第3話
第3話
朝の光が、レースのカーテン越しに枕元へ落ちてきた。
目を開けた瞬間、私は自分がどこにいるのか一拍わからなかった。天蓋のくすんだ薔薇色の布。窓辺で小鳥が鳴く声。磨かれた銀のサイドテーブルに、昨夜脱いだ耳飾りがきちんと並べられている。それらのひとつひとつが、昨日までは永遠に失われたと信じていたものだった。
——夢では、ない。
指先を、そっとシーツに滑らせる。麻の糸の、柔らかな粒立ち。喉の奥から、ほとんど声にならない息が漏れた。昨夜の熱が、まだ指の腹に残っている。腰に添えられた掌の、ぎりぎりで抑えられた力。耳元で囁かれた低い声。
——今夜、君が俺に何を見せようとしたのか、じっくり確かめさせてもらう。
ふと思い出しただけで、鎖骨の奥が小さく鳴った。私は掌で胸元を押さえ、眉を寄せた。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。あの人は手札だ。道具だ。私の復讐のために使う、一枚の鋭いカードだ。それ以上でも、それ以下でも、あってはいけない。
言い聞かせているうちに、扉の向こうで侍女のノックが鳴った。
「お嬢さま、お目覚めでいらっしゃいますか。……あの、」
声が、妙に上擦っていた。普段の彼女なら、朝の挨拶は歌うように滑らかで、決して言葉を途中で切ったりはしない。その彼女が、ひとつの単語を口にしかねて、扉の向こうで息を整えている。
「——お届け物が、届いておりまして」
***
居間の中央のテーブルが、花に沈んでいた。
扉を開けた瞬間、香りが顔をぶつけてきた。朝露を含んだ、重たいほど濃い薔薇の匂い。深紅、というのも足りない。血のような、と言えば禍々しすぎる。夜明けの空に最後まで残る、あの、黒に近い紅。数えきれないほどの蕾と、開ききる寸前の花が、無造作に見えて完璧な均衡で束ねられている。触れれば指先を切りそうなほど鋭く整えられた棘の処理。花弁の縁に残った朝露が、磨かれたテーブルの上にぽつりぽつりと落ちて、まるで誰かがここで泣いた跡のように見えた。
侍女が、両手を揉みしだきながら囁いた。
「……朝一番に、名もない使者が届けてまいりました。お受け取りのお名前はセレスティアお嬢さまのみ。差出人は、書かれておりません」
書かれていなくても、分かった。
束の中央、一輪だけ白い薔薇が紛れていた。他の紅の中に、ぽつりと、月のかけらのように。獄の鉄格子の向こうから差し込まれた、あのときと、同じ花だった。
私は、息を止めた。
胸の内側で、何かが、静かに崩れ落ちる音がした。崩れたのは六年前に凍らせた場所だ。あの夜、獄で、あの白薔薇だけを抱いて朝を待ったときの私——藁の冷たさ、鉄の錆びた匂い、遠くで響く見張りの足音、そして指の中でだけ息づいていた、たった一輪の白い花。その場所が、どうしてか、いま、ここで溶け始めている。こんなに早く、こんなに容易く。まずい、と、頭のどこかで警鐘が鳴った。凍らせておかなければ、私は歩けない。溶かした足で、あの断頭台へ続く道を、もう一度踏み直すことなんてできない。爪の先が、無意識に掌に食い込んでいた。痛みで正気を引き戻す——それは、獄の夜に覚えた、たったひとつの護身術だった。
「……お嬢さま、あの、こちらも」
侍女が、震える指で差し出したのは、封蝋の施された薄い封筒だった。封蝋は、見覚えのない紋章。双頭の獅子と、剣。ヴァルド帝国の、皇家の印。
私は、無言でそれを受け取った。指先に伝わる蝋の硬さが、やけに生々しかった。
侍女を下がらせ、扉が閉まるのを待って、ようやく封を切る。紙は厚く、指に吸いつくような上質のもの。爪の先で蝋を割ると、小さな、乾いた音がした。その音が、やけに大きく、部屋の静けさに響いた。インクは黒。几帳面とも無造作ともつかない、強い筆圧の文字が、たった二行だけ記されていた。紙の繊維にまで押し込まれるような、その筆圧そのものが、書き手の気配を伝えてくる。
『昨夜、君の瞳の奥で、火が燃えていた。 ——その炎の正体を、俺は知りたい』
署名は、ない。
けれど、必要なかった。
私は手紙を持ったまま、しばらく動けなかった。指先だけが勝手に震えて、厚い紙の上で小さな音を立てる。ひと晩で、ここまで踏み込んでくる男は、そうはいない。社交辞令でもない。恋文でもない。これは、ただの、——宣戦布告だった。
君の炎の正体を、知りたい。
それは、君が何を抱えてここへ戻ってきたのか、すべて暴いてやる、という意味でもある。前世の獄で名乗らなかった男が、今世では、朝一番にこうして自分の名を伏せたまま、それでいて隠しきれない印を押して送り込んでくる。名乗らないことで、逆に名乗っている。差出人を書かないことで、書くよりも強く、ここにいる、と告げている。——そういう男だ。昨夜、テーブルの下で私の手首を掴んだあの力の強さと、同じ質の意思が、この二行から立ちのぼっていた。紙を持つ手が、ほんのわずかに汗ばんでいるのを、私はようやく自覚した。
——追い詰められているのは、私のほうかもしれない。
そう気づいた瞬間、奇妙なことに、唇の端がわずかに持ち上がっていた。恐ろしいのに、嬉しいような、そんな、名前のない感情だった。前世の獄で、白薔薇の香りに縋って泣いたあの夜の自分に、いま、そっと伝えたかった。あなたを見ていた人は、ちゃんといた。あなたは、ひとりではなかった、と。鉄格子の外に、確かに、誰かの視線があった。それは憐れみでも同情でもなく、——見つけた、という類の、獲物を見定める視線だったのかもしれない。それでも、誰もいないよりは、ずっと。
——だめだ。
私はきつく目を閉じ、首を振った。睫毛の裏で、朝の光が赤くにじんだ。この感情に、名前をつけてはいけない。つけた瞬間、私の計画は砂のように崩れる。名づけないまま、鞘に納めたまま、刃としてだけ使うのだ。それが、六年前の私に対する、せめてもの礼儀だった。
***
鏡台の前に、立った。
自分でも気づかないうちに、足がそちらへ運ばれていた。手紙をテーブルに伏せ、薔薇の束を視界の端に押しやって、ただ、鏡の中の自分と向き合う。
——そこに、見知らぬ女が立っていた。
いや、違う。知っている。知りすぎるほど知っている。十六の、セレスティア・エルフォード。磨き上げられた象牙のような肌。青みがかった灰色の瞳。そして——腰の下まで、まっすぐに流れる、長い長い黒髪。
母の形見の色だった。父が、「お前の髪は母上譲りだ」と、幼い私の頭を撫でた、あの髪。婚約者だったアレクシスが、「君の髪は絹のようだ」と褒めた、あの髪。義妹リディアが、茶会のたびに「お姉さまの黒髪、羨ましい」と微笑みながら、決して真似しようとはしなかった、あの髪。
この髪が、私だった。
儚げで、従順で、言われるままに結い上げられ、言われるままに下ろされ、最後には縄で括られて断頭台に曝された、あの娘の、これが証だった。
鏡の中の娘の瞳が、静かに私を見返している。まだ、何も知らない顔で。まだ、誰も殺していない顔で。
私は、ゆっくりと手を上げた。
毛先を指に絡め取る。軽い。重い。覚えていた重さと、少しだけ違う。六年分の絶望を背負っていた頃より、ずっと軽い。けれど、この軽さごと、私はもう、耐えられなかった。指の間を滑っていく髪の一本一本が、父の掌の温度を、アレクシスの賛辞を、リディアの作り笑いを、ひとつずつ思い出させてくる。撫でられ、褒められ、羨まれ——そうして最後には、この同じ髪を、刑吏が縄で掴んで引き上げたのだ。うなじに食い込んだ麻の感触まで、指先が覚えている。
この髪のままでは、あの手紙に返事は書けない。
この瞳のままでは、あの金の瞳を見返せない。
この儚さのままでは、義妹の次の罠を、笑って踏み潰せない。
鏡の中の娘に、私は囁いた。声には出さず、ただ唇の形だけで。
——ごめんなさい。あなたは、ここで終わる。
娘は、何も答えなかった。ただ、灰色の瞳の奥で、昨夜レオンハルトが見つけたという、小さな火が、ゆらり、と揺れた気がした。揺れて、そして、消えなかった。
***
扉の外で、侍女の足音が止まった。
「お嬢さま。——あの、鋏を、お持ちいたしましょうか。髪を、お結いになるのでしたら」
勘のいい子だ。私の気配の変化を、扉越しに読んでいる。
私は、深く息を吸った。薔薇の香りが、肺の奥までしっかりと届いた。花の重たさと、紙のインクの匂いと、自分の髪からほのかに立ちのぼる昨夜の残り香が、ひとつに混ざって、喉の奥で小さく燃えた。
「ええ、持ってきて」
声は、驚くほど落ち着いていた。
「——結うためではなく、切るための鋏を」
扉の向こうで、侍女が息を呑む気配がした。ほんの一拍、言葉を探すような沈黙。それから、「……かしこまりました」と、覚悟を決めたような、低い返事。
鏡の中の黒髪が、朝の光に、最後の艶を返していた。