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追放錬金術師の観察録

第3話 第3話

第3話

第3話

硫黄の匂いが、雨の膜を裂いて鼻腔に届いた。

 レオは足を止めない。止めれば、この匂いに足首を絡め取られる気がした。崩れた鐘楼の影から歩み出て、少女の前、三歩のところで膝を折る。外套の裾から雨水が流れ落ち、石畳に小さな川を作った。少女は微動だにしない。銀の髪が頬に貼りつき、睫毛の先から雫が滴っているのに、瞬きひとつしなかった。

 鍵。

 錆びている。だが、錆の浮き方が妙だ。鉄の錆ではない。赤茶ではなく、緑がかった黒。銀泥に長時間触れた金属だけが帯びる変色だ。触媒の気配を吸って眠っていた鍵。

「……開けて。みんな、まだ中にいる」

 少女の声は、さっきと同じ高さで繰り返された。暗誦ではない。祈りでもない。事実の報告だ。

「名前は」レオは短く訊いた。

 少女は首を横に振った。知らないのか、言えないのか、名乗る気がないのか。三つのうちどれでも構わなかった。今は情報を削る時ではなく、積む時だ。

「中に、何人いる」

「……数えきれない」

 指が、鍵の輪に強く食い込んだ。白くなった関節の皮膚の下で、細い血管が浮いている。子供の手だ。だが、子供の握り方ではない。道具を、一度も手放さずに覚えた握り方だ。掌の真ん中に、鍵の輪の形がそのまま赤く刻まれている。何時間、何日、何ヶ月、この子はこの鍵を握り続けたのか。レオは、問いを喉の奥で噛み殺した。

 レオは立ち上がり、少女の肩越しに礼拝堂の扉を見た。外れた扉の向こう、祭壇の裏へ続く闇。先刻、三段下りて引き返した石段。そこから流れてくる硫黄の風は、雨に冷やされてもなお、かすかに温い。地下に、熱源がある。

 観察者の目が、積み上がった情報を並べ替える。鉛張りの箱。夜中の搬入。素人には残せない失踪の痕跡。銀泥の錆。六芒の封印印。そして、毎日石段を昇り降りする裸足の少女。

 点は、もう十分に揃っていた。線は、この鍵で引かれる。

「……先に行け」

 レオは少女の頭に、ほんの一瞬だけ掌を乗せた。髪は氷のように冷たかった。雨に濡れたからではない。もっと奥の、骨の芯から冷えた冷たさだった。地下に慣れた体温。陽の当たらない場所で育った者の、肌の温度。掌を離したあとも、その冷たさは指の腹に残り続け、まるで小さな烙印のように、レオの皮膚の内側でゆっくりと熱に変わっていった。これは忘れられない冷たさだ、と、観察者の端の方で誰かが記録していた。

 少女は頷き、踵を返した。裸足が石畳を打つ音は、驚くほど軽い。

 レオは鍵を受け取らなかった。まだ。

 受け取るのは、扉の前でいい。

 礼拝堂の内部は、外から見るより広かった。崩れた天井の穴から雨が筋になって落ち、祭壇の石を濡らしている。聖人像は首が落ち、胸の聖印だけが雨に磨かれて、鈍く光っていた。少女は迷いなく祭壇の裏へ回り、崩れた石材の隙間に身を沈める。レオはその背を追い、石段の縁に立った。

 三段、四段、五段。

 先刻とは匂いが違う。硫黄の奥に、もう一層、甘い腐臭が混じっていた。腐肉ではない。培養液の、糖分が熱で崩れた匂い。レオはかつて実験室で、この匂いを同僚に嗅がされたことがある。「生かすための液だ」と笑われた。生かす、と、生かし続ける、は違う。あの液は後者の匂いだった。舌の奥にまで張りつく、粘ついた甘さ。嗅いだ者は、しばらく食事の味が分からなくなる。半年前、レオが実験棟を出ていった日、外套の襟にまで染みついていたのと、同じ匂い。

 十二段を下りきると、石畳の踊り場があった。正面に、鉄の扉。高さは成人男性の倍。扉の面に、六芒の変形紋が浮き彫りになっている。宿の主が渡した鍵頭と、少女の手の中の鍵と、そして扉の紋章。三つが、同じ形で揃った。

 扉の前で、少女は振り返った。鍵を、両手で差し出す。

 レオは動けなかった。

 膝が震えたわけではない。指が鈍ったわけでもない。ただ、観察者として積み上げてきた距離が、この一本の鍵の前で、音もなく崩れていくのが分かった。これを受け取れば、もう傍観者ではない。中にいる者の生死に、この手が責任を持つ。失踪した女たち、腐ったシャツの子供、カウンターで濁った目をした老人、その全員の線の束が、この錆びた柄に結ばれている。差し出された鍵は、少女の掌の上でごく微かに揺れていた。手が震えているのではない。少女の呼吸が、鍵という一点に集約されて、形を持って揺らいでいるのだ。その揺らぎの一往復ごとに、レオの中の「まだ間に合う」という距離が、一歩ずつ短くなっていった。

 観察者でいる、というのは、手を汚さないということではなかった。手を汚す前に、その汚れがどこへ広がるかを、最後まで見届けるということだ。半年前、実験棟の廊下でそう自分に言い聞かせた。あの時、背けた目の先に、いま、この鍵がある。

 雨の音はここまで届かない。代わりに、扉の向こうから、かすかに音が漏れていた。

 水音。

 規則正しい、滴りの音ではない。液体がゆっくりと攪拌されている音だ。培養槽。間違いない。禁書で何度も読んだ、あの機構の動作音。

 その奥に、もう一つ。

 呼吸。

 一つではない。複数。間隔がずれ、浅く、長く、規則的に刻まれている。眠っている者の呼吸。薬で眠らされ、生かされている者たちの呼吸。

 レオは目を閉じた。閉じた瞼の裏に、半年前の自分の署名が浮かんだ──ような、気がした。幻覚だ。まだ何も見ていない。だが、観察者の直感は、もう扉の向こうに自分の痕跡を嗅ぎ取っていた。インクの乾き方まで思い出せる署名。あの時、万年筆の先は少しだけ紙を引っ掻いた。その引っ掻き傷が、いま、扉の向こうで、人の呼吸の数だけ増えている。

「……受け取る」

 レオは右手を伸ばし、少女の手から鍵を取った。金属は、少女の掌の熱をわずかに残していて、そのことに、妙に胸を突かれた。冷たいはずの鍵が、この子の体温でここまで温まるほど、ずっと握られていたのだ。指先に伝わった温みは、やがて鍵の芯まで届いていないことが分かった。表面だけが少女の体温で、内側は、あの地下の甘い匂いと同じ温度で眠っている。外と内で違う温度を持つ金属を、レオは初めて握った気がした。

「下がっていろ」

「いる」

 少女は即答した。

「扉の向こうにいたのは、わたしの番だった」

 意味は分からない。だが、問い返さなかった。問うべきことは、扉の奥にすべて揃っている。

 レオは鍵穴に、錆びた先端を差し込んだ。抵抗はなかった。まるで、鍵の方が穴を覚えていたかのように、ひとりでに沈んでいく。指先に、冷たい反発が一度だけ伝わった。封印印が、侵入者を一瞬だけ値踏みした感触だった。

 回す。

 カチリ、と、思ったより小さな音が鳴った。

 その瞬間、扉の継ぎ目から、白い蒸気が細い線になって噴き出した。硫黄と、銀泥と、甘い培養液の匂い。レオは反射的に少女を背に庇い、試薬瓶を握り直した。残り一本。いや、少女の足元に置いてきた一本を回収する暇はない。事実上、これが最後だ。瓶の硝子は、掌の汗で曇っていた。指の腹で栓の蝋を確かめる。割れていない。まだ使える。それだけが、今この瞬間、彼の手に残された確かなものだった。

 扉は、重かった。鉄の芯に鉛を挟んだ構造。肩で押すと、蝶番が軋み、石畳の埃が細かく舞った。隙間が、人ひとり分だけ開いた。

 その向こうに、広い空間が沈んでいた。

 松明ではない、青白い光が、天井の何処かから落ちている。錬成光だ。触媒の燃焼で得られる、熱を持たない光。その光の下に、ガラスの円筒が並んでいた。数えようとして、レオはやめた。数えれば、観察者の手が震える。

 円筒の中には、人が浮いていた。

 男も、女も、子供もいた。目を閉じ、髪を液体の中で緩く漂わせ、胸がごく浅く上下している。腐ったシャツの持ち主が、いる。洗濯物を取り込みに出た女房が、いる。鍬を剣に持ち替えた若者の、消えた兄弟が、きっと、いる。

 レオは扉の縁を握りしめた。指の節が白くなり、錆が掌に食い込んで、わずかに血が滲んだ。その痛みだけが、今の彼をかろうじて観察者の側に繋ぎ止めていた。

 背後で、少女が、初めて小さく息を吐いた。

「……ただいま」

 そう、呟いた。

 レオの耳は、その声を聞き逃さなかった。ただいま、と、この子は言った。帰ってきた、と言った。円筒の中の誰に向かって言ったのか、それとも、この地下そのものに向かって言ったのか。

 問う前に、奥で、金属の擦れる音がした。

 青白い光の、最も遠い一角。円筒の列の向こう側で、何かが身じろぎした。人の形をしている。だが、肩の線が歪んでいる。片腕が、腕ではない。六つに割れた指。金属の爪。路上のぬかるみに刻まれていた、あの蹄跡の持ち主と、同じ機構。

 錬成獣ではない。

 錬成兵だ。しかも、見張りではない。眠っていた個体が、今、扉の開く音で起きた。

 レオは少女の手首を掴んだ。細い。折れそうなほど細い手首だった。

「走れるか」

 少女は、走らなかった。ただ、レオの手を握り返した。握り返す力は、意外なほど強かった。

「開けたから、もう、戻れない」

 少女の声は、静かだった。

「次の層は、あなたの名前で封じられてる」

 青白い光の奥で、錬成兵の爪が、石畳を一度、硬く掻いた。

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