第2話
第2話
大理石を踏む一歩ごとに、私の背中でアレクシスの声が遠ざかっていく。華やかなワルツの一音目が、シャンデリアの光を揺らす。人垣はまだ私に気づいていない。ただ、扇の陰で囁き合う夫人たちの視線だけが、風向きを読むように、ちらちらとこちらへ流れ始めていた。
影の中の男は、もう壁から完全に離れていた。腕を組み、片方の眉をわずかに上げて、こちらへ歩いてくる私を観察している。面白がっている、と言うにはあまりに静かな表情だった。ただ、見ている。雪原に迷い込んだ一輪の花を、どう扱うか決めかねている獣のように。
近づくほどに、背が高いのだと気づく。見上げなければ目線が合わない。襟元の金の勲章が、間近で鈍く瞬いた。軍服の布地には、ほのかに夜気と、どこか遠い国の煙草の匂いが染みている。
「……ヴァルド陛下」
喉の奥が、からからに乾いていた。呼びかけるだけで、声が掠れた。前世ではついに一度も呼ぶことのなかった名前だ。それが、いまは驚くほど自然に舌に載った。
金の瞳が、わずかに瞠られる。
「よく分かったな。俺は今夜、名乗らぬ約束で来ている」
低い声だった。獄の夜、鉄格子の向こうで聞いたあの声。胸の奥の、六年前に縫い留めたはずの傷口が、一度だけ脈を打った。
——ああ、やっぱり、あなただ。
目の奥が熱くなるのを、私は奥歯を噛んで堪えた。ここで泣いたら、すべてが台無しになる。いま、この人の前に立っているのは、鉄錆の味を知る女ではない。社交界にデビューしたての、十六のセレスティア・エルフォードでなくてはならない。
震える手を、胸の前で重ねた。震えを隠すのではなく、震えごと差し出すように。
「あの、」
一拍、息を継ぐ。
「……わたくしと、一曲、踊ってくださいませんか」
***
言葉が零れた瞬間、近くの柱のあたりで、誰かが息を呑む音がした。扇の陰で囁いていた夫人たちが、一斉に口を噤む。楽団のワルツだけが、何も知らずに華やかに転がっていく。
レオンハルトは、動かなかった。
組んでいた腕をゆっくりと解き、私の指先に視線を落とす。白い手袋の、かすかに震える指。その震えを、彼の金の瞳が丁寧になぞった。まるで、そこに書かれた文字を読み解こうとするように。
「——それは」
彼の唇が、ほんの少し動いた。
「随分と、勇ましい申し出だな。伯爵令嬢」
勇ましい、ではなかったと思う。本当は、無謀、と言いたかったのだろう。他国の、しかも名乗らぬ皇帝に、社交界デビューの小娘がいきなりダンスを申し込む。それも、正式に紹介された婚約者を会場に残して。明日の朝刊には、この夜会の話題としてひと晩で五つは噂が立つ。
分かっている。分かっているから、震えている。
けれど私は、視線を落とさなかった。
「……無謀だと、仰るのでしょうね」
声が、少しだけ湿った。
「でも、今夜この一曲を逃したら、わたくしはきっと、一生後悔する気がいたしますの」
嘘ではなかった。前世で逃した。気づかぬまま逃して、鉄格子の向こうに差し込まれた白薔薇でやっと思い出した。その花の香りを抱いたまま、朝、私は引きずり出された。
この一曲は、その続きだ。六年越しの、続き。
レオンハルトの喉が、かすかに動いた。何かを呑み下すように。それから、彼は——笑った。
上品な微笑ではなかった。社交界の男たちが淑女に向ける、型通りの微笑でもなかった。唇の端が、片方だけ鋭く持ち上がる。獲物を見つけた獣が、自分でも思いがけず嬉しくなってしまったような、そんな獰猛な微笑。金の瞳の奥で、退屈の膜が一枚、剥がれ落ちるのが見えた。
「——いいだろう」
彼は、片手を差し出した。
「君の後悔とやらを、俺が請け負おう」
大きな掌だった。指の節が硬い。剣を握る手だ。私は震える指を、その上にそっと乗せた。乗せた瞬間、彼の指がしっかりと、私の手を包み込む。力加減を間違えれば折ってしまえる力が、ぎりぎりの優しさで留められているのが分かった。
——つかまえた、と、どこかで思った。
同時に、——つかまった、とも思った。
どちらが正しいのか、このときの私には、まだ分からなかった。
***
楽団が、ちょうどワルツの導入を終えたところだった。彼に手を引かれて、私は会場の中央へ進み出る。人波が、海が割れるように左右へ開いていく。誰も、誰も、言葉を発しない。扇の音さえ止んだ。ただ、視線だけが、何百本もの細い針のように私の背に刺さる。
見えない場所で、アレクシスがこちらを見ているのが分かった。振り返らずとも分かる。空気の温度が、背後だけ一段低い。前世の私なら、その視線を感じた瞬間に膝が砕けて、「ごめんなさい」と駆け戻っていただろう。
いまは、戻らない。
中央で、レオンハルトが足を止めた。私の腰に、彼のもう一方の手が回される。布越しでも分かる熱さだった。軍服の肩章の金が、私のすぐ目の前で光る。見上げると、金の瞳が、至近距離で私を捉えていた。
「——震えているな」
囁くような声。ワルツの旋律が、私たちの足元で膨らむ。
「氷のように冷たいのに、震えている。令嬢、君は一体、何に震えている?」
答えられるはずがなかった。あなたに、と答えれば嘘になる。あなた以外のすべてに、と答えれば、この六年が零れ落ちてしまう。
私は、ただ微笑んだ。前世では一度も作れなかった類いの微笑みだった。唇の端だけを、ほんの少し持ち上げる。目は、笑わない。
「……一曲の間だけ、忘れさせてくださいませ」
彼の瞳の奥で、何かが、ひたりと止まった。
それから、ステップが始まった。
最初の一歩を踏み出した瞬間、彼の動きの確かさに息を呑んだ。軍人のリードだった。華やかさよりも、正確さ。相手を決して転ばせない、計算された重心移動。私の未熟なステップを、彼の身体が吸収して、かたちを整え直していく。裾が、くるりと翻る。シャンデリアの光が、銀糸の刺繍を砕くように散らした。床を擦る絹の衣擦れが、自分の鼓動と重なって鼓膜の奥で響く。彼の軍服から立ちのぼる夜気と遠い煙草の香りが、ターンのたびに頬をかすめ、私の呼吸を、ほんの少しだけ浅くした。腰に添えられた掌の熱が、布越しに、じわりと背骨まで染みてくる。
視界の隅を、人々の顔が流れていく。
年嵩の侯爵夫人が、扇を取り落としかけていた。未婚の令嬢たちが、顔を真っ赤にして隣の友人の袖を引いている。父の姿は——見たくなかったから、見なかった。そしてアレクシスは——一度だけ視界に入った。
彼の顔は、歪んでいた。
人の好さそうな青い瞳が、見たこともないほど冷たく凍って、私と、私を抱く他国の皇帝を睨みつけていた。口元は笑おうとして失敗していた。柔らかな金髪の下の、初めて見る彼の素顔。所有していたはずの玩具が、勝手に他人の腕の中で回っている——そんな、子どもじみた怒り。
いい気味だ、と思うより先に、背筋がぞくりと冷えた。
前世のアレクシスが本性を剥き出しにしたのは、断頭台のずっと前、私を地下牢へ引き渡した夜のことだった。その夜の顔に、いまの表情は、ほんの少しだけ似ていた。
ターンの勢いで、彼の姿が視界から外れる。代わりに、間近に戻ってきたのはレオンハルトの金の瞳だった。
「——あの男が、君の婚約者か」
低く、囁くように、彼が言った。
「ずいぶんと、物欲しそうな顔で君を見ている」
私は、唇だけで答えた。
「ええ。——けれど、今夜だけは」
息を、ひとつ。
「わたくしは、誰のものでもありませんわ」
レオンハルトの手が、私の腰で、ほんのわずかに力を強めた。ぎりぎり、痛くない。痛くないのに、そこから熱が、背骨をつたって登ってくる。曲の終わりが近づいていた。最後のターンで、彼は私を大きく回し、引き戻した。引き戻された瞬間、私たちの距離は、礼儀作法で許される限界のさらに半歩内側にあった。
彼の唇が、私の耳元のすぐそばで止まる。
***
「——いいだろう、伯爵令嬢」
金の瞳の奥で、小さな火が灯るのが見えた。
「君の後悔を、俺が一つ残らず拾ってやる。その代わり、」
囁きが、耳の縁をくすぐる。
「今夜、君が俺に何を見せようとしたのか——俺はこれから、じっくり確かめさせてもらう」
曲が、終わった。
拍手は、一拍遅れて起きた。誰もが、何を見たのか分からないまま、手を叩いていた。私はドレスの裾を摘まみ、深く礼をする。顔を上げたとき、彼の金の瞳はもう、退屈の色を完全に失っていた。
人垣の向こうで、アレクシスが一歩、こちらへ踏み出すのが見えた。歪んだ笑みを無理やり顔に貼りつけて。その隣、柱の陰で——義妹リディアが、扇の縁から覗く瞳を、獣のように細めていた。
——始まった。
氷のように冷たかったはずの指先が、いまはもう、燃えるように熱い。私はその熱の意味を、まだ知らないふりをして、静かに顔を伏せた。