが分かる笑い方だった。だからこそ、何を答えていいか分からない。彼女の前髪の先が、窓から差す光を受けて、うっすらと茶色く透けている。睫毛の長さまで見えてしまうくらい近いのに、その距離は、私にはとても遠く感じられた。
「……うん」
声が喉で小さく割れた。彼女は「へえ」とだけ言って、すぐ友達の方へ向き直った。それでよかった。それでいいはずだった。私の心臓は、ほんの少しだけ鼓動を速めて、それからまた元の静けさに戻った。胸の奥で、何かが小さく萎んでいくのが分かった。期待していたわけじゃない。期待したつもりもなかった。それなのに、萎むものがあるということは、やっぱり、どこかで何かを待っていたのかもしれない。
春の匂いがする。桜はもう散り際で、校庭の枝先から花びらが風に剥がされては、校舎の壁に吸い寄せられるように舞っていた。クラスのどこかで「花見、行く?」という声が聞こえる。行くよ、とも、行かない、とも、私は答えない。誰も聞いていないから。窓ガラスの向こう、花びらの一枚が、ガラスにぺたりと貼りついて、それからまたふわりと剥がれて風に戻っていった。あの花びらにも行き先があるのだろうか。それとも、ただ風の都合で運ばれているだけなのだろうか。どちらにしても、私と似ている気がした。
机の中に、図書室のカードが一枚だけ入っている。それが、私がこの学校で唯一自分から手に入れたものだった。古い紙の匂い、背表紙の擦れ、誰かがずっと昔に引いた鉛筆の線。図書室にいるあいだだけ、私は「ここにいていい人間」になれる気がした。本の中の登場人物は、私を知らないかわりに、私を追い出しもしない。彼らは私の沈黙を責めないし、私が返事をしなくても怒らない。ページをめくる指先の、かさりという乾いた音だけが、世界で唯一、私に許された発言権みたいだった。
チャイムが鳴った。ホームルームの終わりを告げる音が、やけに遠い。
「じゃあ、掃除当番はえっと……」
担任が名簿をめくる。私は机の角を、指の腹でそっと撫でていた。名前を呼ばれるのは、だいたい、良くないことの前触れだ。経験上、そうだった。呼ばれるときは、忘れ物か、提出物か、あるいは、誰かに押しつけられた面倒ごとの引き取り手として。呼ばれない日は、それだけで少しだけ息がしやすい。
「柊、あと――誰でもいいや。柊、今日、旧校舎の資料室、頼むわ」
クラスがわずかに静まった。それから、すぐに戻った。旧校舎、という響きが、誰かの小さな溜め息と一緒に流れていく。「あそこ、埃すごいらしいよ」「柊って、あのへん住んでるんだっけ」そんな断片が、空気の中で泡みたいに浮かんで、消える。誰も悪意で言っているわけじゃない。ただ、私のことを、ちょうどよく遠くにある話題として扱っているだけだ。その「ちょうどよさ」が、私にはいちばん応えた。嫌われるよりも、忘れられるよりも、ちょうどよく遠いことのほうが、なぜか胸に薄い傷を残していく。
「……はい」
返事は、自分でも驚くほど素直に出た。断る理由もなかった。行く場所がひとつ増えるだけなら、それはむしろ、今日の私にとってはましな方かもしれなかった。少なくとも、この教室の、この席の、この空気の中に居続けるよりは。
昇降口を出ると、風が一気に強くなった。新しい上履きに履き替えないまま、古い方のまま廊下を渡る。踵の部分が少しだけ浮いて、歩くたびにぱたんぱたんと、間の抜けた音を立てた。その音が妙に恥ずかしくて、私は少しだけ歩幅を小さくした。誰も見ていないのに、見られているような気がしてしまう。たぶん、見られていないことに、私はまだ慣れきれていないのだ。
旧校舎は、本校舎と渡り廊下でつながっている。渡る途中で、私は一度だけ立ち止まり、空を見上げた。雲の形が崩れている。昨日までと同じはずの空が、少しだけ知らない空に見えた。胸の奥の、普段は触らない場所が、軽く疼いた気がした。気のせいだ、と思い直して、私はまた歩き出した。渡り廊下の手すりは、触れるとひやりと金属の冷たさが指を刺した。その冷たさだけが、今の自分がちゃんとここに存在していることの、頼りない証明みたいだった。
旧校舎の扉は、押すと、喉を鳴らすみたいに軋んだ。
廊下の奥、板張りの床はところどころ黒ずんでいて、踏むたびに小さく沈む。窓ガラスには埃の筋がついていて、外から差し込む西日を、斜めの縞模様にしていた。誰もいない。自分の足音だけが、壁に反射して、少し遅れて戻ってくる。その遅れた足音は、まるで自分ではない誰かが、少し後ろからついてきているみたいに聞こえた。振り返っても、当然、誰もいない。ただ、西日の中に埃の粒がゆっくりと降りているだけだった。
資料室は、いちばん奥の角部屋だった。プレートの文字は半分かすれている。ノブに手をかける直前、私は息をひとつ、飲み込んだ。なぜだか分からないけれど、ここから先に入ったら、今朝までの自分には戻れないような、そんな予感があった。喉の奥が、ほんの少しだけ乾いていた。心臓は、さっき教室で女子に話しかけられたときよりも、ずっと静かに、でも確かに、速くなっていた。
ばかばかしい、と思う。落ちこぼれが、誰にも期待されない十六歳の春に、何の転機が待っているというのか。窓際の席と同じ、埃と静けさがあるだけだ。物語の主人公にでもなったつもりか、と自分を笑おうとして、でも、うまく笑えなかった。
それでも、指先が少しだけ震えていた。
ノブを回す。軋みながら扉が開く。中に積まれた本の匂い――古い紙の、あの、懐かしくて少し苦い匂いが、ふっと私の鼻先を撫でた。図書室とよく似ていて、でも、どこか違う。空気そのものが、息をしているみたいに濃い。吸い込むと、肺の奥で、遠い昔の誰かの吐息と混じり合うような気がした。
一歩、踏み込む。上履きの底が、床に積もった細かい埃を押しつぶす音がした。ぱり、と、乾いた木の実を踏んだような音。私の体重を、この部屋がはじめて受け止めた、という音にも聞こえた。
棚の隙間、いちばん高いところに、背表紙が一冊だけ、他と違う角度で飛び出している本があった。革表紙の、古い古い本だった。私は、なぜだかその一冊から目を離せなかった。ほかの本たちが棚の中で静かに眠っているのに対して、その一冊だけが、まるで私を待っていたかのように、ほんの少しだけ身を乗り出していた。気のせいだ、と何度目かの打ち消しを、私はまた胸の中で呟いた。
手を伸ばせば、届く。
――届いてしまう。
窓の外で、散り残っていた桜の花びらが、ふっと風に攫われた。その白い影が、資料室の壁を一瞬だけ、逆向きに流れた気がした。