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断頭台から始める復讐舞踏会

第1話 第1話

第1話

第1話

首筋に、刃が触れた。

 鉄の匂いが鼻の奥を刺す。広場のざわめきも、石を投げる子どもの歓声も、神父の祈りも、すべてが水の底で聞くように遠い。ただ、うなじに落ちる冬の光だけが妙に鮮明で、私は——セレスティア・エルフォードは、最後に空を見ようとした。灰色の雲。その切れ間から差す一筋の陽。ああ、私はここで死ぬのだ、と、六年ぶりに自分の人生を他人事のように受け入れた。

 二十二年。たった二十二年しか、私は生きていない。それなのに、最後に思い出せるのは母の笑顔でも、幼い日の庭の薔薇でもなかった。ただ、鉄錆の味と、縄で擦れた手首の痛みと、紅い唇の端で微笑む義妹の横顔だけ。

 婚約者だった男は、笑っていた。義妹は、泣き真似をしていた。父は、顔を背けた。

 その顔を、私は永遠に忘れない——そう思った瞬間、刃が、落ちた。

 視界が白く弾ける。

 けれど、痛みは来なかった。代わりに、耳の奥で弦楽四重奏の旋律が膨らんだ。シャンデリアの光。磨かれた大理石。甘いシャンパンの泡の匂い。どこかで笑う女の声。足元でふわりと広がる、銀糸の刺繍の重み。肩口をくすぐる、自分の髪の柔らかな感触。首にかかる重いはずのペンダント。そのどれもが、断頭台の朝には失われていたものだった。

 ——夜会?

 私はゆっくりと視線を落とした。白い手袋。指輪のない薬指。まだ、細く柔らかかった頃の自分の手首。そこに嵌められているのは、十六の誕生日に父から贈られた真珠の腕輪だった。六年前に壊して、二度とつけなかったはずのもの。真珠の一粒一粒が、記憶よりずっと温かく光を返してくる。

 息ができない。胸の奥が、押し上げられるように鳴る。私は震える手で、近くのテーブルに置かれていたクリスタルのグラスに触れた。冷たい。本物の冷たさだ。指の腹に、ちゃんと水滴が滲む。爪の先で硝子を弾けば、きぃん、と澄んだ音が返る。幻ではない。夢でもない。この指は、この身体は、間違いなくここにある。

 ——戻って、きた。

 声にならない呟きが、喉の奥でひび割れた。断頭台の夜から、六年前。私の社交界デビューの夜会へ。

 神さまが、悪魔が、それとも前世で差し入れられた白薔薇の香りが——誰の手によるものかは分からない。分からないけれど、もう一度、あの顔ぶれが目の前に並んでいる。生きたまま、まだ何も奪われていない顔で。

***

「セレスティア、どこへ行っていたんだ」

 背後で、作り物の声がした。振り向かなくても分かる。アレクシス。エルフォード伯爵家に婿入り予定の、私の婚約者。やわらかな金髪に、人のよさそうな青い瞳。社交界中の令嬢が「あんな優しい方」と溜め息をつく、あの男。

 六年後、私の断罪を微笑みながら見届けた、あの男だ。

「お姉さま、お顔の色が悪いわ」

 隣から上目遣いを寄越すのは、義妹のリディア。栗色の巻き毛と、濡れた子犬のような瞳。淑やかに唇を噛んで、姉を案じるふりをする。この瞳に、私は何度騙されただろう。この唇から、どれほどの嘘を注ぎ込まれただろう。

 喉の奥が、熱い。吐きそうなほど、熱い。舌の付け根に苦いものがせり上がる。それを、私は奥歯で噛み砕くようにして、呑み下した。

「……大丈夫よ」

 自分でも驚くほど静かな声が出た。六年前のあの夜、私はもっと上擦っていた。頬を染め、婚約者の腕にすがりつき、義妹の髪を褒めた。なんて愚かな娘。自分の破滅を、自分の手で丁寧に編み上げていた娘。

 いま、私の指先だけが、氷のように冷たい。その冷たさだけが、私を現実に繋ぎ止めている。熱くなったら終わりだ。涙が出たら終わりだ。この二人の前で感情を零した瞬間、彼らは必ずそこに指を差し込んで、もう一度同じ筋書きを書き始める。

「少し、風に当たってきます」

 無意識に、紅い唇の端が上がった。アレクシスが一瞬、戸惑った顔をした。こんな微笑み方をする婚約者を、この男は知らない。当然だ。前世の私は、この男の前でこんなふうに笑ったことが一度もなかったのだから。リディアの瞳の奥が、ほんの刹那、揺れた。気づいた。この子は勘がいい。獣のように、ひとの弱みと変化を嗅ぎ分ける子だ。

 ——気づけばいい。気づいて、怯えればいい。

 大理石の床を、ゆっくりと踏む。一歩ごとに、頭の芯がはっきりしていく。踵の音が、自分の心臓の音と重なる。とく、とく、とく。生きている音だ。まだ、何もかもを取り戻せる音だ。

 ——今度こそ、全員に報いを受けさせる。

 誰にも聞こえない声で、私は誓った。ドレスの裾の下で、もう震えは止まっていた。

***

 人混みを縫って歩きながら、私は記憶を手繰る。あの夜、ここで何が起きた。誰がどこに立ち、誰が誰に囁き、そして——誰が、遠くから私を見ていたのか。

 扇で口元を隠した夫人たちの笑い声。葉巻の煙。薔薇の香水。それらを一つ一つ剥がしていくように、私は記憶の層を掘り下げる。六年分の絶望の底に、たしかにあったはずの小さな違和感。あの夜、私は一度だけ、誰かの視線を感じた。華やかな灯りの外側から、静かに、まっすぐに注がれる視線を。

 大広間の奥、柱の陰。楽団の音が届かない、ほんのわずかな影の溜まり。

 そこに、いた。

 漆黒の軍服。襟元に鈍く光る、金の勲章。長身を気だるげに壁に預け、退屈を隠しもしない横顔。照明を浴びてなお翳を纏うような、夜の色の髪。そして——こちらに向いた瞬間、私の呼吸を奪った、気怠げな金の瞳。

 レオンハルト・ヴァルド。

 隣国ヴァルド帝国の、若き皇帝。

 前世の私は、この夜会で彼の存在すら知らなかった。気づいたのは、すべてを失って石の床に転がされた後だった。鉄格子の向こうから、名乗りもせずに一輪の白薔薇を差し入れた男。獄の闇で、私はその花だけを胸に抱いて、夜を越えた。顔もよく見えなかった。ただ、低い声で「君の瞳の色を、覚えておく」と言った、あの人。

 あれが、この人だったのか。

 視界が、滲む。慌てて目を伏せ、シャンパンの泡の中に沈めるふりをした。違う、泣くな。ここで崩れたら、また同じ夜が来るだけだ。泡が唇に触れる。冷たくて、少しだけ苦い。その苦みを噛みしめて、私は息を整えた。

 顔を上げると、金の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。

 退屈そうだったはずのその瞳が、ほんのわずかに、細められている。まるで、思いがけないものを見つけた獣のように。壁から身を起こした彼の指先が、ゆっくりと、私のいる方向をなぞる。

 心臓が、一度だけ大きく跳ねた。

 アレクシスでも、父でも、義妹でもない。私の人生のどこにも書かれていなかった男が、いま、私をまっすぐに見ている。六年前の夜会の、誰にも見つけられなかった影の中から。

 ——この人を、手札にする。

 そう決めたはずだった。決めたはずなのに、指先が熱い。氷だったはずの指が、どうしてか、じわりと熱い。その熱の名前を、私はまだ知らない。知りたくもない、と思いながら、視線だけはどうしても逸らせなかった。

***

「セレスティア」

 背後でアレクシスの声がした。少し苛立ちの混じった、慣れた所有の声。前世の私なら、即座に振り向いて謝ったはずだ。小鳥のように首を傾げ、「ごめんなさい」と微笑んで、この男の腕に指を絡めたはずだ。

 けれど、いまの私は振り向かない。

 視線の先で、金の瞳がこちらの逡巡を見透かしたように、わずかに笑った。壁から離れ、影の中からこちらへ、一歩。硬い靴音が、大理石を静かに打つ。その一歩の重さが、ほかの誰の足音とも違って聞こえた。

 楽団が次の曲を鳴らし始める。華やかなワルツ。六年前、私が婚約者と踊った曲。断頭台の朝に、夢の中で何度も繰り返し流れた、あの旋律。ヴァイオリンの一音目が、胸の古傷をそっと撫でていく。

 私は、グラスをそっとテーブルに置いた。硝子の底が大理石に触れ、ちいさな、けれど決定的な音を立てる。指先の震えは、もう怒りのせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、自分でも分からない。

 ドレスの裾を持ち上げ、私は影のほうへ、一歩を踏み出す。

 振り返らない。もう、振り返らない。

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