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転生料理人の一皿逆襲

第3話 第3話

第3話

第3話

男の眉は、今度こそはっきりと動いた。  紫苑は杓子を握ったまま、動かなかった。否、動けなかったと言うべきか。掌の中に宿った感覚が、あまりに確かで、あまりに懐かしく、一度その重みを受け止めてしまえば、もう前世の刑場にも、令和の困惑にも戻れぬと、身体の芯が知っていた。銅鍋の底を舐める青白い焔は、相変わらず揺れぬ。だがその均された熱の上で、昆布は確かに、限界の一歩先まで煮られていた。紫苑の鼻腔の奥、舌の付け根のあたりに、かすかな糊の気配が差し込んでくる。――このまま一呼吸置けば、出汁は濁る。 「……昆布を、入れてから、長すぎまする」  もう一度、紫苑は繰り返した。自分の知らぬ若者の声で、けれど紛れもなく己の言葉で。男は答えず、腕を組んだ。黒い前掛けの下、分厚い胸が一度だけ大きく上下した。その沈黙は叱責ではなく、どこか試す色を帯びていた。灯火の厨房には、唸る氷室の低音と、紫苑の浅く速い呼吸の音だけが残った。

 紫苑は、杓子を鍋の縁にそっと置いた。木と銅のぶつかる、ほんのかすかな音が、この静けさの中ではやけに鋭く響いた。指先が、もう一つ、近くにあった金属の挟みのような道具を探り当てた。用途は知らぬ。だが形は物語っていた。摘み、上げ、滴を切るためのもの。ならば、これでよい。鍋の中に潜らせ、厚い昆布の端を探る。湯の熱さは、手首にじわりと伝わってきたが、怯まなかった。鯉の腹を真冬の川水で開いた朝の、あの指の凍える冷たさに比べれば、熱は優しい。むしろ、労りに似ていた。  昆布を引き上げた瞬間、湯気の色が変わった。重く垂れ込めていた甘さが、すうと澄んでいく。引き上げた黒い葉の縁から、滴がぽたり、ぽたりと鍋へ戻り、その一滴ごとに、澱みがひとつずつ剥がれ落ちていくように紫苑には見えた。紫苑は息を吐いた。目の奥に、刑場で最後に見た青空が、一瞬だけよぎった。あの空の青も、こうして澄んでいた。 「お前――」  男が一歩、踏み込んできた。革底の沓が板を叩く音が、妙に近い。紫苑は顔を上げなかった。代わりに、銀色の箱の上に置かれた白い壺から、細かい粒の塩を指先でひとつまみ、湯の面にそっと散らした。塩は落ちて、消えた。音もなく。それだけで、出汁の骨が立ち上がるのが、鼻で分かった。  男が、ふいに黙った。  紫苑は、初めて傍らの銅鍋から目を離し、男の顔を見た。精悍な頬が、湯気にうっすらと濡れている。太い眉の下、黒い眼が、先ほどまでの苛立ちとはまるで別の色をしていた。紫苑は、右手で杓子を掬い、浅く湯を取った。琥珀の液が、木の窪みの中で静かに揺れる。窪みの底に、天井の白い灯がひとつ、小さく映り込んでいた。それを、男に差し出した。 「――お検め、くだされ」  言葉は、喉を出る途中で古びた。令和の若者の声帯が、天正の厨の礼を持ち上げるのは、いくぶん不器用であった。けれど、差し出す手の角度だけは、迷いがなかった。

 男は、しばし杓子を見つめていた。やがて、無言のまま、紫苑の手から杓子を取り上げる。その指は太く、節が目立ち、爪の根元に薄い焦げの痕があった。長く火に寄り添ってきた者の指だ、と紫苑は一目で知れた。男は杓子を鼻先に寄せ、ひと呼吸、深く吸った。太い眉が、ぴくりと持ち上がる。それから、ためらわずに口に含んだ。  喉仏が、一度だけ動いた。  紫苑は、息を詰めてそれを見ていた。見知らぬ器の中で、己の心臓だけがやけに速く打っている。男の咀嚼は、料理人のそれであった。舌の上で湯を転がし、頬の内で味の輪郭を確かめ、喉に落とすまでの間合いが、十七年砥がれた紫苑の作法と、驚くほどよく似ていた。ああ、と紫苑は密かに思った。刃と火で灼かれた腕は、やはり言葉より先に分かり合う。時代も、名も、装束も、この一口の前にはいっとき剥がれ落ちる。  男は、杓子をゆっくりと下ろした。  長い沈黙があった。氷室の唸りが、その沈黙の底をそっと撫でていく。白い灯は瞬かず、青白い焔は揺れず、ただ紫苑と男の間にだけ、湯気が細く立ちのぼっていた。やがて男は、掠れた声で、ひとつだけ呟いた。 「……なんだ、この出汁」  問いの形をして、問いではなかった。驚きでもなく、怒りでもなかった。それは、長く旅をして帰ってきた者が、故郷の井戸水を一口含んだときに漏らす、あの類いの声であった。紫苑の胸の奥が、その声に、ほんのわずか、軋んだ。 「昆布を、引き上げただけにござりまする」  紫苑は、静かに答えた。胼胝のない若い指先を、そっと握り込む。知らぬ掌の、知らぬ柔らかさが、今はただ心許なかった。 「焔が……その焔が、あまりに律儀ゆえ。薪の焔ならば、己で頃合いを教えまするが、この焔は、人に頃合いを委ねておりまする。ゆえに――」  言葉は、途中で途切れた。続きを、この時代の言葉で、どう繋げばよいか分からなかった。けれど、男は続きを待たなかった。男は杓子を調理台に戻し、腰の前掛けに手を伸ばし、その結び目をほどきかけた手を、途中で止めた。

 代わりに、男は振り返った。厨房の奥、銀色の棚の一段から、畳まれた白いものを掴み取る。雪のように漂白された、硬い麻に似た布地。襟の立った、前合わせの上衣であった。男はそれを乱暴に丸め、紫苑の胸に向かって、下から放った。  柔らかな白が、宙を飛んだ。  紫苑は反射でそれを受け止めた。両の掌に、清潔な布の重みが落ちる。かすかに糊の匂いがした。紫苑は、受け止めたまま、動けなかった。 「九条悠真だ」男は、吐き捨てるように名乗った。「灯火の店主。ここの焔も、氷室も、包丁も、全部おれの持ち物だ」  言葉を切り、男は――悠真は、紫苑の顔を真っ直ぐに見据えた。眼光は先ほどまでの苛立ちを残しながらも、その奥に、焔より熱いものが点っていた。 「お前、うちで働け」  紫苑は、息を呑んだ。 「面接がどうとか、履歴書がどうとか、もう知らん。さっきの一口で決めた。あの出汁を引ける手を、土間に転がしておけるか」  胸の白衣が、ひどく重かった。布そのものは羽のように軽いはずなのに、掌の下で、鉛のように沈んでいた。紫苑の目の奥に、じわりと熱いものがせり上がる。――理不尽な、と咄嗟に思った。あまりに理不尽な、優しさだと。昨日まで、いや、ついさきほどまで、紫苑は処刑されるはずの罪人であった。弁明も許されず、縄を打たれ、群衆に晒され、兄と慕った男の冷えた眼差しに見送られて、首を落とされるはずだった。それが今、見知らぬ時代の、見知らぬ厨で、見知らぬ男から、一杓の出汁だけで白衣を差し出されている。  焼け焦げたはずの記憶の底が、ずきりと疼いた。右近の、あの井戸底の眼。奉行の背に従順に佇んでいた、かつて兄と呼んだ男の背。あれとこれは、同じ人の世のものか。同じ、料理人という生き物の為すことか。問うても詮なきことと知りながら、紫苑の胸の内は、その問いを手放せずにいた。  紫苑は、白衣を胸に抱いたまま、ゆっくりと頭を下げた。前髪が、知らぬ若者のそれが、額にはらりと落ちかかる。涙は零さなかった。零せば、この若い器の持ち主に申し訳が立たぬ気がした。代わりに、胸の奥で、もう一度母の声を聞いた。――人を、生かしなさい。 「……かたじけのう、存じまする」  掠れた声が、令和の厨に落ちた。悠真が、怪訝そうに眉を寄せる。その古い言葉の響きに、何か引っかかるものを感じたらしい。けれど悠真は問わなかった。ただ、短く鼻を鳴らし、銅鍋の方に向き直って、青白い焔のつまみを、乱暴にひとつ、絞った。焔が、ふうと低くなる。

 紫苑は白衣を胸に抱いたまま、厨房の隅に立ち尽くしていた。頭上の白い灯は瞬かず、右手の氷室は相変わらず低く唸り、左手の銅鍋からは澄んだ出汁の湯気が、まっすぐ天井へと昇っていく。その湯気の筋を目で追いかけながら、紫苑はふと、胸の奥に冷たい違和を覚えた。――この温かさを、受け取ってよいのか。兄と慕った男に斬られた身が、見知らぬ男の差し出す白衣に、こうもやすやすと袖を通してよいのか。  掌の中の布は、昨日までの麻の単衣とは比べものにならぬほど、滑らかで、清潔で、冷たかった。そして悠真の声は、理不尽なほど真っ直ぐだった。真っ直ぐなものほど、紫苑はもう、信じ方を忘れていた。信じれば、また裏の刃が来る。そう身体の奥で囁く声を、紫苑は静かに押し戻した。  そのとき、厨房の奥の扉の向こうから、小走りの足音が近づいてきた。若い女の声が、明るく、遠慮のない調子で呼ばわっている。 「悠真さーん、今日の常連さん、もう表で待ってますよぉ。例の御方、また一番乗り」  悠真の眉が、ちらりと曇った。紫苑は、胸に抱いた白衣をそっと握り直した。例の御方――その響きが、なぜか背筋を、ごく浅く、撫でていった。

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