第2話
第2話
紫苑は、答えられなかった。
声の主は男であった。低く、張りがあり、苛立ちを隠しもせぬ響き。だが、その苛立ちの奥に、奇妙な張りつめた熱がある。紫苑は身を起こそうとして、己の肩が思いのほか広いことに驚いた。麻の単衣ではない。肌に触れているのは、薄く、滑らかで、どこか冷たい布であった。黒い筒袖の上着。下は同じ色の細い袴のような――いや、袴ではない。脚の形にそのまま沿った、見たこともない仕立ての衣である。 指先が、床を探る。冷たい。だが石でも土でもなかった。艶やかに磨かれた、しかし木目のある板。紫苑の知る板間より、遥かに緻密に鉋をあてたような平らさであった。 「聞こえてんのか、おい」 声が近づいた。革底の沓が板を打つ音。紫苑はゆるゆると顔を上げた。 男は、背が高かった。恐ろしく高い。白い前掛けを腰に巻き、黒い上衣の袖を肘までまくり上げている。腕には、焼けた痕と、小さな切り傷がいくつも走っていた。ああ――と、紫苑の舌の奥が勝手に呟いた。これは料理人の腕だ。刃と火に灼かれた、紛れもない同業の腕だ。 男の眉は太く、眼光は鋭かった。黒い短髪は無造作に跳ね、耳の上で汗に濡れて光っている。年の頃は三十路前後か。頬骨の高い、精悍な顔立ちであったが、口元にはあからさまな不機嫌が刻まれていた。 「俺の厨で寝るな」 吐き捨てるように、男は言った。
厨。 その言葉に、紫苑の背がぴんと張った。反射であった。十七年、その一語に呼ばれて生きてきた身体が、まだ刃を落とされた事実を知らぬまま、先に立ち上がろうとした。膝が揺れた。視界が、ぐらりと歪んだ。 見れば、なるほど、そこは厨であった。 否――厨と呼ぶべきものか、紫苑には判じかねた。天井の白い灯は、昼を閉じ込めたように隈なく床を照らしている。灯明の油の匂いはせぬ。煤も見えぬ。その白さは冷たく、影を持たなかった。己の睫毛の影さえ、足元に落ちぬ。陽の光であれば必ずあるはずの、あのほんのりとした黄みも、朝夕の色の移ろいも、この光にはなかった。紫苑は息を詰め、一度まばたきをした。光は、瞬くことすらせずにそこにあった。左手の壁には、腰ほどの高さの銀色の箱が並び、その天板は鏡のごとく磨き抜かれていた。箱の正面には、黒い円盤が四つ、等間隔に並んでいる。円盤の縁から、青白い焔が音もなく立ち上り、その上で大ぶりの銅鍋が湯気を噴いていた。 焔が、揺れぬ。 紫苑は目を瞠った。薪の焔はあのように揺れぬはずがない。炭の焔ならば、もっと赤い。この焔は、誰かが手で撚り上げたように均されている。風が吹いても、乱れる気配すらない。音もまた、尋常ではなかった。薪のはぜる音も、炭のぱちりと弾ける音も、ふいごの喘ぎも、何ひとつ無い。ただ低く、蚊の羽音ほどの唸りが、床の下あたりから地を這うように伝わってくるばかりであった。 右手の壁には、もっと不可解なものがあった。人の背丈より高い、銀色の大きな扉。その脇には握り手があり、微かな唸りを立てている。冷気が、足元まで漂ってきていた。夏のはずの空気の中に、冬の井戸の底のような冷たさが、扉の隙間からひっそりと這い出している。あれは氷室か。だがなぜ音を立てる。氷室が唸るなど、聞いたことがない。 鼻腔の奥に、昨日嗅いだ鋼と出汁の匂いがまた満ちた。今度はもっと明瞭に。濃い魚の香りと、何か青く爽やかな葉の香り。酢の酸味。甘く焦げた醤の匂い。見知らぬ海の塩の匂い。紫苑の舌が、己の意志を離れてまた唾を呑んだ。 ――ここは、どこだ。 紫苑は己の掌を見下ろした。 息が、止まった。 己の手ではなかった。 指は長く、節が滑らかで、掌には包丁胼胝の痕もない。爪は短く切り揃えられ、妙に白い。その手首には、細い革の紐で結ばれた、見たこともない小さな丸い器具がはめられていた。文字盤の内に、細い棒が三本、黙々と動いている。 誰の、手だ。 紫苑の胸を、冷たいものが走り抜けた。恐れよりも、戸惑いよりも先に、強い違和が臓腑を掴んだ。首筋に触れる。刃の痕はなかった。あるのは、まだ柔らかい、若い男の喉仏であった。髪を掻き上げれば、後ろで短く刈り揃えられた、己の知らぬ手触り。
「おい。聞いてんのかっつってんだろうが」 男の声が、今度は真上から落ちた。 紫苑はゆるりと見上げた。眼差しが合った途端、男の眉根がわずかに寄った。苛立ちの奥に、ほんの一瞬、訝しげな色が差した。――此奴、眼つきが変わったな。そう言いたげな視線であった。 「……ここは」 紫苑の唇から漏れた声は、己の声ではなかった。もっと低く、若く、喉の奥が少し掠れている。その響きに紫苑自身が驚き、一度、口をつぐんだ。己の胸から出て、己の耳に届くまでのわずかな間に、声が誰かの器を通って来たような、薄い膜が一枚挟まった感じがあった。 「ここは、って」男は呆れたように息を吐いた。「西麻布、『灯火』の厨房だよ。昨日面接に来たのはお前じゃねえのか。それを朝の仕込みの最中に、土間でひっくり返ってやがる」 西麻布。灯火。仕込み。聞き覚えのある言葉が一つもない。されど、男の口調からして、こちらに非があるらしいことだけは分かった。紫苑は反射的に頭を下げようとし、膝に力が入らぬまま前のめりに崩れた。 とっさに、何かを掴んだ。
木の柄であった。 倒れ込んだ先、調理台の縁に立てかけられていた、長い柄の道具。紫苑の掌は、見るより先にそれを掴み、支えにした。 指先に、その形が伝わった瞬間――時が、凪いだ。
白い灯も、銀の箱も、唸る氷室も、男の苛立ちも、遠くへ退いた。耳の奥の血の音さえ、ふつりと止んだ。 柄の太さ。重みの偏り。先端の、わずかに湾曲した窪み。 ――杓子だ。 否、杓子と呼ぶにはやや大ぶりで、匙の凹みが浅い。出汁を掬うための、浅い木杓子。指の腹が、その縁に触れる。滑らかに削られた朴の木。何度も湯に潜らせ、出汁の色を吸った古びた木肌。柄の半ばには、幾年もの間、親指の腹に撫でられ続けて生じた、ごく浅いくぼみさえある。 紫苑の背筋を、知らぬはずの懐かしさが貫いた。 この感触を、身体は知っている。掌の、どの指の、どの関節が、どう柄を挟めばよいか、考える前に分かっている。親指の腹が自然と窪みに滑り、人差し指と中指の第二関節が柄の重心を挟み込んだ。手首が、軽く下がった。出汁の重みを受けるための角度に、己の手が勝手に据え直されていた。紫苑は声にならぬ呻きを漏らした。――この手は、私より先に料理を知っている。 鼻腔が、ひとりでに深く息を吸った。 銅鍋から立つ湯気の奥に、出汁の声が聞こえた気がした。鰹ではない。この厚み、この甘みは、鰹の荒節ではない。もっと深い燻しの、厚く削られた――名は知らぬ。だが舌は、すでにその味を知っているように疼いた。昆布の種も違う。磯の匂いがより濃く、黒く、旨みが尖っている。紫苑の知らぬ海の昆布であった。けれど、舌はそれを拒まなかった。むしろ、焦がれるように待っていた。 ――生きている。 その言葉が、胸の奥で静かに燈った。 首は、斬られなかったのではない。斬られて、なお、この手に杓子が在るのだ。母が「人を生かしなさい」と差し出したあの包丁の続きが、この見知らぬ若者の指先に、宿ってしまったのだ。
紫苑は、ゆっくりと立ち上がった。 膝はまだ頼りなかった。けれど、杓子を握った右手だけは、不思議なほど定まっていた。銅鍋の傍らに、半歩、踏み出す。男が眉を寄せたまま、それを見ている。 紫苑は、黙って湯気の上に杓子を翳した。すうと、浅く沈める。木の縁が湯を裂き、出汁がふわりと掬い上げられる。その重みの感触だけで、紫苑の目の奥が、熱くなった。湯気が頬を撫で、睫毛の際に細かい雫を結んだ。燻した魚の甘みと、煮詰まりかけた昆布の苦みが、ひと息の遅れで鼻腔の奥に届く。さらに湯気は睫毛の先に細やかな露を結び直し、頬の産毛の一本一本にまで微かな熱を伝え、耳の裏にもしっとりと纏わりついてくる。舌の付け根が、覚えのない懐かしさでずきりと疼いた。
「……おい」 男の声が、今度は少し低くなった。さきほどまでの苛立ちとは、わずかに色の違う声であった。 紫苑は男を見ず、杓子の中で揺れる琥珀色の液の面を見つめていた。そこに映る顔は、己の知らぬ若者の顔であった。けれど、そこに宿る眼差しだけは、紛れもなく紫苑のものだった。刑場の青空を、最後まで見上げていたあの眼差しであった。 「……この出汁」 紫苑の唇が、小さく動いた。声は、己のものとは別の若い響きを帯びていたが、言葉は、十七年砥がれた料理人のそれだった。 「昆布を、入れてから、長すぎまする」 男の眉が、ぴくりと上がった。 青白い焔が、音もなく揺れぬまま、銅鍋の底を舐め続けていた。