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辺境薬師の静かな報復

第2話 第2話

第2話

第2話

星がひとつ、またひとつと、藍色の空に縫い留められていく。

 エレノアは、しばらくの間、樫の木の方角から目を離せずにいた。風が雑草の穂をさらさらと鳴らし、枯れ枝のこすれる音が、遠くで細く響いていた。さっきまでそこに立っていたはずの人影は、もう影も形もない。気のせいだったのだろうか──けれど、肌に残ったあのかすかな気配は、幻にしては生々しすぎた。喉の奥で、知らず詰めていた息をゆっくりと吐き出す。白い息は、夕暮れの冷気にほどけて消えていった。

 足元の雑草が、夜風に押されて一斉にざわめく。エレノアは身をよじるようにして門柱から手を離し、自分の荷物へと目を落とした。旅の布包みが、門のそばにぽつんと置かれている。御者が最後に置いていったその小さな荷物だけが、彼女と王都をつないでいた細い糸のなごりだった。指先でその結び目に触れると、まだ自分の手の温もりが残っている気がした。

 屋敷の扉までは、ほんの数歩の距離のはずだった。けれど、腰まで伸びた雑草を掻き分けて進むのは、思ったよりも骨が折れる。長い裾が草の葉に引っかかり、絡みつくたびに、エレノアはそっと指でほどいた。乱暴に振り払えば、薄い布はすぐに裂けてしまう。これからしばらくは、この一着を大切に着ることになるのだろう──そう思うと、不思議と腹も立たなかった。かさついた葉の縁が、手の甲を細く撫でていく。青い匂いが、歩くたびに立ち上った。

 ようやく辿り着いた玄関扉は、蝶番が錆びついて、ひと押しではびくともしなかった。両手で体重を預けるようにして押すと、ぎい、と低い悲鳴のような音を上げて、扉はゆっくりと内側へ開いた。

 暗い廊下の奥から、埃と、古い木と、湿気の匂いが一度に押し寄せてくる。鼻の奥がつんと痺れて、舌の根にまで、かび臭さがまとわりついた。

 エレノアは、思わず袖口で口元を覆った。

 窓という窓には、色の褪せた厚いカーテンが垂れ下がり、夕日の最後の光を辛うじて室内に通していた。その頼りない光の帯の中を、細かな埃がゆっくりと舞っている。まるで、長い眠りから目を覚ました屋敷が、吐き出しそびれた息を今ようやく吐いているかのようだった。玄関広間の床には、どこから入り込んだのか、枯れ葉が吹き溜まり、隅にはねずみのものらしい糞が落ちていた。天井の隅には、灰色の蜘蛛の巣がいくつも重なり、まるで古びたレースのように垂れている。壁に掛かっていたはずの肖像画は、額縁ごと床に落ち、ガラスが蜘蛛の脚のように細かく割れていた。そのガラスの破片の向こうで、色褪せた婦人の微笑みが、半ば消えかけたまま、天井の暗がりをぼんやりと見上げていた。

 一歩踏み込むごとに、板張りの床がぎし、ぎし、と軋んだ。抜けてしまわないか不安になるほど頼りない音だった。足の裏に伝わってくるその震えは、まるで屋敷そのものが、久しぶりの人の重みに戸惑って身じろぎしているようでもあった。エレノアは片手で壁に触れながら、そろそろと廊下を進んだ。壁紙は一面に黒い染みが浮き、触れると、指先にぱらりと剥がれた紙片がついてくる。──本当に、誰も住んでいなかったのだ。この屋敷は、もう何年も、あるいは十年以上、人の息を吸わないまま、ただここに立ち続けていた。その静けさは、人のいない静けさというより、忘れ去られたものだけが帯びる、深い沈黙の色をしていた。

 廊下の突き当たりに、広い台所があった。煤けた石造りの竈、底の抜けかけた木の椅子、埃をかぶった長い作業台。作業台の端には、錆びた小刀が一本、刃先を木目に食い込ませたまま置き去りにされていた。最後にここに立っていた誰かが、ほんの少し席を外しただけのような、そんな中途半端な痕跡だった。窓の外には井戸の姿が見えた。エレノアは窓枠に手をつき、ひびの入ったガラス越しにその井戸を見つめた。石積みの縁は崩れかけ、木の蓋は半分腐り落ち、覗き込まなくても、釣瓶の縄が途中でぷつりと切れているのが見て取れた。水を汲むことさえ、簡単ではないだろう。喉がじわりと渇いてきた気がして、エレノアは唾を飲み込んだ。そうして飲み込んだ唾さえ、どこか埃の味がした。

 暖炉のある広間に戻ると、彼女はついに、荷物の布包みをそっと床に置いた。

 そしてそのまま、膝から崩れるように、冷たい板張りの上に腰を下ろした。

 膝を抱える。顎をその上に載せる。長い髪が肩から滑り落ちて、埃まみれの床にかかるのも構わなかった。窓の外では、夕日の橙がもう地平線の下へ落ちかけていて、広間の中はみるみる暗くなっていく。暖炉の奥には、黒々とした煤の塊がわだかまっているだけで、火を熾すための薪も、火口の道具も、どこにも見当たらなかった。

 ──なにから、始めたらいいのだろう。

 掃除。水。食事。灯り。寝床。そのどれひとつをとっても、エレノアは本当のところ、やり方を知らなかった。十六まで、彼女の世界では、水は銀の水差しに注がれて運ばれてくるものだった。火は、侍女がいつのまにか暖炉に熾していてくれるものだった。シーツは、朝起きれば皺ひとつなく整えられているものだった。自分の手でやったことといえば、裏庭でこっそり薬草を植えたことくらい。それすら、土を耕してくれたのは庭師だった。

 指先が、かたかたと震え始めた。寒さのせいか、それとも別の何かのせいか、自分でもわからなかった。涙は、出てこなかった。ただ、胸の底に、重たい石のようなものが沈んでいく。静かに暮らしたい、と願ったはずなのに、その「暮らす」ということが、こんなにも無数の小さな作業の積み重ねであることに、エレノアは生まれて初めて気づいたのだった。

 窓の外で、風が一段、強く吹いた。

 割れたガラスの隙間から、冷たい空気が細く流れ込んでくる。エレノアは身震いして、膝をさらに強く抱えた。せめて布包みの中から、着替えをもう一枚羽織ろう──そう思って顔を上げたとき。

 ──ことり。

 遠くで、何かが動いた気がした。

 最初は、古い屋敷が軋んだ音だと思った。けれど、それは違った。もっと、秩序のある音。人の気配に似た音。枯れ草を踏み分けて歩く、規則正しい足音。

 エレノアは息を詰めて、暗くなり始めた窓の外へと目を凝らした。心臓が、胸の内側を内から叩くように、大きく鳴り始めていた。その鼓動が耳の奥にまで響いて、自分が息をしているのかどうかさえ、一瞬わからなくなった。

 屋敷の裏手──さっき、樫の木の根元に人影を見たあの方角から、雑草をゆっくりと分けて、誰かがこちらへ近づいてきていた。夕闇の中で、その姿はまだ輪郭しかわからない。長い外套。ゆったりとした歩幅。右手に、何か細長いものを提げている──杖だろうか、あるいは、枯れた枝を束ねた松明のようなものか。相手は急がなかった。驚かせまいとしているのか、あるいは、単にそういう歩き方の人なのか。一歩、また一歩と、草を踏みしめる音だけが、少しずつこちらへ近づいてくる。その足音には、奇妙なほどのためらいがなく、それでいて乱暴さもなかった。ここへ来ることを、ずっと前から決めていた者の歩幅だった。

 逃げなければ、という思いが、遅れて胸を叩いた。けれど、体は動かなかった。膝は抱えたまま、指先はまだ小さく震えていた。広間の扉には鍵もかかっていない。そもそも、走って逃げるだけの場所も、力も、この屋敷には残されていないのだ。床板の冷たさが、薄い裾越しに太ももまで這い上がってきて、その冷たさだけが、かろうじて彼女を現実に繋ぎ止めていた。

 エレノアは、震える手で布包みを引き寄せた。中から、薬草図鑑の硬い背表紙を、無意識に握りしめる。武器になるものなど、それしかなかった。革の表紙はひやりと冷たく、角の擦り切れた感触が、なぜか王都の窓辺で過ごした午後の日差しを思い出させた。けれど、その古い本の重みが、不思議と彼女の背筋を、ほんの少しだけまっすぐにさせた。

 足音が、門の手前で止まった。

 ざわ、と雑草が揺れる。その気配の向こうで、誰かが、小さく息を吐いたのが聞こえた気がした。低く、落ち着いた、けれどどこか言葉に不慣れな息遣い。人と話すことから長く遠ざかっていた者が、ようやく声のかわりに息だけを差し出してきたような、そんな気配だった。

 エスノアは、図鑑を胸に抱えたまま、ゆっくりと顔を上げた。割れた窓ガラスの向こう、薄闇の中に立つその人影は、こちらを覗き込むでも、声をかけるでもなく、ただじっと、屋敷の扉の前に佇んでいた。肩にかかった長い前髪の奥で、一対の瞳だけが、ぼんやりと青白い光を帯びているように見えた。

 風が、ふたりの間を通り抜けていく。

 雑草の穂が、さらさらと音を立て、暮れかけた空の縁で、ひとつめに続いて、ふたつめの星が、静かに瞬き始めていた。

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