第1話
第1話
雨。
鉛色の空から落ちる針のような雫が、ぬかるんだ街道を叩いていた。レオは外套の襟を立て、路肩の岩陰に背を預ける。息を殺し、耳を澄ます。
外套の裾からは、もう何刻も前から雨水が滴り落ちていた。革の継ぎ目は限界まで吸い込み、肩から背にかけて、冷たい布の感触がぴたりと貼りついている。指先の感覚は鈍り、爪の先が青白い。空腹と寒さは、もはや意識の底に沈めて忘れたふりをするしかなかった。
蹄の音。三頭。間隔が揃いすぎている。
追っ手か。いや、違う。軍馬の蹄鉄は一定のリズムを刻まない。これは訓練された使役獣の歩調だ。王都の騎士団でもない。傭兵でもない。
耳の奥で、かつて聞いた実験室の時計の振子が重なった。カチ、カチ、カチ──狂いなく刻まれるその音は、自然のものではない。生き物の歩みには必ず揺らぎがある。疲れ、呼吸、地面のわずかな傾き。それらを均す何かが、この蹄の主を操っている。
レオは懐に手を差し入れた。指先に触れる三本のガラス管。最後の試薬。これを失えば、ただの無力な追放者に戻る。
ガラスの冷たさが、皮膚越しに妙に熱く感じられた。三本の重みは、彼がかつて持っていたすべての権威と引き換えに残された、最後の尊厳でもあった。
蹄跡。
目の前のぬかるみに、奇妙な形の窪みが連なっていた。六つに割れた蹄。通常の馬ではない。錬成獣だ。王都錬金術庁が管理するはずの、禁制の使役生物。
なぜ、こんな辺境に。
レオは膝を折り、指先で窪みの縁をそっとなぞった。泥は新しい。まだ雨に溶けきっていない。通過したのは半刻も前ではないはずだ。六つに割れた蹄の奥には、細い筋状の痕が残っている。金属の爪。錬成獣の前肢に組み込まれた、地面を掴むための補助機構だ。資料でしか見たことのない仕様。それが現実の泥の上にあった。
鼻先に、かすかな匂いが漂う。血ではない。鉄でもない。薬品──硫黄と銀泥の混合臭。かつて実験室で嫌というほど嗅いだ匂いだった。
その匂いは、記憶の蓋をこじ開ける。白い長衣、銀縁の眼鏡、机に広げられた禁書の頁。恩師の背中。同僚の嘲笑。そして、最後に自分の胸に押された烙印の、焼ける肉の臭い。レオは奥歯を噛みしめ、記憶を雨の中に押し戻した。今は過去を噛む時ではない。
レオは目を細めた。観察者の目が、捨てられた土地に刻まれた嘘を剥がしていく。雨に流されたはずの足跡が、不自然に途中で消えている。誰かが消した。
しかも、消し方が雑だ。急いでいた。あるいは、消す者自身が追われていた。泥の表面だけを撫でて均し、その下の層までは手を入れていない。王都の諜報員ならこんな仕事はしない。これは、現場で場当たり的に隠蔽を迫られた誰かの仕業だ。
「……流刑地、か」
唇の端が歪んだ。笑いではない。侮蔑でもない。ただの確認だ。
この土地は、ただの辺境ではない。何かが隠されている。隠した連中は、きっと自分を追放した連中と同じ顔をしている。
蹄の音が遠ざかった。レオは岩陰から身を起こし、路地裏へと足を滑り込ませる。
街はすぐそこだった。
灯りの少ない石畳。閉じられた鎧戸。軒先に吊るされたままの洗濯物は、雨に打たれて腐りかけている。昨日や今日の話ではない。少なくとも半月、誰も取り込んでいない。
それは麻のシャツだった。子供のもの。袖口が小さく、胸元には素朴な刺繍がある。母親が縫ったのだろう。腐って垂れ下がった布の端から、茶色い滴が石畳にぽたりと落ちた。レオは一瞬、そのシャツから目を逸らせなかった。取り込むはずだった手が、半月前に失われている。その事実だけが、静かに突きつけられていた。
住人がいない家。いや、いるのに出てこない家。
鎧戸の隙間から、ほんのわずかに、人の息遣いのような気配が漏れていた。だが誰も灯りを点けない。誰も覗かない。街ごと、息を潜めている。
レオは角を曲がり、軒下に身を寄せた。頭上の看板が軋む。宿屋の印。だが扉の隙間から漏れる灯りは弱く、中の気配も希薄だ。
「──止まれ」
背後。
低い声。金属の擦れる音。剣の鞘を払う音だ。
レオは振り返らない。両手をゆっくりと外套の内から抜き、胸の前で開いた。敵意はない、という合図。だが指先は、既に一本の試薬瓶を握りしめている。
「旅の者だ。宿を探している」
「この街に、旅人は来ない」
声が近づく。革靴の足音。二人。いや、三人。
「半年前からな」
ピクリ、とレオのこめかみが動いた。
半年。その数字は、追放された自分の記憶に刺さっている。嘱望された地位を追われ、烙印を押され、王都から放逐されたのが、ちょうど半年前だ。
偶然か。いや、観察者は偶然を信じない。半年前に王都で何かが決まり、半年前にこの街で何かが起き、半年前に自分が追い出された。三つの点が同じ時期に並ぶなら、それは一本の線を描いている。誰かの意志という線を。
「……何があった、半年前に」
「それは、旅人が聞くことじゃない」
剣先が、背中に触れた。
布越しに、冷たい点が一つ。呼吸に合わせて、その点はわずかに上下する。剣を持つ手は震えていない。だが、その上下の幅が少しだけ広い。恐怖ではない。緊張だ。この男たちも、何かに怯えている。背後のレオにではなく、もっと別の何かに。
レオは呼吸を整える。三人。距離は後方三歩、左側面五歩、右側面四歩。右が一番若い。迷いがある。踏み込みが浅い。
右の男の息遣いは速く、浅い。初めて人に剣を向けた者の呼吸だ。左の男は落ち着いているが、足を半歩引いている。逃げる準備。背後の男が一番厄介だ。息が聞こえない。訓練されている。
そこだ。
レオは身をかがめざま、右手の試薬瓶を石畳に叩きつけた。
白い煙。
硝石と鉛華の混合。無害な目くらましだが、訓練されていない者には充分すぎる。若い兵士が短く叫び、他の二人が怒号を上げた。
煙の中で、レオは若い男の肩に触れるほど近くを擦り抜けた。汗と油の匂い。安物の革鎧。この男は、おそらく元は農夫だ。剣の握り方に農具の癖が残っている。半年前、何かが起きて、鍬を剣に持ち替えさせられた男。
レオはもう走り出している。
路地の奥へ。闇の深い方へ。観察で割り出した逃走経路へ。雨の音が足音を消してくれる。ぬかるみが靴底に絡みつくが、構わない。
肺が焼けるように熱い。こめかみで脈が鼓膜を叩く。それでも足は止めない。止めた瞬間に、この街の沈黙に飲み込まれる気がした。
角を二つ曲がり、三つ目の角で、彼は止まった。
目の前に、崩れかけた礼拝堂が立っていた。
半ば崩落した屋根。風雨に削られた聖人像。鐘楼はひしゃげ、扉は片方が外れて地面に転がっている。人が近寄った形跡はない。少なくとも、表向きは。
だが、レオの目は見逃さなかった。
扉の縁、苔の生えた石畳の一部だけが、わずかに擦れて光っている。誰かが、ごく最近、何度もここを出入りしている。
苔の削れ方は、靴底の幅と一致していた。大人の男の足ではない。もっと小さい。女か、子供か。しかも、一度や二度ではない。毎日、決まった場所を踏んでいる者の癖だ。
雨が、一瞬止んだ気がした。
礼拝堂の奥、祭壇の裏側。崩れた石材の隙間から、下へと続く階段が覗いていた。地下聖堂。この規模の辺境教会に、地下堂があるはずがない。
レオは階段に足をかけた。
石段は湿り、足裏にぬめりが伝わった。壁に手をつくと、指先に刻まれた古い文字が触れる。崩れかけているが、かろうじて読める。古代錬金術の封印呪。しかも、外からの侵入を阻むためのものではない。中にいる何かを、外に出さないための呪だ。
三段下りたところで、匂いが変わった。
硫黄。
かすかに、人の呼吸。
そして──薬品。間違いない。自分がかつて調合していた、古代錬金術の触媒臭だ。この世に存在してはならないはずの、禁呪の匂い。
心臓が、ひとつ大きく鳴った。
恐怖ではない。怒りでもない。観察者の直感が、警鐘を鳴らしている。ここから先は、戻れない一線だ。踏み越えれば、追放された身分さえも捨てることになる。
追放者が、さらに何を捨てられるというのか。自嘲が喉の奥で小さく揺れた。だが、同時に分かっていた。捨てるものはまだある。観察者としての中立。第三者としての距離。この階段を下りれば、もう傍観者ではいられない。
レオは懐の試薬を数えた。残り二本。
足りない。だが、十分だ。
階段の奥、松明の揺れる淡い光の向こうに、何かが動いた。
小さな影。人間だ。子供──いや、少女。
銀色の髪が、闇の中で濡れたように光っていた。怯えはない。驚きもない。まるでレオが来ることを知っていたかのように、少女はゆっくりと振り向いた。
その瞳は、年齢に似合わぬ静けさを湛えていた。泣き疲れた子供の目でもなく、怯える獲物の目でもない。何かを見届けるためだけに残された、証人の目だった。
その細い手の中で、錆びた鍵が、ちりん、と鳴った。