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追放錬金術師の観察録

第2話 第2話

第2話

第2話

鍵の音が、止まった時間を砕いた。

 レオは動かない。段の途中で片膝を折り、重心を落とす。試薬瓶を握った指は汗ばんでいた。少女の瞳は、こちらを値踏みしない。ただ待っている。待たれていることの方が、刃を突きつけられるより厄介だった。

 観察者の目が、瞬時に回る。銀髪、痩せた肩、裸足。足の裏は黒く汚れているのに、踵だけが妙に白い。毎日この石段を昇り降りしている者の足だ。鍵を握る右手の甲に、細い線。術式の痕か。距離、七段。試薬二本。背後の路地には、まだ三人の追っ手が散っている。

 早すぎる。

 レオは奥歯を噛んだ。ここで扉を開ければ、追っ手ごと中に引き込む。少女が何を守っているにせよ、巻き込むのは観察が足りない。情報がない状態で、禁呪の匂う扉を開ける莫迦はいない。

「──すまない」

 低く、短く。少女の足元に、残った試薬の一本をそっと置いた。封を切らないまま。

「一刻、待ってくれ。必ず戻る」

 少女は答えない。ただ鍵を握り直し、ちりん、と小さく鳴らした。それが返事だった。

 レオは踵を返し、階段を駆け上がる。雨。また雨。崩れた礼拝堂を背に、路地の影へ身を沈めた。追っ手の足音は三つ、散開している。若い男は西。訓練されたのは東の大通り側。煙幕を張り直す余裕はない。観察で躱す。

 屋根の庇、積まれた樽、鎧戸の隙間。レオは壁沿いに滑り、最初に目をつけていた宿屋の裏口まで回り込んだ。

 扉は、閉まっていなかった。

 閂はかかっている。だが、蝶番の上に泥が薄く付いている。誰かが、ごく最近、裏から出入りした痕だ。レオは指先で蝶番を押した。油が差されている。この街の鎧戸が軒並み軋むのに、この裏口だけが音を立てない。

 ──使われている。

 身を滑り込ませると、厨房の匂いがした。冷えた油、古い麦、そして、かすかな血の鉄臭。床板の一枚が、他より色が濃い。拭いた跡。急いで、不完全に。板の継ぎ目に、拭き残した暗褐色が一本、繊維のように走っていた。鼻の奥で、鉄の味がうっすらと膨らむ。レオは唾を飲み、舌の上のそれを数えるように奥歯で噛んだ。血は新しくない。だが、古くもない。昨日か、一昨日。誰かがここで膝を突き、誰かがそれを急いで拭いた。拭いた者の指は、きっと震えていた。まっすぐ拭けば継ぎ目に溜まらない。

 宿屋の主は、カウンターの奥に座っていた。六十近い男。髭は整っているが、目の下の皮膚が垂れ、瞳は濁っている。レオを見ても驚かない。諦めの顔だ。諦めた人間の目は、観察者にとって最も読みやすい。怒りも恐怖も、もう表面まで上がってこない。底に沈んだまま、ただ濁って揺れている。

「……部屋か」

「情報を買いたい」

 レオは銀貨を一枚、カウンターに置いた。木の天板に、硬い音が落ちる。主の目がそれを追う。だが指は動かない。指の節が、銀貨の手前で止まったまま、わずかに白くなっている。欲しくない、のではない。触れれば何かが始まる、と知っている指だった。

「半年前、この街で何が起きた」

 沈黙。木の軋む音だけが、宿の中に落ちる。天井のどこかで、雨漏りが一滴、別の器に落ちた。ぽつ、と間延びした音。その間隔を、レオは無意識に数えていた。

「俺は追われている」レオは静かに続けた。「同じ連中に、あんたたちも追われている。違うか」

 主の喉仏が、一度だけ上下した。

「……旅人さん。あんた、さっき路地で煙を焚いたな」

「ああ」

「あの煙で、若いのが一人、腰を抜かしてる。あれはうちの甥だ。一月前まで、鍬を握ってた」

 レオは黙った。主は銀貨に指を伸ばさないまま、カウンターの下から古い帳簿を引き出した。革の表紙は手垢で黒ずみ、角が丸い。羊皮紙の頁を、震える指でめくる。めくるたびに、乾いた紙の匂いと、かすかな黴の気配が立ち上った。

「見なさい。去年まで、この宿は月に三十人の旅人を泊めた。行商、巡礼、薬売り。──今年は、ゼロだ」

 頁の下半分が、真っ白だった。白いというより、書かれるはずだった罫線だけが、主人を失って延々と続いている。

「去年の秋口からな、街道の物流が変わった。塩と鉄の搬入が止まって、代わりに妙な荷が夜中に運び込まれるようになった。箱だ。鉛で内張りされた、冷たい箱。中身は誰も知らん。知ろうとした者は、みんな消えた」

 レオの指が、帳簿の端を押さえた。

「消えた、というのは」

「文字通りだ。畑にいた男が、翌朝いなくなる。井戸に水を汲みに出た娘が、桶だけ残して消える。抵抗の跡もない。血の一滴もない。ただ、いなくなる」

 失踪。しかも、痕跡を残さない手口。錬成獣の仕業なら血が残る。人の手でも、争えば必ず何か落ちる。何も残らない失踪は、被害者自身が歩いて消えた場合か──あるいは、意識のないまま運ばれた場合だ。前者なら術。後者なら麻酔に類する触媒。どちらにせよ、素人の仕事ではない。

「半年前から、毎月三人か四人。最初は村の外れの者ばかりだった。それが、だんだん中心に寄ってきてる」主は声を落とした。声というより、息に近い。「うちの女房は、先月消えた。洗濯物を取り込みに、裏庭に出て、それきりだ」

 軒先の、腐った子供のシャツ。取り込まれなかった洗濯物。レオの視界の端で、あの麻布が揺れた気がした。視界の端だけで揺れ、中心を向けると止まる。記憶の中でだけ揺れる布は、生きている者の気配より重い。

「礼拝堂は」

 主の肩が、跳ねた。帳簿の上で、指が一度、強く丸まった。

「あそこには近づくな、旅人さん」

「誰かが、出入りしている」

「知っとる」主の声が、ようやく小さな怒りを帯びた。諦めの底に沈んでいたものが、ほんの一瞬だけ泡になって上がってきた。「知っとるから、誰も近づかんのだ。あそこに下りていく足音を、夜中に聞いた者が何人もいる。女の足音、子供の足音、時々、馬より重い何かの足音。朝になると、路地に白い粉が落ちている。舐めた犬が、三日で骨になった」

 銀泥。触媒の残滓。レオのこめかみが、冷たくなった。雨に濡れた襟の内側を、別の冷たさが一筋、背骨へ伝い落ちていく。

 少女は、あの地下で、何かの触媒と共に生かされている。捕らえられているのか、使われているのか、それとも──守っているのか。観察が足りない。だが、迷う時間ももう足りない。石段で見た、あの待つ瞳が、瞼の裏でまだ待っていた。

 主はカウンターの下から、油紙に包まれた何かを押し出した。硬い、小さなもの。油紙の角が、主の指の汗で、すでに半ば透けていた。

「女房の形見だ。鍵屋をやってた祖父さんの遺品でな。錠前師なら、見りゃ分かる印が裏に彫ってある。……礼拝堂の地下扉、あれを開けた奴がいる。半年前にな。開けた奴が、何を持ってたか、俺は見てない。だが、この印と同じ形だった、という噂だけは聞いた」

 レオは油紙を開いた。古びた鍵の頭。金属は手の熱をすぐには受け取らず、指先から逆に体温を吸った。そこに刻まれていたのは、六芒の変形紋──古代錬金術の封印印、一層目の印章だった。

 少女の指に握られていた、あの錆びた鍵と同じ紋様。

 レオは息を詰めた。偶然ではない。少女は、この街の誰かに渡されて、あの地下に居る。あるいは、この街の誰かが、少女に渡された。どちらでも構わない。線は繋がった。繋がった線の両端で、人が消え、子供が待っている。

 銀貨をもう一枚、カウンターに重ねる。金属同士がぶつかる音に、主の瞼がわずかに痙攣した。

「礼拝堂へ戻る。追っ手の若いのが立ち直る前に」

「……旅人さん」主は初めて、レオの目を真っ直ぐに見た。濁った瞳の底に、ほんの一点だけ、まだ磨り減っていない光があった。「女房を、見つけたら。生きてなくていい。ただ、そこにいた、とだけ、俺に教えてくれ」

 レオは頷いた。言葉は返さない。返せるだけの根拠が、まだ何もなかった。安易な約束は、この男がこれまで何度も裏切られてきた形そのものだと、目を見れば分かった。

 裏口を出ると、雨脚が強まっていた。雨粒が外套の肩で跳ね、首筋へ細い針のように刺さる。

 路地を北へ。礼拝堂の方角へ。走りながら、レオは耳を澄ます。自分の靴音。水溜まりを蹴る音。その奥に、別の足音が混じっていた。小さく、軽い。裸足の足音。少女のものだ。

 少女は地下から出てきている。あの扉の前で待たず、石段を昇り、こちらへ向かっている。待っていろと言ったのに、待っていない。待てない理由が、あの地下にある。

 二つの足音が、路地の一点で重なろうとしていた。角を曲がれば、出会う。レオは速度を落とした。試薬を握り直す。ガラスの腹が、掌の汗で一瞬滑りかけ、指先で握り直す。息を整える。雨の匂いの奥に、硫黄が混じり始めていた。

 崩れた鐘楼の影。その向こうから、銀色の髪が雨に濡れて光った。少女は立ち止まり、錆びた鍵を両手で胸の前に掲げていた。まるで、差し出すために。小さな両手は、鍵の重さに負けそうで、それでも微動だにしない。

「……開けて」

 初めて聞く、少女の声だった。低く、掠れて、それでも澄んでいた。長く喋らずにきた喉の、最初のひと掬い。

「みんな、まだ中にいる」

 鍵の奥、礼拝堂の地下から、硫黄の匂いが夜風に乗って流れてきた。

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