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転生料理人の一皿逆襲

第1話 第1話

第1話

第1話

炎は、天そのものを舐めていた。

 天正の夏、播磨の刑場に吹く風はぬるく、焦げた土の匂いを孕んでいた。白砂の上に引き据えられた紫苑の膝は、縄目に擦れてとうに感覚を失っている。麻の単衣は汗と泥に汚れ、結い上げられぬまま落ちた黒髪が、頬に張りついていた。汗は眉を伝い、睫毛の先で震え、やがて白砂に小さな染みをつくって消えた。その染みの数を、紫苑は意味もなく数えた。一、二、三――十を数えたところで、数えることすら億劫になった。  見上げれば、陽は中天。雲ひとつない空が、あまりに無慈悲に青い。蝉の声さえ、今日に限ってはどこか遠く、耳の奥で糸を引くように細い。 「宮廷料理人・紫苑。帝の膳に毒を盛りし罪により、これより首を刎ねる」  奉行の声は、どこか遠くで響く鐘のようだった。紫苑は眉ひとつ動かさなかった。動かせなかった、と言うべきかもしれぬ。弁明の席は与えられず、糾問もまた形ばかりであった。膳に黒い粉が仕込まれていたのを見つけたのは、ほかならぬ紫苑自身である。毒味役を兼ねる身として、帝の口に入る前にそれを払った。それだけのはずだった。鼻を寄せれば、杏仁にも似た、甘く粘つく死の匂い。指先で掬って舌にのせずとも、料理人の鼻は、それが膳に落ちてよいものか否かを即座に見分ける。十七年、刃と火と匙に鍛えられた鼻であった。  だが、翌朝には罪人として縄を打たれていた。縄は細く、食い込むたびに皮膚に赤い筋を残した。

 ──出自ゆえ、であろうな。  心のどこかで、もう分かっていた。父の名も知れぬ賤しき生まれ。包丁一本で宮廷に上がった者を、快く思わぬ者はいくらでもいた。腕だけでのし上がった十七年を、たった一椀の膳がひっくり返す。そういう世であった。袖を擦れ違えるたびに吐き捨てられた「賤の子が」という囁きも、厨の隅に置かれた塩の山を一人だけ少なく配られた朝も、紫苑はただ刃を研ぎ、鍋を磨くことで応えてきた。応えきれぬと知りながら、ほかに応え方を知らなかった。

 群衆の視線が、刺すように背を射る。幾百の眼。珍しいものを見る眼、蔑む眼、退屈そうな眼、そして、泣き出しそうに揺れる幼子の眼。その中に、一人だけ紫苑は探した。  ──右近。  同じ厨に立ち、同じ釜の飯を食い、同じ夜、月を見ながら粥を炊いた男。兄と慕い、いつか二人で小さな店を開こうと、包丁の柄を握り合って約束した男。あの夜、右近の掌は汗で湿り、声はわずかに震えていた。「紫苑。お前の出汁と、おれの握り飯があれば、都の隅でも客は来る」――そう言って笑った男。その右近が、奉行の背後に立っていた。  眼が合った。  紫苑は、笑おうとした。いや、笑えた気がした。幼い頃から、右近の前ではどんな苦しみもねじ伏せてきた。けれど右近の眼差しは、井戸の底の水のように冷えていた。何も映してはいなかった。憐れみさえ、そこにはなかった。ただ一度、右近の喉仏が、唾を呑むように小さく上下した。それだけが、かつて兄と呼んだ男に残された、人間らしい動きであった。 「……そうか」  紫苑の唇から、微かな声がこぼれた。それは問いではなく、答えであった。己を陥れたのは、この男か。――あるいは、この男の背後に立つ誰かか。今となっては、確かめる術もない。確かめたところで、もはや何も変わらぬ。  胸の奥に、石を呑んだような痛みがあった。熱くはない。ただ、重く、冷たく、沈んでいく。その冷たさは、かつて右近と二人、真冬の川で鯉を締めた朝の、指先の感覚に似ていた。あのとき右近は、かじかむ紫苑の手を己の懐に押し込み、「料理人の手を冷やすな」と笑った。その同じ懐が、今は奉行の背に従順に佇んでいる。人の心というものは、斯くも容易く温度を失うものか。紫苑は、心の奥で一度だけ、ゆっくりと息を吐いた。恨みではない。ただ、悼むように。かつて兄と呼んだ男を、今ここで、静かに葬るように。

 奉行がまた何かを読み上げていたが、もはや言葉は意味を結ばなかった。代わりに、紫苑の脳裏に蘇るものがあった。  母の手である。  骨ばって、爪の短い、干した魚の匂いの染みついた手。指の節々は太く、冬には必ずひび割れて、血が滲んでいた。その手が、一振りの包丁を差し出していた。刃渡りは子どもの腕ほど。柄には粗い麻糸が巻かれ、使い込まれて黒ずんでいた。 「紫苑。おまえはこれで、人を生かしなさい」  母はそう言った。咳の合間に、息を切らしながら。痩せた肩が上下するたび、薄い肩衣が骨の形を浮き上がらせた。その唇は乾き、端には白い粉が吹いていた。けれど眼だけは、奇妙なほど澄んでいた。貧しさにも病にも濁されぬ、底の見える泉のような眼であった。幼い紫苑は、その眼に見つめられると、なぜか泣きたくなった。刃の重みよりも、母の眼差しの重みのほうが、幼い掌にはずっと重かった。  ──生かす。  その言葉を、紫苑は胸に刻んで生きてきた。刃は人を斬るためではない。魚の腹を開き、菜を刻み、椀の底に湯気を立てるためにある。帝の舌を唸らせたあの日も、賤しき生まれと嘲られた夜も、紫苑が縋ったのは、ただその一つの教えだけだった。刃を研ぐ夜ごと、砥石の上を滑る鋼の音に母の咳を重ね、明日もまた誰かの腹を満たすのだと己に言い聞かせた。砥石に落ちる水の音、鋼が薄くなっていく手応え、指先に残る鉄錆の匂い――それらはみな、母の息遣いの続きのようなものだった。

 その包丁は、今はもう手許にない。没収され、証拠として番所に預けられたはずだ。代わりに紫苑の指先が覚えているのは、最後に握った柄の、冷たい重みだけだった。麻糸の撚りの、わずかなほつれ。親指の腹に馴染んだ、微かな窪み。それらはもう、記憶の中にしか在らぬ。  ふと、別の記憶が立ち上った。  昨夜、厨の隅で、誰にも出さずに仕立てた一椀の味噌汁である。炎の刑場へ引かれるとも知らず、紫苑は小さな土鍋に出汁を引いていた。鰹の薄削りが湯の面で一瞬だけ踊り、やがて静かに沈んでゆく。昆布の一片が、ゆるゆると端を巻き上げる。仕上げに自らの作った白味噌を溶き、青菜を散らした。湯気が、静かに天井の梁に昇っていくのを、紫苑はじっと見ていた。指先にはまだ、青菜の茎を折ったときの、あの瑞々しい手応えが残っていた。  誰のための椀であったか。  自分でも、よくは分からなかった。ただ、その椀を啜る誰かの顔を思い浮かべると、胸のどこかが温かくなった。右近の顔だったかもしれぬ。母の顔だったかもしれぬ。あるいは、まだ見ぬ、いつかの誰か。湯気の向こうに浮かぶ輪郭は曖昧で、けれど確かに、笑っていたように思えた。  その椀は、結局、誰の口にも届かなかった。

「執行」  奉行の声が落ちた。  紫苑は目を閉じなかった。青い空を見ていたかった。刃を振り上げる影が、視界の端でゆっくりと動くのが見えた。不思議と、恐ろしくはなかった。ただ、悔しさだけが喉の奥で灼けていた。舌の根が、まだ味わっていない無数の椀の味を、幻のようになぞっていた。  ──母上。この手では、まだ、誰も生かしきれませなんだ。  風が、一度だけ強く吹いた。刑場の砂が舞い、紫苑の頬をかすめた。その砂の匂いの奥に、ふと、あの味噌汁の湯気の香りがした気がした。鰹と、白味噌と、青菜の。届かなかったはずの、一椀の。  ──もし、生まれ変われるならば。  紫苑は、胸の内でだけ呟いた。  ──次こそは、この包丁で、誰かに、ひとさじの湯気を。

 銀色の光が、落ちた。  熱も、痛みも、一瞬の後にはもう遠かった。代わりに、視界の隅々から、白い光が染み出してきた。焦げた土の匂いが薄れ、群衆の喚きが水に沈むように遠ざかる。右近の冷えた眼差しも、奉行の声も、母の手の記憶さえ、柔らかな光の奥へと吸い込まれていった。

 ──はずだった。

 光の向こうに、見たこともない天井が浮かんでいた。  木目ではない。漆喰でもない。平らで、白く、冷えた異様な板が、格子の模様を描いて頭上に広がっている。その格子の一つが、眩しいほどの白光を放っていた。陽でも灯明でもない、奇妙に均された光であった。瞬きもせぬその光は、まるで囚われた昼のようで、紫苑は思わず目を細めた。鼻先をかすめるのは、焦げた土でも血でもなく、磨き上げられた鋼と、かすかな出汁の匂い。鰹ではない。煮干しでもない。もっと濃く、もっと甘やかな、知らぬ海の香り。舌の奥が、勝手に唾を呑んだ。料理人の身体が、首より先に反応していた。  紫苑の指先が、ぴくりと動いた。まだ、在る。まだ、この身に、指が在る。掌を握れば、爪が掌に食い込む感触さえある。首筋に手をやろうとして、腕が鉛のように重いことに気づいた。喉の奥で、乾いた音が鳴った。刃が落ちたはずのその場所に、確かに脈が打っている。信じがたい、と思うより先に、途方もない違和感が背筋を這い上がった。  遠くで、低く苛立たしげな男の声がした。 「……おい。なんでこんなとこで倒れてんだ、お前」

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