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辺境薬師の静かな報復

第1話 第1話

第1話

第1話

馬車の窓を叩く風の音が、やけに遠くに聞こえた。

 エレノア・ヴァルフィールドは、硬い木の座席に背を預けて、流れていく景色をぼんやりと眺めていた。昨日までは、公爵家の紋章を刻んだ豪奢な馬車に揺られていた指先が、今は擦り切れた膝掛けの縁を所在なげに撫でている。毛羽立った繊維が指の腹に引っかかるたび、これが今の自分の身の丈なのだと、静かに思い知らされた。車輪がひとつ石を踏むたびに、体が小さく跳ねた。その振動すら、どこか他人事のようだった。

 半日前、王宮の大広間で、婚約者だったはずの王太子は、扇を広げるような軽さで彼女の名を呼んだ。──「エレノア、貴公との婚約はここに破棄する」。理由は、いくつも並べ立てられた。使用人への虐待、令嬢への暴言、密かな不貞。そのどれひとつとして、彼女には覚えがなかった。けれど反論しようと唇を開きかけたとき、広間のあちこちから上がった失笑が、言葉を喉の奥へ押し戻した。シャンデリアの光が、その嘲りの波の上で白く揺れていた。父の目は泳いでいた。母は扇の陰に顔を隠した。兄すら、視線を合わせようとしなかった。磨き上げられた大理石の床に、自分の影だけがぽつりと落ちていたことを、エレノアは妙にはっきりと覚えている。

 ──ああ、もういい。

 そう思ったのは、怒りからではなかった。悲しみからですらなかった。ただ、疲れていた。完璧な所作、完璧な刺繍、完璧な微笑み。十六の年からずっと、息を潜めて積み上げてきたものが、たった数分の宣告で砂のように崩れていく。その崩れる音を、エレノアは妙に澄んだ心持ちで聞いていた。崩れたあとに残るのは、不思議と、広々とした静けさだけだった。

 荒野は、どこまでも平らだった。

 街道の両脇には、伸び放題の枯れ草と、名も知らない低い灌木が続いている。時折、痩せた野兎が茂みの間を横切った。青い空の下に、雲が一筋、細くほどけて流れていく。王都を離れてから、もう三日。馬車を引く老いた馬の足音だけが、規則正しく耳に届いていた。蹄の音は、一定の拍子で地面を叩き、その単調さがかえって、張り詰めていた胸の奥をゆっくりとほどいていった。

 御者は、道中ほとんど口を利かなかった。哀れむでもなく、蔑むでもなく、ただ与えられた仕事をこなす顔で、彼は手綱を握り続けていた。エレノアはそれを、むしろありがたく感じていた。同情の言葉をかけられたら、きっと今度こそ涙がこぼれてしまう。涙はもう、王宮の石畳の上に置いてきたつもりだった。忘れ物のように、あの冷たい石畳の隙間に。

 膝の上には、小さな布包みがひとつ。実家から持たされた荷物は、それだけだった。中身は、母から譲られた古い銀の匙と、幼い頃に読んで擦り切れた薬草図鑑。それから、着替えが数枚。公爵令嬢に与えられた「最後の情け」としては、ずいぶんと寂しい額縁だった。けれどエレノアの指は、何度もその布包みの上をなぞっていた。薬草図鑑の硬い背表紙の感触が、布越しに伝わってくるたび、不思議と心が少しだけ鎮まった。それは、誰にも奪われなかった、小さな、けれど確かな自分の輪郭だった。包みの結び目は、出立の朝、誰の手も借りずに自分で結んだものだった。結び目はいびつで、けれど固く、ほどけそうで決してほどけなかった。その不器用な形が、今はなぜか頼もしかった。

 幼い頃、屋敷の裏庭で、こっそり薬草を植えたことがあった。カモミール、ミント、レモンバーム。家庭教師には「令嬢の手ですること」ではないと叱られたけれど、土の匂いと、葉を擦ったときに立ちのぼる青い香りが、エレノアは好きだった。指先に染みついた青臭さを、夜、寝台に入ってからもそっと嗅いでいた日のことを、今でも覚えている。あの頃の自分は、大人になってもこの香りの傍にいたいと、ぼんやり願っていた気がする。──いつから、それを忘れていただろう。いつから、手袋の内側でしか、自分の手を見なくなっていただろう。膝の上で、右手がそっと左手を握った。手袋はもうない。指先はかさついて、爪の縁には馬車の揺れのせいでついた小さな擦り傷があった。けれどその素手の感触は、絹越しに触れるどんなものよりも、自分という輪郭をはっきりと教えてくれた。

 馬車が、ゆっくりと速度を落とした。

「……お嬢様。着きました」

 御者の低い声に、エレノアは窓の外へ目をやった。  夕暮れの橙が、荒野の果てを染めていた。その橙の中に、一軒の屋敷がぽつりと立っている。石造りの、二階建て。かつては白かったであろう壁は、すっかり灰色に燻んで、つる草が窓枠まで這い上がっていた。屋根瓦は所々欠け、正面の門扉は片側が外れて、地面に斜めに沈んでいる。その向こうに広がるはずの庭は、腰の高さまで伸びた雑草に呑まれて、もはや庭と呼べるものかどうか、怪しかった。夕日を受けた草の穂先が、金色の針のように細く光っている。

 辺境──それは、地図の端にかろうじて名前が記された土地だった。公爵家が何代も前に手放しそびれた、採算の取れない小さな領地。そこへ、ヴァルフィールド家の「厄介」を押し込めるというのが、父の下した最後の処遇だった。口にするのも惜しいと言わんばかりの、短い命令書一枚で。

 エレノアは、ゆっくりと馬車を降りた。  踏みしめた地面は、乾いていて硬かった。旅の靴の底越しに、小石の感触がはっきりと伝わる。王宮の絨毯では、決して知ることのなかった感触だった。風が正面から吹いてきて、長かった髪を後ろへ流した。結い上げていた髪紐は、いつのまにか緩んでいた。草の匂いがした。土埃の匂いも、遠くで咲いているらしい花の匂いも。王都の香水とはまるで違う、飾り気のない匂いだった。鼻の奥が、ふいに熱くなる。胸の内側で、何かがひとつ、小さく音を立てて解けた気がした。泣くのではない。ただ、ずっと身を固くしていた場所に、風がようやく通った──そんな感じだった。

 御者が荷物を降ろし、深く頭を下げ、何も言わずに馬車を返していく。車輪の音が遠ざかり、やがて蹄の響きも風に紛れて消えた。

 あとに残されたのは、彼女ひとりと、荒れ果てた屋敷と、暮れかけた空。

 エレノアは、門柱にそっと手を添えた。冷えた石の感触が、手のひらを通してじんわりと広がっていく。長年、風と雨に晒されてきた石の肌は、ざらりとして、けれど不思議と優しかった。誰もいない。誰の目もない。微笑まなくていい。背筋を伸ばさなくていい。恥をかかせるなと囁く者も、ここにはいない。

「……静かね」

 自分の声が、風に溶けていくのを聞いた。  おかしなことに、胸の奥でほどけたのは安堵だった。社交界の灯りも、嘲笑う扇の音も、宣告する王太子の声も、ここまでは届かない。誰の顔も見ずに、静かに暮らしたい──馬車の中でずっと繰り返していた願いが、乾いた風の中でようやく輪郭を持った。肩で押さえつけていた重いものが、ひとつ、またひとつと、足元の土へ落ちていく気がした。

 足元に、小さな白い花が一輪だけ咲いているのに気がついた。名前は知らない。雑草の群れにひっそりと紛れて、夕日の光を細い花弁に受けていた。エレノアは身を屈めて、そっと指先でその花に触れた。花弁は驚くほど柔らかく、けれど茎はまっすぐ、しなやかに風を受け止めていた。温かい土の匂いが、指の腹に残る。乾いた土の下から、かすかな湿りと、生きているものの気配が伝わってきた。誰に褒められるでもなく、誰に見られるでもなく、それでもこの花はここで咲いていた。そのことが、胸のどこかを、静かに、けれど深く突いた。

 ──ここで、やり直せるだろうか。  そう考えて、すぐに首を振った。やり直すも、取り戻すも、もういらない。ただ、息をして、眠って、土に触れていられれば、それで十分だった。

 そのときだった。  ふと、背後の──屋敷の裏手に広がる森の方角から、視線のようなものを感じた。肌の、うぶ毛の一本一本が、わずかに逆立つような感覚だった。  顔を上げる。黒々とした木々の輪郭の中、一本の古い樫の根元に、誰かが立っているように見えた。長い外套の裾が、夕暮れの風に静かに揺れている。こちらを見ているのか、ただそこにいるだけなのか、距離が遠くて表情はわからない。ただ、その佇まいだけが、奇妙なほどこの荒れた土地に馴染んでいた。

 目が合った気がした、その一瞬──  梢の影が揺れ、人影は、音もなくひとつ後ろへ退いた。

 エレノアは、息を詰めたまま、しばらくその場所を見つめていた。風が一度、強く吹いて、雑草の波がさざめく。胸の奥で、さっきまでとは違う種類の鼓動が、小さく、けれど確かに鳴り始めていた。

 空の縁から、最初の星がひとつ、静かに瞬き始めていた。

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