第3話
第3話
風が、ふたつめの星の瞬きをさらうように、雑草の海を撫でていった。
エレノアは、薬草図鑑を胸に抱えたまま、身動きを忘れていた。割れた窓ガラスの向こう、薄闇の中に立つ人影は、相変わらずこちらを覗き込むでも、声を張り上げるでもなく、ただ屋敷の扉の前に佇んでいる。その沈黙が、不思議と威圧ではなかった。人を脅かすために止まっている足音ではなかった。むしろ、驚かせまいとして、わざわざ遠くから歩幅を整えてきたような、そんな慎ましさが、夕闇の輪郭の奥に滲んでいた。
膝の上で、図鑑の角が指の腹に食い込む。エレノアは自分の呼吸が、思ったよりも早く、浅くなっていることにようやく気づいた。落ち着かなくては、と胸の中で呟く。この屋敷には、鍵も、誰かを呼ぶ鈴もない。けれどその人影もまた、扉に手を掛けようとはしていなかった。
やがて、風がひとつ、雑草の穂を倒すほど強く吹いた。
「……夜が、冷える」
低い声だった。枯れた葉を踏むような、乾いた、けれどどこか耳に馴染む響き。それだけを言って、人影はほんの半歩、門の内側へと足を踏み入れた。長い外套の裾が、雑草の波の上を静かに滑る。提げていた細長いものが、月の光にかすかに照らされて、杖の先のような形をしているのが見えた。
「……どなた、ですか」
自分の声が、思いのほか掠れていて、エレノアは小さく唇を噛んだ。王宮で、扇の陰から涼やかに返していた受け答えの声は、もうどこにも残っていなかった。ただ、埃と、かび臭さと、疲れに洗われた、剥き出しの声だけがあった。
相手は、それを咎める様子もなく、ゆっくりと首を下げた。会釈にも似た、けれど社交のそれとはまるで違う、素朴な仕草だった。
「森に住む者です。……水の匂いがしたので、来ました」
水の、匂い。その言葉の意味を、エレノアはすぐには掴めなかった。井戸のことだろうか。それとも、別の何かのことだろうか。問い返そうとして開いた唇は、けれど声を出す前に、また閉じた。聞いたところで、今の自分に、意味がわかるとは思えなかった。
その代わりに、エレノアは図鑑を胸から下ろし、床に置いた。両手が空になった、ただそれだけのことが、どういうわけか、自分に許される限りの、精一杯の挨拶のように思えた。
相手は、その仕草を見届けてから、ようやく扉をくぐった。
広間に踏み入った彼は、思っていたよりも背が高く、そして、思っていたよりもずっと若かった。長い前髪の奥にある瞳は、薄明かりの中で鈍く青みを帯び、痩せた頬の線には、長く人と話してこなかった者特有の、言葉の筋肉の強張りがあった。外套の肩には、森の葉が二、三枚、そのまま絡まっている。けれど、その佇まいには、この荒れ果てた屋敷の埃も、雑草の匂いも、ことごとく受け入れるような静けさがあった。
「……リュカ、と」
彼は、自分を指さすでもなく、ただ小さく名だけを告げた。姓は告げなかった。どこから来たのかも、なぜここを知っているのかも、言わなかった。エレノアは、自分の名を返すべきなのか、一瞬迷った。ヴァルフィールド公爵家の、という枕詞は、もうこの唇には重すぎた。
「……エレノア、です」
それだけを言った。彼は頷いた。公爵家の令嬢だと気づいたのか、気づかないふりをしたのか、それもわからないままだった。けれどその「気づかないふり」かもしれない沈黙が、エレノアには、この夜はじめての優しさに感じられた。
リュカは、広間を一度見渡し、それから廊下の方へ、何かに耳を澄ますように顔を向けた。
「台所の、奥に井戸が」
「……はい。けれど、縄が切れていて」
「見てもいいですか」
エレノアが頷くと、彼は音もなく廊下を進んでいった。エレノアは図鑑を抱え直し、少し迷ってから、その背中を追った。ひとりで広間に残るよりも、たとえ見知らぬ相手であっても、人の気配の後ろを歩く方が、ずっと心強かった。
台所の割れた窓の前で、リュカは立ち止まり、しばらく、目を閉じた。外套の下で、右手の指先がゆっくりと持ち上がり、見えない糸を手繰るように、空中をなぞる。指先の動きに合わせて、彼の唇が、何か短い言葉を紡いだ。聞き取れないほど小さな、けれど水面に石を落とすような、澄んだ響きの言葉だった。
次の瞬間、エレノアは息を呑んだ。
ひび割れた窓ガラスの向こう、崩れかけた井戸の底から、青白い光の筋が、一本、音もなく立ち上ったのだ。それは煙のように揺らぎ、細く上へと伸び、井戸の縁で一度広がって、やがて夜の空気に溶けるように消えていった。光の筋が消えたあとも、エレノアの目の奥には、その淡い青さが残像となって揺れていた。
「……水脈は、まだ生きています」
リュカは目を開け、ぽつりと言った。誇るでもなく、ただ事実を告げる声だった。
「少し深いところに下がっているだけです。縄を継げば、汲めます」
エレノアは、自分がどんな顔をしていたのか、わからなかった。ただ、胸の奥で、さっきまで石のように沈んでいた何かが、その青白い光に触れて、ほんの少しだけ軽くなった気がした。水がある。この屋敷に、まだ、生きている水がある。それだけのことが、今夜の彼女にとっては、ひとつの奇跡のように響いた。
リュカはさらに、作業台の端に刃先を食い込ませたままの、あの錆びた小刀へと目をやった。無言のまま、それをそっと引き抜き、両の手のひらで包む。先ほどよりも、もう少し長い言葉を、彼は静かに唱えた。
手のひらの隙間から、今度は、ごく淡い乳白の光が漏れた。ひと呼吸、ふた呼吸──やがて彼が手を開いたとき、そこにあったのは、赤錆の剥がれた、鈍い銀色の刃だった。新品ではない。けれど、ただの古い小刀に戻っていた。時の澱みだけが、そっと拭われていた。傍らに転がっていた小さな鍋も、次いで同じ光に包まれ、底にこびりついていた煤が、音もなくほどけて落ちた。
「……浄化、ですか」
かろうじて、そう尋ねた。リュカは小さく頷いた。
「汚れを、元の場所に戻すだけです。新しくはできません」
元の場所に、戻すだけ。その言葉は、なぜか、エレノアの胸の内側をやわらかく押した。新しくはできない。けれど、積もった澱みは、ほどくことができる。──それは、道具の話をしているのだと、頭ではわかっていた。わかっていたのに、彼女は、その言葉を自分のことのように聞いてしまった。十六から積み上げた完璧の殻も、ここへ来るまでに胸に降り積もった嘲笑の音も、もしかしたら、同じように、少しずつ、元の場所に返していけるのかもしれない。
リュカは、浄化した鍋を作業台に戻すと、外套の内側から小さな布袋を取り出した。中から、乾いた葉が数枚。青い、微かに苦みを含んだ、なつかしい匂いが広がった。ミントと、それからエレノアの知らない一種類。彼は、井戸から汲むまでもなく、外套の腰に提げていた革の水筒の中身を鍋に注ぎ、指先で小さな火の呪を灯した。台所の暗がりに、ぽつりと橙の火が生まれた。
湯気が立ち始めたころ、彼は欠けた陶器の椀に、その茶をそっと注いだ。
「冷えたでしょう」
差し出された椀は、ふちが一か所、小さく欠けていた。けれどその欠けた縁は、丁寧に磨かれて、指にあたっても痛くないように整えられていた。誰かがかつて、この屋敷で、欠けたままでも使えるようにと、石で擦って面取りをしたのだろう。エレノアは、両手でその椀を受け取った。
陶器を通して、熱が、じん、と手のひらに広がる。
指先の震えが、その熱に出会って、ゆっくりと止まっていくのがわかった。青い香りが鼻の奥を抜け、舌にのせるとほんのりとした甘みが、喉の奥へ滑り落ちていく。たったそれだけのことだった。たったそれだけのことで、エレノアの視界が、ふいに揺れた。
瞬きをした瞬間、あたたかいものが、頬を一筋、滑り落ちた。
王宮の石畳に置いてきたはずの涙だった。忘れ物のようにあそこに残してきたはずの、あの涙だった。気づけば、それは一筋では止まらず、あとからあとから、欠けた椀の縁に、小さな音を立てて落ちていく。エレノアは、声を上げなかった。嗚咽も漏らさなかった。ただ、両手で椀を包み、湯気の向こうで、静かに泣いた。
リュカは、何も言わなかった。慰めも、問いかけもしなかった。彼はただ、壁際の古い木の椅子に腰を下ろし、エレノアから少し離れた場所で、自分の手のひらを、じっと見つめていた。その距離の取り方が、どんな言葉よりも、彼女の肩の強張りをほどいていった。
やがて、涙がひととおり流れ終えたころ、エレノアは小さく息を吸った。
「……ありがとう、ございます」
かすれた声だった。けれど、王宮で練習してきたどの礼の言葉よりも、自分のものだと思える声だった。リュカは顔を上げ、ほんの少しだけ、頷いた。それから、窓の外の夜空を見て、呟くように言った。
「明日、縄を継ぐ道具を持ってきます。土も──少し、起こせる場所があるなら」
土、という言葉に、エレノアの胸が、小さく跳ねた。彼は、この屋敷の庭のことを言っているのだろうか。腰まで伸びた、あの雑草の海のことを。──それとも、もっと別の、彼女自身のなかのどこかのことを。
問い返す前に、リュカは椅子から立ち上がり、音もなく台所の扉の方へ歩み寄っていた。
「……また、夕暮れに」
それだけを残し、彼の背中は、夜の雑草の中へと溶けるように消えていった。後に残されたのは、浄化された鍋と、淡い湯気の立つ椀と、欠けた縁をそっと撫でる、エレノアの指先だけだった。
窓の外では、三つめの星が、いつのまにか瞬き始めていた。明日の朝、この手で、どんな土に触れることになるのだろう──そう思った瞬間、胸の奥で、ずいぶん長いあいだ忘れていた種類の、小さな、けれど確かな鼓動が、ひとつ、灯った。